The Long Goodbye

 レイモンド・チャンドラー作の『The Long Goodbye』は、2007年に村上春樹訳が『ロンググッバイ』の題名で出回っているため御存知の方も多いと思うが、私は清水俊二訳の『長いお別れ』で本作に触れた。私立探偵のマーロウ氏により一人称で語られるハードボイルドのミステリー小説だ。ミステリーを読んだのは久方ぶりだったし、ハードボイルドとなると実に久しぶりだったが、何が久しぶりなものか、もしかするとハードボイルドなんて読んだことがなかったのかもしれない――と考えさせられるほど、本作はハードボイルドしていた。

 《ハードボイルドしていた》などという表現は、笑止、とでも嘲られてもしようのない陳腐な表現ではあるが、主人公の行動原理がハードボイルドの原理に則していたと言いたいのではない。チャンドラーの、いや、マーロウの語りこそが、文章こそが、《ハードボイルドしていた》と述べたいのだ。彼の行動原理それ自体も、なるほどハードボイルドなのだが――一匹狼だし、喧嘩を避けられない状況でも臆さないし、警察に捕まっても動じないし、尋問の最中に暴力が混じっても折れないし、アルコールは飲むし、コーヒーは飲むし、モテやがってコンチクショウだし――それよりも、彼の気障ったらしさこそがハードボイルドの真骨頂なのだ。
 と、ハードボイルドに興味を示したことのない私が断言したところで、我ながら信憑性に欠けるとしか思えないのだが、それはさておき、マーロウ氏の語りのクサさにはニヤニヤせざるをえない。本書は53の章に別れていて――恐らくは何らかの媒体に一章ずつ連載されていたのだろう――ひとつの章の引きには必ず、強烈にクールな文句を添えてくるのだ。
 解説等を読むと、『長いお別れ』は、ハードボイルドというジャンルにしては珍しく社会風刺をしている点で評価されているのだそうだが、風刺内容それ自体はどこかで聞いたようなことであり、メインではなくって、要するに、マーロウ氏の気障なキャラを確立させる道具――つまり、世間の人は誰も彼も点数稼ぎに夢中であるが、「私」はそんなことに興味がない、というような彼のスタンスを描写する手段――に過ぎないのじゃないかと、チャンドラーがどう考えていたかは知らないが、私にはそう思えてくる。
 気障な「言動」のうち、「動」の方は、実際に行動する限り、クサさは脱臭され、格好良さのみが残るものだが、「言」の方は、やはり口にしてしまうと途端に陳腐になってしまうもので、『長いお別れ』でも例に漏れずクサいのだが――まあ、クサくなることを躊躇わないことでクサみを蹂躙する小説がハードボイルドと呼ばれるわけだが――慣れれば美味しいくさやの干物ともいうし、マーロウ氏が四十代であること、その歳まで自分のみを信頼して生きてきた過去があること、その歳にもなると性分や意地を変えることなどできっこない、というようなことが脱臭効果を持っていると言えば持っている。
 
 と、エントリの前置きがやたらと長くなってしまったが、気障な小説を読んだのが久しぶりだったので、つい興奮してしまったのだ。本書の台詞の有名どころでは、《ギムレットには早すぎる》や《さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ》、《警官はけっしてさよならをいわない。機会があったら容疑者の首実検の列のなかで顔を見たいと思っているのだ。》などがあるようだが*1、私としては次の文章を引用したい。これが一番クセになった。
 

私は台所へ行って、コーヒーをわかした。濃い、にがいコーヒーをぐらぐらわきたたせた。つかれた人間には血になるのだ。
――p447

 
 ハードボイルドだったら苦いコーヒー、というイメージはあるが、そのお約束をきっちり守るばかりか、「苦いコーヒーは血になる」発言までしてくれる。私もコーヒーは好きだが、コーヒーが血になるという発想はなかった。ちょっと格好を付けて苦いコーヒーを飲んでみたくなる時点で、私はもうマーロウ氏を笑えないのだ。本当は、軽く余韻を残す、ジャブのようにこともなげに出される感傷的な文章は、私の好きとするところだ。それから、ひとつだけ、チャンドラーに謝らなくてはならない。飲み終わった後の缶コーヒーの空き缶を捨てる籠が見つからず、本書が入っているのと同じ鞄の中に入れてしまったものだから、僅かに残っていたコーヒーの雫が染みついてしまった。すまない。

 

二つの書簡

 『長いお別れ』で特に唸らされた箇所としては、書簡による文章がある。
 一つは、マーロウ氏の友人、テリー・レノックスの遺書。
 全体を通してクールであり続けようとする本作の序盤に登場するこの遺書は、抜きん出て感傷的。

(前略)
 だから事件についてもぼくについても忘れてくれたまえ、だが、そのまえに、ぼくのために<ヴィクター>でギムレットを飲んでほしい。それから、こんどコーヒーをわかしたら、ぼくに一杯ついで、バーボンを入れ、タバコに火をつけて、カップのそばにおいてくれたまえ。それから、すべてを忘れてもらうんだ。テリー・レノックスのすべてを。では、さよなら。
 ドアにノックが聞こえる。ボーイがコーヒーを持ってきたのだろう。もしそうでなかったら、ピストルが鳴ることと思う。ぼくはメキシコが好きなのだが、メキシコの留置所はきらいなんだ。さよなら。
――p118

 
 ごく個人的な感想になるが、テリーの遺書は、私が気分良く書けている際のリズムを連想させる。気分良く書けているからといって、上手く書けているとは限らない。読み返してみると、接続詞が単調になりがちだとか、無駄に反復が多いとかいった欠点に気づくことが多い。(書くという行為には、なにかしら抵抗感が必要なのだ。空を飛ぶために必要なのは翼だけではない)。
 だが、『長いお別れ』のここでの文章は、不思議と何か感傷的で、優しくて、落ち着いたテンポがある。単調さや反復がかえって心地よいリズムを生み出すからなのだろうか。それとも、これこそが書簡という形式の持つ力なのだろうか。
 

 もう一つは、小説家として登場するロジャー・ウェイドが酔った勢いでタイプしたらしい書き置き。内容はアルコール中毒者の彼らしい、熱に浮かされて書いたような錯乱気味の文章となっていている。

 満月から四日経って、壁に月光が四角にうつり、大きな盲の眼のように私を見ている――壁の眼だ。くだらない。ばかばかしい比喩だ。これが作家なのだ。なんでも、何かほかのものにくらべてみる。私の頭は泡立ったクリームのようにふわふわしているが、クリームのようにあまくはない。また比喩だ。くだらない稼業だ。考えただけでげろを吐くことができる。どっちみち、げろを吐くことができるのだ。おそらく、吐くであろう。そう急かせるな。時間をくれ。みぞおちの中の虫が這って、這って、這いまわる。ベッドに寝ている方がいいのだが、ベッドの下に黒いけものがいて、その黒いけものががさがさ這いまわり、背中をまるくしてベッドの裏にどすんとぶつかると、私は私だけにしか聞こえない叫び声を上げるのだ。
――p278

 ダブル・スペース。上がって、降りてきた。二階はきらいだ。高度が心臓をどきどきさせる。しかし、私はタイプライターを打ちつづけている。潜在意識というものはなんという魔術師なのであろう。いつも働いてくれたら、こんなにいいことはないのだが。
 ――p280

 
 ウェイドの文章は、調子が出ずに壁を感じながら書いているときのリズムに似ている。炎に焼かれながら執筆する拷問にも似た書き方であり、書いている最中の手詰まり感とは裏腹に、読み返すと痺れることが多い。その逆も多いのだが。
 『長いお別れ』は、一種の冷静な目を感じさせるのだが――なにせ、書き手のチャンドラーは陳腐とクール、この二つの紙一重の境を見切らねばならないのだから――ウェイドのメモでは、その目がまったくもって混沌としている。作家であれば誰もが知っているはずの、あの書けない苦しみを、たっぷりと塗りたくっている感じだ。神経質になっているときは、《くだらない。ばかばかしい比喩だ》と実感することしきりだし、何でもかんでも擬人化してしまったり、「まるで〜のようだ」といった幼稚な比喩を連発しては、自己嫌悪し、訂正しようにも他に文章が思いつかず、書けなくなっていく悪循環ができあがるものだ。そして語彙の乏しさに失望したその次は、文法が分からなくなってしまい、文章の自己検閲機能が弱まって、思いついたことを思いついたまま書いてしまう愚をやらかす。それは愚どころか、もはや壊れた機械が空回りしているに等しい。《ダブル・スペース。上がって、降りてきた。二階はきらいだ。高度が心臓をどきどきさせる。》なんて、まさにそんな感じだ。《高度が心臓をどきどきさせる》――他にこなれた文章がある、ということだけは分かっているのに、これ以上を思いつけない、頭に靄のかかった感じ。(もしや、アル中と作家は似ているのか!?)

 

さようなら

 さて、語りたいことは語ってしまったので、あとは結びに向けて、だらだらと書くだけだ。
 そういえば、ハードボイルドものといえば、美女がつきものではないだろうか。『長いお別れ』にも美女は複数名登場するし、マーロウ氏は二人もの美女から誘惑を受けるのだから、いはやはなんとも羨ましい限りだ。しかしハードボイルドものでは*2美女が登場することにもいくらかの必然性がある。というのも、美女が美女であるがゆえに事件を引き起こす鍵となったり、巻き込まれるきっかけとなる、そういう物語の構成になっているからだ。そして美女の傍にはいい男が寄ってくるものだから、イケメンと美女の物語になってしまうのも至極当然の流れなのだ。

 私たちは別れの挨拶をかわした。車が角をまがるのを見送ってから、階段をのぼって、すぐ寝室へ行き、ベッドをつくりなおした。枕の上にまっくろな長い髪が一本残っていた。腹の底に鉛のかたまりをのみこんだような気持ちだった。
 こんなとき、フランス語にはいい言葉がある。フランス人はどんなことにもうまい言葉を持っていて、その言葉はいつも正しかった。
 さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ。
――p515

 
 加えて言えば、失恋の痛手を癒すためには、わざとナルシストを気取ってみるのも有効だ。
 
 ……これで、書くこともなくなってしまった。
 それではみなさん、さよなら、さよなら、さよなら。
 

*1:ここに引用した三つの文章はウィキペディアからのコピペ。

*2:と、ここでもハードボイルドのことを良く知らないまま断定的に書くが