『いちねんせい』と僕

 あの奇妙な絵本が家にやってきたのはいつの頃であったか。とんと記憶にない。いつの間にか家にあった。母が買ったのではないらしいことは覚えているが、それすらも確かな事実とは言い難い。
 その絵本は題名を『いちねんせい』といい、小学生の頃、文字を読む楽しさに惹かれて目で追い、音読し、絵を楽しんだが、内容はちんぷんかんぷんだった。いいや、「ちんぷんかんぷん」などという表現を超えて珍妙であり、恐らくは「ちんぷんかんぷん」を超えた表現を私に促していたのかもしれない。
 
 私が高校生になった頃、本棚の整理中にその絵本を見付け、母に尋ねた。
「これ、いったいどうゆう本なん?」
 ちらっと読み返しても訳が分からない。
 母は答えた。
「詩の絵本やねえ」
 これを受けて私はえらく感心した。正体不明の「これ」が詩と言われれば、なるほど、これほど詩らしきものも他にあるまいと思われた。
 当時の私にとって詩とは国語の授業に学ぶ「あれ」であって、ぎらりと光る言葉のつぶてであるだとか、磨き抜かれたのであるのかそれとも原石であるのかも見抜きがたい面でもって無造作に図太く睨め付けてくるものであるといった印象はまるでなかったし、なんや頭がアホになるえろう心地よい音の響きやわあといった感想も抱いた試しがなかった。そういうわけで、『いちねんせい』を読み返したこのとき、私ははじめて詩というものを直視した。といっても、単に路上で偶然にすれ違うだけの関係から、朝すれ違ったときに軽く挨拶をする関係に変わった程度のことで、むしろ詩に対する誤解を深めてしまっただけの気もする。挨拶をするだけで彼を知っているような気分になった。*1
 
 

いちねんせい
いちねんせい
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谷川 俊太郎
小学館
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おすすめ度の平均: 4.0
3 タイトルのミス
4 幅広く楽しめるのでは・・・。
5 詩って楽しいと伝わります
5 読んで聞かせてあげたい

 
 
 そしてこの文章を書きながら作者を見てびっくり、「谷川俊太郎・詩」とあるではないか。今の今まで、少しおふざけで作った詩じゃないかと思っていたが、撤回します(笑)
 そうすると、この詩、純粋に一年生向けに作った作品なのだろうか。そうだとすると難しすぎる。小学生の時分は、奇妙きてれつな魔法の言葉に思われたし、大人がこんなでたらめなこと書いてもいいものかとどこかで思っていたような気がする*2。今だからこそプラモかミニ四駆のようにすべて解体してしまってここがこうといえるが、一年生が読んだなら宇宙人からの手紙もいいところ。
 でもきっと、私も子供に勧めるだろう。言葉はこんなにみょうちくりんなんだって。そうやって自分と同じような馬鹿に育てるのだ。
 
 
 
 ところで、詩を引用してもよろしいかしら?
 すべてを引っ張ってくるから引用でなくて転載か。
 子供はネットしないし、絵本だから絵までは引っ張ってこられないし、いいとしましょう。
 (言い訳終了!)
 

ぼく


 そくたつかきとめで ぼくはきた
 みらいの いつかから
 ぼくのめは だいやもんど
 ぼくのくちは ばらのはなびら
 
 あおぞらのとびらを あけ
 ほしのかけらを しゃぶる
 おとなのなくとき ぼくはわらい
 おんなのこに じぶんをまるごとあげる
 
 てのひらで たいへいようをすくい
 くじらに さんすうをおしえてもらう
 だれにも とめられない
 ゆめのなかで ぼくがまいごになるのを

 もう本当に意味が分からなかった。最後のフレーズの通りですべては夢の内容なのだが、小学生の僕はそれに気付かないし、気付いてからも、そのような夢の内容を記述することの意味が分からなかった。いや、そこまで辿り着けているならまだいい。それ以前はどこで区切るのかも分からないから、「速達書留で僕は来た、未来のいつかから。僕の目はダイヤモンド、僕の口は薔薇の花びら。」と分かつところを「未来のいつかから、僕の目はダイヤモンド」とやってしまい、なに、それ、なにそれにそれ、?、と四苦八苦していた。
 同じく収録されている《おっこちそうに とんでいるのは/ゆめのなかの きみ》で結ばれる『そら』も同様。
 
 
 

わるくち
 
 
 ぼく なんだいと いったら
 あいつ なにがなんだいと いった
 ぼく このやろと いったら
 あいつ ばかやろと いった
 
 ぼく ぼけなすと いったら
 あいつ おたんちんと いった
 ぼく どでどでと いったら
 あいつ ごびごびと いった
 
 ぼく がちゃらめちゃらと いったら
 あいつ ちょんびにゅるにゅると いった
 ぼく ござまりでべれけぶんと いったら
 あいつ それから? といった
 
 そのつぎ なんといえばいいか
 ぼく わからなくなりました
 しかたないから へーんと いったら
 あいつ ふーんと いった

 たいそう面白いんだけど、「大人が子供向けの本にこんなことを書く意味が分からない」と、このような言葉でものを考えていたわけではないにしろ、思っていて、何度も首をかしげさせられた。
 
 
 

くんぽんわん
 
 
 こいぬが くん
 きつねが こん
 きじなら けん
 ぴかぴか きん
 
 いたいよ ぴん
 おこって ぷん
 おいしい ぱん
 おてだま ぽん
 
 きばって うん
 すいっち おん
 まるいは えん
 おやいぬ わん

 これが分からなかった。要は音を楽しめと言うことなのだが、言葉にそのような楽しみ方があると知らない子供としては難解極まりない。動物と鳴き声が一致していることは分かっていて、手元の絵本には、「こいぬが」という文字と子犬のイラストを鉛筆で丸く囲み線で結んでいる。
 「いたいよ ぴん」が画鋲を踏んだ腕白小僧のイラストと一致していないので最後まで分からなかったのかもしれない。「きばって うん」も便座に腰掛けて頑張っている少年と結ばれていないので分からなかったのかも。あと、「おやいぬ」が「おや、犬」と「親犬」のどちらか悩んでいたことは覚えている。
 
 

はえとへりこぷたあ
 
 
 一せんちの はえは かんがえる
 二せんちの はえに なりたい
 
 二せんちの はえは かんがえる
 三せんちの はえに なりたい
 
 三せんちの はえは かんがえる
 五せんち五みりの はえに なりたい
 
 五せんち五みりの はえは かんがえる
 へりこぷたあに なりたい
 
 へりこぷたあは かんがえない
 かんがえたくても あたまがない
 
 あさの くうきを きりさいて
 ほてぱほてぱと とびまわる

 これを思い出して、この度のエントリを書くべくこの絵本を本棚から引っ張り出してきた。ヘリコプターのプロペラが空気を裂く擬音に「ほてぱほてぱ」は斬新すぎた。
 
 
 

カロンセのうた
 
 
 カンダラムジムジの うでにだかれて
 アリッタユキカユは しんだ
 チリンボランのはなを つんで
 テレメンギに そなえよ
 
 トリンクラの ふねは
 ラダのみなとを ふなでする
 すべてのヌイコネを つれて
 いまこそ サナンドのしまへ むかおう
 
 ああ われらのアリッタキユカユ
 あなたのくろいかみは へびとなる
 あなたのくちびるは いちごとなる
 トリメラよ そらにかがやけ

 これは今でも分からん(笑)
 イラストはどことなく神話的。
 誰か解説して下さいな。

*1:ていうか、本当に詩の概念を間違って身につけちゃってるような。奇妙な抑揚ばかりが詩のように思っている。時分で詩を作ってみて、これはポエムにもなっていないと思うことしばしばばしばしころりんちょ。

*2:そんな気がするが、今の私がでっち上げた気分かも。