雲の上に王国を描く偉大な精神に惹かれて

嵐が丘〈下〉 (岩波文庫)
エミリー ブロンテ
岩波書店
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 私が『嵐が丘』に引きつけられた最初の要素は、今も私をかの名作に引きつけ続けている要素のもっとも具体的な要素であった。どのような作品も読み始める際は読むに値する書物かどうかいくらかの不安を負っているものであるが、その不安を無に帰し、後はただ読むだけ、転がり続けるだけという下り坂に入る始めの場所――先に述べた最初の要素とは、かような意味で使っている。
 それはすなわち偉大な時代のことである。偉大な、子供の時代。キャサリンがはじめ、父親の拾ってきた孤児であるヒースクリフをのけ者にしようとするところも、キャサリンがやがてヒースクリフと仲良くなるところも、二人が父の死の直後にどのような牧師も敵わない素晴らしい天国を語りあうところも、野生動物のごとく野山を駆け回るところも、物語の舞台である荒涼とした大地とは裏腹にあまりに豊かであまりに輝かしい。
 そうでなくても、『嵐が丘』とは子供の物語である。成人を迎えたところで、キャサリンは病に伏し命を落とすそのときまで分別とは手を繋がなかったし、復讐者となったヒースクリフもまた大人げなく子供をひっぱたく暴君であった。二代目エドガーなどはそこらの有名な文学作品を集めてきてもお目にかかれない、ひっぱたきたい糞餓鬼の筆頭である。ヘアトンは学がないことと粗暴な性格に育てられたために大人びることとは疎遠であった。物語が進行するほど大人は死に、子供だけが残る。もっとも、最後の最後には知性と情愛と分別の芽が息吹くのだが。
 私が『嵐が丘』をこよなく愛するのは、そういった大人であることとは相反する精神性があるからであろう。雲の上に王国を描く偉大な精神性とでもいうべきものに震撼するのである。『嵐が丘』という作品は、あるいはそのような純粋性の感じられるものではないかもしれないが、荒ぶる魂であることに違いはない。尋常ならざる状態へ向かう強度の高い意志。これを愛するということは、大人を憎むということかもしれない。ここでいう憎まれる大人というのは、秩序、社会、既成概念、現実*1、宗教*2であったりする。それらに完全に逆らって生きることは不可能だ。待っているのは破滅だけである。ゆえに一度は秩序に迎合しながらも最後にそれを裏切ったキャサリンは当然、破滅する。苦しい病の果てに息絶える。しかし彼女は望んでそれを完遂したのである。それが彼女にとっての自由であったから、どれほどの苦痛も代償にはならなかった。というよりは、苦痛こそが自由の証明であり、一度ヒースクリフを裏切ったことへの贖罪であった。ヒースクリフもまた、最後は自ら苦痛を負い、キャサリンと同じように息を引き取る。思想上の自由とは、すなわち永遠でなくてはならない。彼らの目指した永遠はキリスト教の説く天国ではなくヒースの荒野が続く地上にある。死は永遠を手にするための入り口でしかなく、彼らはその禁断の扉を開けて墓に眠るのである。
 
 
 
 プルトンの著作『ナジャ』には、次のようなシーンがある。ナジャが車を運転しているプルトンにキスをし、プルトンの視界を塞ぎ、なおかつアクセルを踏む彼の足を踏みつけるのだ。プルトンはそれにつきあっていられず、ナジャを引き剥がすことになるが、理想の上ではこの方法につきあいたいと考えている。
 まったく馬鹿げた話である。しかし美しい話である。(美しいんです! 美しいんですったら!)
 閉じてはいけない瞳を閉じ、踏んではならないアクセルをベタ踏みし、至高の世界へと投入する。世界中の人がこんな生き方をすれば、人類は一年と待たず絶滅するだろう。そんな危険な生き方が、『嵐が丘』でも語られている。
 
 
 
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 というわけで、エミリーの思想はプルトンのそれと根本は同じだと思うんですねー。キャサリンヒースクリフの生き方がそれを示しています。
 でもねー、この物語の語り手である家政婦のネリーは、エミリーのそんな思想とは無縁の人物なんですよ。キリスト教の価値観に忠実で、死者は天に召されるというんですね。物語の印象を左右するネリーがそんな性格してるから、油断していると騙されちゃいます。なにせこの家政婦、キャラが濃いから、節々の締めの部分をもっていっちゃうところがあります。(それをいったらもう一人の語り手であるロックウッドも、最後に全部もっていきやがった!ていうところ多いです)
 しかもネリーは、なんだかんだで最後はキャシーとヘアトンを結びつけるわけですよ、直接的な手助けはしていないにしても。この二人がくっつくのはネリーの悲願だと思いますし、この二人がくっついて一番幸せなのもネリーなんですね。また、キャサリンヒースクリフだって生きて添い遂げる道があったはずなのになぁ……というIFのストーリーも、キャシー(=キャサリンの娘)とヘアトン(=生い立ちがヒースクリフと同じ)が結ばれることで成就されるという仕組みでして。うまくできてる!
 
 
 そんな『嵐が丘』が、僕は大好きです。
 
 
 

*1:ヒースクリフがキャサリンを思い続けたような愛のあり方は、現実の愛のあり方――現実の、というよりは世俗的な、というべきか――では到達できない。エミリーの考える至高の愛は現実に挑む形となる。

*2:エミリーにとってはキリスト教