震えの保管

 びわ味のソフトアイスを買ってやな、明石海峡明石海峡大橋を一望できる席に座ったら、無性に写真を撮りたくなった、と遠くを見る目でいった彼は、今は普通のソフトアイスを相手にしていた。カメラも撮影の腕もないから、すぐにどうでもよくなったけどな、と彼は付け足す。
 どうでもよくなる程度の景色やったんか、と僕は訊いた。
 いんや、その逆やな、と彼は過去の記憶に焦点を当てた目のままで答えた。撮ったって、あとで見てみたらなんの感慨もわかんもんや。わかんかったら、それが全部になってしまう。記憶なんか最新が一番強いんや。特に視覚で訴えてくるもんには勝たれへん。そやから、曖昧なまま記憶するためには、画像なんかいらんのや。
 でも、綺麗やったらなんか形にしたいと思うやろ。僕の言葉に、彼は一瞬こちらを見て目を合わし、うんと頷いていう。そやねん。形っちゅうかな、まあ、言葉にしたろうと思うねん。でもあかんわ。なーんも思いつかんかった。海が綺麗や、若干夕焼けがかった空が綺麗や、橋が視界の一部を堂々と横切っとって立派や、てな、言葉にした端から、お前小学生かいてツッコミたくなるようなことしか思い浮かばんねん。そういうんは言葉にせんやろ、言葉にしたったら、俺、ホンマに小学生並っちゅうことになるやん。プライドやな。せやから、心のほうでは、なーんも思いつかんわあって俺にいうねん。俺もな、なーんも思いつかんなあ、としかいえんわな。
 そうだね、いえないね、心にも、他人にも、と僕は胸の内で彼の言葉に注釈をつける。この場合、他人というのは彼の話を聞いている僕のことだけど。
 そういうのはな、悔しいわな、正直。彼は再び遠くを見る目になって、続けた。美しいもん見てるのに言葉にでけへんっちゅうんはホンマに悔しいわ。でも、いうたかて以前よりずっとマシやで。前はな、悔しいどころやのうて辛かったからな。あれはホンマ、どうにかならんのかって苦しみやでなあ? なんかええ言葉があるはずやのに、なーんも出てけえへんやから堪らんわ。今は、いうほど苦しゅうなくなった。別に、もーどうでもええわって諦めたっちゅうんちゃうで。考え方が変わったんや。別にな、目の前の景色、言葉にできんでもええねや。そんかわりな、心で感じてるもんだけは覚えとこう思うてんねん。
 心で感じていること、と僕は彼の言葉を繰り返す。
 感じてるっちゅうかな、動きちゅうた方がええな。感動や。感動のことや。ただし、震えや。鳴門海峡大橋、綺麗やー、てな、感動するけどな、二つを別個に記憶すんねん。関連づけたらあかん。感動だけ取り出せるようにするねん。ちゅうのもな、俺な、ものを書くにあたっていっちゃん大事なんはモチベーションや思うとるからな。鳴門海峡は綺麗やったし、そのことを言葉にしてやりたかったけどな、ホンマのホンマ、根っこの根っこからのモチベーションは盛らんかったねん。まあ、そやろな。なんしか、そんなことでけへんでも死ねへんからな。でもな、これは書けんかったら俺死ぬっちゅうのがあんねん。いや死ぬっちゅうたら大袈裟やし嘘んなるけどな、書けんかったら泣きそうやとかな、消えてしまいたいわあいうのはあるねん。分かるやろ? そういうのを書くときにな、過去に記憶しといた感動を使うねん。たとえばやで、現実にはない風景を書こうとするやろ、そこで登場人物がその風景を見て、感動すんのやけど、そこにリアリティっちゅうもんをしこたま込めたろう思たらな、鳴門海峡大橋見たときの心の震えを引っ張ってきてやな、転用すんねん。そしたらやで、鳴門海峡大橋んときはいっこも言葉がわいてこんかったのにやで、小説書くときはドワーッてわいてきよるねん。正直、そういうんが快感でホラ話書くのが好きちゅうとこもあるぐらいや。
 彼は興奮している自分に気づいて、多少照れたように顔に手をやり、温かいお手ふきでも顔にあてがって拭うみたいに顔を触って呟く。あかんわあ、あかんなあ、こんなんちゃうんやで、俺のいいたいんは、言葉にしたのとはまたちょっと違うことなんや。でも、しゃあないなあ、しゃあないわあ。くやしいけどどうしようもあらへんからなあ。
 うん、うんと相づちを打ちながら、僕も悔しく思う。僕だって同じような体験があって、彼以上にそのことを語りたいのに、それを語れない。その場の流れに合わせて愛想良く頷いているようにしか見えないのじゃないかと思うと、もどかしくていけない。語りたい気持ちだけがあって、言葉は少しも集まらない。
 言葉がわいてこないというのは、と僕は、試しにいってみる。口から無謀に飛び出していった言葉が呼び水となって、あとから言葉がついてきた。言葉がわいてこないというのは、あるね、あるよ、それというのも、焦点をどこにあわせればいいのか分からないからだろうね、絵に描くなら構図が閃かないといけないように、言葉にするときも何か導きが必要なんだと思うよ、導きというのは、ときには君のいうモチベーションだったりするんだろう。いや、モチベーションというか、意味かな。君が小説を書くときとは違って、目の前の風景を言葉にする意味が君にはなかったんだよ。もっといえば、美しい風景に感動した心から距離を置く意味、ということだね。距離を置く、つまり、ちょっと冷静になれないことには、言葉にできないものだよ、感動が大きければ大きいほど、僕たちにはその全体像が掴めない。掴めないなら言葉にできなくて当たり前だ。そりゃ、もちろん、心の震えのまま、津波のように言葉を紡げたらという夢は、どうしても捨てきれないけどね。
 彼は、そう、それや、そういうことやな、と平手で膝を叩きながらいって、急に何か訝しんだ顔をして僕に目線をあげた。せやけど、お前、なんで関西弁で喋るのやめるねん。
 詩人は母国語でしか詩を書かれへんいうやないか。僕は関西人やけど、書き言葉に関しては関西弁やあらへんやん、仕方ないやろ。書くように考えて、書くように喋るときは、やで、お前、標準語になりますのや。と、僕は、君とか呼ばれたら気持ち悪いわい、と茶化す彼を叩きながらいった。