レトリック感覚 自分用まとめ

書評に類するブログ記事を書くということは、
その書物を二度読むということであった。

 直喩だとか隠喩だとかいったレトリックの名称それ自体は中学・高校の国語の授業で習うものだし、国語便覧を繙けば必ずまとめられている。(手元の『最新国語便覧』では「効果的な表現」に修辞法が紹介されている。目次には「レトリック」「修辞」の文字は一切ない)
 しかし、それにも関わらず、直喩と隠喩の両者に本当に差があるのか疑問に思うことがあった。機械的に判別するなら「〜ようだ」のつく方が直喩で、「〜ようだ」がつかない方が隠喩なのだが、それでまさか納得できるはずもない。「ようだ」があってもなくても文意が通るとすれば、直喩と隠喩を使い分ける意味など無くなってしまう。ヨーダは戦犯か否か。もちろん、そんなことは誰もいっていない。両者のニュアンスが異なっていることぐらい日本語のネイティブなのだから分かる。分かるのだが……では違いは微妙なニュアンスだけだというのなら、やはり文意それ自体は直喩と隠喩のどちらを使っても通るということではないか……? 少なくとも直喩と隠喩という名称を二つ設けて区別しようとするのはナンセンスではないか?――なんてことを考えてしまって、負のスパイラルから抜け出せなくなる。進めば進むほど愚鈍になる迷宮へようこそ! しっかり迷ってのたれ死んでいってね!
 そんな具合なので道案内が必要だった。しかし(特に自主的に探した覚えはないが)レトリックについて書いている書籍を読んでも参考にならない。というのも、ひとつの修辞法を説いてばかりいて、似通った他の修辞法との比較がほとんどない。というか、まったくない。あったとしてもお茶を濁しているとしか思えない歯切れの悪さだった。
 だが『レトリック感覚』は違った。
 これでようやく迷宮から抜け出せそうだ。脱出に先駆けてメモを取っておくとしよう。


レトリック感覚 (講談社学術文庫)
佐藤 信夫
講談社
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直喩と隠喩

直喩 XはYのようだ
隠喩 (Xは省き)Yだ



直喩

↑ ジャックはロバのように愚かだ
  ジャックはロバのようだ
  ジャックはロバと違いはしない
  ジャックはロバ同然だ
  ジャックはロバだ
↓ ロバだ!

隠喩



 こうして並べてみると、直喩と隠喩が形式的に連続しているように見える。
 しかし現実には「お前は権力の犬か!(隠喩)」ということはあっても「お前は権力の犬のようだ(直喩)」なんてのはさすがに聞いたことがない。「犬のようだ」となると直喩というより困惑を含んだ表現(お前は権力の犬なのか?)として響く気がする。



直喩 XとYの類似性を提案・設定する = XとYがまったく似ていなくてもよい場合がある
    →類似性の創作


隠喩 (省略されたX)とYの類似性に依存している = 類似性が斬新であるほど効果的
    →類似性の発見


P118

直喩が相手に対し説明的に新しい認識の共有化を求めるのとは逆に、隠喩は相手に対してあらかじめ共通化した直観を期待する。それゆえ、典型的なかたちでは、直喩は知性的なあやであり、隠喩は感性的なあやであると言うことができる。

換喩と提喩

P140

たとえば、肌の白さに着目して、ある王女に「白雪」という名前をつけるとすれば、それは隠喩型の命名だが、いつも赤いシャプロンをかぶっている女の子を『赤頭巾』というあだ名で呼ぶのは、換喩型の名づけである。

 ホワイトベースが木馬で(隠喩)、ターンエーガンダムがヒゲのガンダムで(換喩)……
 どこが、どう、違うというのだ……どちらも見た目の特徴からつけた名前ではないか。その区別に究極的な意味はあるのか……。迷宮の入り口である。が、入る意味のない迷宮もある。
 入るべきは換喩と提喩の迷宮。



換喩 ふたつのものごとの隣接性にもとづく比喩*1


提喩 全体の名称でその中の一つ(またはその逆)を指す方法*2


 「レンズが記録した決定的場面」というレトリックは換喩か? それとも提喩か?
 記録したのはレンズではなく撮影機なので、撮影機という全体に対し、レンズという一部分に着目し、「撮影機が記録した」とするところを「レンズが記録した」とした提喩であるのか?
 いやしかし撮影したのは撮影者だから、撮影者の手と隣接している撮影機(=レンズ)と見なせば、「撮影者が記録した」というところを「レンズが記録した」とした換喩なのか?
 正直、そんなことはどうだっていいという気がする(撮影機では野暮なのでレンズにしたということだけが重要という気がする)。ということは、換喩と提喩に区別を付けることはナンセンスなのか? そもそも区別可能なのか? 上記の定義に沿って区別することは妥当なのか?




 「換喩は現実的な隣接性」「提喩は意味・概念・類と種の関係」と見なすことで区別可能である。


 ●換喩(現実的な隣接性)
  人間 = 頭および頸および肩および……内蔵および筋肉および骨格および……目および鼻および口および……


  ルフィ = 麦わら帽子および黒い髪およびゴムゴムボディおよび赤い上着および青いパンツおよびわらじおよび……


 ●提喩(意味・概念・類と種の関係)
  人間 = 日本人およびアメリカ人およびイギリス人および……太郎および花子およびkeiseiryokuおよび……


  雪 = 白い かつ 冷たい かつ 空から降ってくる かつ 地上につもる かつ 水分子でできている かつ 見た目ふわふわしている かつ 美しい結晶のイメージがある かつ……


 「雪が降ってきた」ではなく「白いものが降ってきた」というとき、そこには《より抽象的な表現が結果としていっそう具体的なイメージを生む》ことが期待できる。*3
 これが換喩にはない提喩の特性。




P200

ところで、あらゆる比喩の基本は提喩であり、隠喩も換喩も本当はそれぞれ二重の提喩――すなわち二回にわたって提湯を繰り返し適用したもの――にほかならない、とグループμの学者たちは主張した。その理論は、換喩にかんしては少々無理があるが、じつは、隠喩については九割かた当たっており、その鋭い着想は評価されなければならない。

 「隠喩は提喩を二回適用したものである」
 ΩΩΩ <ナ、ナンダッテー!!!*4



誇張法

 ヴォルテール著『バビロンの女王』の引用と解説が特に面白い。
 論理的に正しいことで典型的な誇張表現を導く方法。



列叙法

 絶対にあると思っていた「リスト」の説明が一切なかった。
 買い物のメモや料理のレシピのように箇条書きで列挙するアレは、このパートに含まれるはず……。



緩叙法

 ひとことでまとめると「存在を際立たせるための最良の方法は、不在であった」とするとかっこうよさげ。



感想

 レトリックというと、どことなく持って回った言い方とか、回りくどい言い方というイメージがあるように思う。しかし実際のところ、認識の順序に沿った率直な言い方であるらしい。


 たとえば、同じ色に対して「赤い」と断言する場合と「赤くなくはない」と二重否定で言う場合とで認識に差があることは明らかだ。赤いか、赤くないか、二つの可能性を比較検討してみた上で、やはり赤い――そういった認識のあり方が「赤くなくはない」に現れている。
 また、「赤頭巾ちゃん」というあだ名は、少女の頭巾にばかり目がいってしまって、他の詳細が目に入っていないという認識の表れである。少女の額にはじつはほくろがあって腕白小僧からはダイブツと呼ばれているかもしれない。(少女はほくろを隠すために頭巾を被っているのかもしれない)
 「レンズが記録した決定的場面」の「レンズ」が「カメラ」でも「写真家」でもなくて「レンズ」なのは、撮影した対象に物理的に最も接近しているのがレンズの部分であるから、そこにこそ記録するための決定的な力をイメージしたということではないか。


 そんなふうに考えた。自分の書いた文章からレトリックを見つけ出し、無意識であった認識の過程を探るのもまた面白い。

*1:麦わらのルフィを「麦わら」と呼ぶアレ。大統領官邸をホワイトハウスと呼ぶアレ。

*2:「飯にしよう」というときの飯は白米のことではなくて食事全般のこと、というよくあるアレ。

*3:書く人の腕次第だが。

*4:モブと思っていたキャラが主犯格だったときの驚愕に通じるものがある。