人生論ノート――怒について

 怒について。
 この項目では冒頭からキリスト教について語られています。
 キリスト教について少し予習しておくとしましょう。



 アダムとイヴが禁断の果実を食べたため、神の怒りを買い、楽園を追放されたというくだりはみなさんご存じかと思います。
 そのせいでアダムとイヴの祖先である私たちも生まれながらに罪を負っています。これが原罪というやつです。
 旧約聖書では救世主*1の到来が預言されています。
 そして預言の通り、救世主であるイエスが現れ、私たちの罪を被って十字架に掛けられました。
 ゆえにイエスが罪を被ってくれたことを忘れないように祈りさえすれば神の怒りから解放されるとするのがキリスト教の教えです。

 旧約聖書に登場する神は人の反逆に罰を下す存在です。怒りの神です。
 新約聖書に登場する神は人の罪を癒やしてくれる存在です。愛の神です。
 怒りとは罪を赦さないことであり、それは愛の一側面であると考えられます。
 キリスト教の神は怒りの神であり愛の神でもあります。



 かなり乱暴なまとめ方ですが、ざっとこんなところです。

 では、なぜこの『怒について』の章でキリスト教の神の怒りが語られているのでしょうか。
 三木清がクリスチャンだからですが、それだけが理由ではありません。
 この章で論じられる怒りが「本当の怒り」であることを暗にことわっているのです。
 世の中には「偽物の怒り」が溢れかえっています。
 怒った素振りをすることで ことを有利に運ぼうとする打算に基づいた偽物の怒りはお呼びではありません。
 そういう前振りでもあるのです。

 それでは本文を見ていくことにしましょう。


怒り=啓示

 Ira Dei(神の怒)、――キリスト教の文獻を見るたびにつねに考へさせられるのはこれである。なんといふ恐しい思想であらう。またなんといふ深い思想であらう。
 神の怒はいつ現はれるのであるか、――正義の蹂躪された時である。怒の神は正義の神である。
 神の怒はいかに現はれるのであるか、――天變地異においてであるか、豫言者の怒においてであるか、それとも大衆の怒においてであるか。神の怒を思へ!

 しかし正義とは何か。怒る神は隱れたる神である。正義の法則と考へられるやうになつたとき、人間にとつて神の怒は忘れられてしまつた。怒は啓示の一つの形式である。怒る神は法則の神ではない。

 《怒は啓示の一つの形式である》とあります。
 キリスト教の神は全知全能の存在ですから、この世の悪をすべて認知しています。
 悪が発生したとき=正義が蹂躙されたとき、神は啓示として人に怒を伝える。――三木清はそのように捉えているようです。

 なるほど、正義に基づく怒りは理屈を抜きにしてわきあがるものであり、啓示のようであります。


 怒る神にはデモーニッシュなところがなければならぬ。神はもとデモーニッシュであつたのである。しかるに今では神は人間的にされてゐる、デーモンもまた人間的なものにされてゐる。ヒューマニズムといふのは怒を知らないことであらうか。さうだとしたなら、今日ヒューマニズムにどれほどの意味があるであらうか。

 多神教の場合、神といっても人の形をし、人の前に姿を現すものです。振る舞いも、いかにも人間的ですよね。喜怒哀楽に満ちていて、嫉妬もすれば復讐心に駆られもする。
 しかしキリスト教のような一神教の神は、人にはその全貌が認知できないものです。何から何まで人とはスケールが違いすぎて超越的かつ絶対的です。そのような神の愛はどこまでも広大で分け隔てのないものです。それは裏を返せば残酷なほど平等であり、無慈悲であるとも言えます。
 そのようなスケールのかけ離れた存在を人間的に捉えるのは誤謬の温床となります。
 人間的に捉えるぐらいなら悪魔的に捉えた方がまだ正しいというわけです。しかし今となってはその悪魔ですら人間的に捉えられることが多く、神の怒りというものをリアルに想像しにくくなっています*2無宗教の日本人にとっては殊更当てはまるのではないでしょうか。これを機に、神の怒りなるものを、なるべくリアルに考えてみることをおすすめします。


 今日、愛については誰も語つてゐる。誰が怒について眞劍に語らうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るといふことは今日の人間が無性格であるといふことのしるしである。
 切に義人を思ふ。義人とは何か、――怒ることを知れる者である。

 義人とは、我が身の利害を顧みず他人のために尽くす人をいいます。
 怒らない人は無個性で、怒る人の方がその逆であることは、なんとなくイメージしやすいですよね。*3

 さて、忘れられがちな怒の意味とはなんなのでしょうか?
 それが次の段落から語られています。


怒と憎しみの対比

 今日、怒の倫理的意味ほど多く忘れられてゐるものはない。怒はただ避くべきものであるかのやうに考へられてゐる。しかしながら、もし何物かがあらゆる場合に避くべきであるとすれば、それは憎みであつて怒ではない。憎みも怒から直接に發した場合には意味をもつことができる、つまり怒は憎みの倫理性を基礎附け得るやうなものである。怒と憎みとは本質的に異るにも拘らず極めてしばしば混同されてゐる、――怒の意味が忘れられてゐる證據であるといへよう。
 怒はより深いものである。怒は憎みの直接の原因となることができるのに反し、憎みはただ附帶的にしか怒の原因となることができぬ。

 お決まりの対比構造がここでも登場しました。
 怒りと憎しみの比較であります。

 怒りと憎しみはよく似ている。
 私たちはそんなイメージを持っていないでしょうか。
 しかし、三木清にいわせれば、怒りと憎しみはそれぞれで大きく異なっているようです。

 怒りは憎しみの直接の原因となれますが、
 憎しみは怒りの直接の原因にはなれません。

 怒りは必ずしも憎しみを生じるわけではありませんが、
 怒りから憎しみが生まれたとしても、
 (正義の蹂躙されたときに怒が啓示としてあらわれる以上、)
 その憎しみには倫理的なものがあるようです。

 私たちは怒りを避けようとしますが、悪いことをするから怒られるのであって、怒りが悪いのではありません(笑)
 本当に避けなければならないのは憎しみです。


 すべての怒は突發的である。そのことは怒の純粹性或ひは單純性を示してゐる。しかるに憎みは殆どすべて習慣的なものであり、習慣的に永續する憎みのみが憎みと考へられるほどである。憎みの習慣性がその自然性を現はすとすれば、怒の突發性はその精神性を現はしてゐる。怒が突發的なものであるといふことはその啓示的な深さを語るものでなければならぬ。しかるに憎みが何か深いもののやうに見えるとすれば、それは憎みが習慣的な永續性をもつてゐるためである。

 怒りは突発的に現れます。
 一方、憎しみは習慣的なものです。

 怒りには深さがありますが、
 憎しみにそれがあるとは言い切れません。

 しかし、憎しみは何か深いもののように見えることがあるかもしれません。
 ここでの「深いもの」は「怖さ」や「不穏さ」、もしくは「悪魔的」といった言葉に置き換えると想像しやすいかと思います。
 憎しみがそのようなデーモニッシュとでもいえそうなものに見えるとすれば、それは憎しみがもつ永続性のためです。


愛と怒の対比

 次は憎しみとは別のものと怒が対比されます。
 すなわち、愛と怒の対比であります。

 ひとは愛に種類があるといふ。愛は神の愛(アガペ)、理想に對する愛(プラトン的エロス)、そして肉體的な愛といふ三つの段階に區別されてゐる。さうであるなら、それに相應して怒にも、神の怒、名譽心からの怒、氣分的な怒といふ三つの種類を區別することができるであらう。怒に段階が考へられるといふことは怒の深さを示すものである。ところが憎みについては同樣の段階を區別し得るであらうか。怒の内面性が理解されねばならぬ。
 愛と憎みとをつねに對立的に考へることは機械的に過ぎるといひ得るであらう。少くとも神の辯證法は愛と憎みの辯證法でなくて愛と怒の辯證法である。神は憎むことを知らず、怒ることを知つてゐる。神の怒を忘れた多くの愛の説は神の愛をも人間的なものにしてしまつた。

 愛には三つの段階があると考えられます。
 ・神の愛(アガペ)
 ・理想に対する愛(プラトン的エロス)
 ・肉欲

 アガペはキリスト教の神の愛です。
 エロスはイデアへの憧れ。いわば真実を追究する心です。
 肉欲は性的な欲望から生じる愛です。

 怒りも同じように三つの段階に分けられると三木清はいいます。
 ・神の怒り
 ・名誉心からの怒り
 ・気分的な怒り

 神の怒りはやはりキリスト教の神の怒りを意味します。
 名誉心からの怒りは人格から生じる怒りです。前の章「名誉心について」を思い出してみましょう。名誉心=抽象的なものに対する情熱=人格であり、この人格というものがいわば義人として怒ることと同義です。神の怒りは神固有のものですが、それを啓示として受け取ったときに名誉心からの怒りとなります。
 気分的な怒りは、短気で些細な怒りです。ツイてなくてものにやつあたりしたり、電車が時刻表通りに駅に着かなかったので駅員を殴りつけたりする中年男のみみっちい怒りのことです。

 このように段階分けできるということは、それだけ深い本質をもっているということになります。
 愛も、怒りも、深いものなのです。
 しかし憎しみはこのように段階分けできません。

 愛憎という言葉があるように、愛と憎しみはしばしば対比的に捉えられます。
 しかし三木清は、正確には愛と怒りが対比されると説きます。

 神は愛することも怒ることもしますが、憎むことはしません。
 憎むのは人間のすることです。
 憎しみが人間的なものであるから、憎しみと愛を対比的に捉えがちな私たちは、愛をも人間的に捉えがちであります。これでは愛とはなんぞやと考えたとき、その正体を見失ってしまいます。



気分的な怒

 神の愛や神の怒。スケールの大きな話ばかりでしたが、ここで私たちにとって身近な「気分的な怒り」について語られます。

 我々の怒の多くは氣分的である。氣分的なものは生理的なものに結び附いてゐる。從つて怒を鎭めるには生理的な手段に訴へるのが宜い。一般に生理は道徳に深い關係がある。昔の人はそのことをよく知つてをり、知つてよく實行したが、今ではその智慧は次第に乏しくなつてゐる。生理學のない倫理學は、肉體をもたぬ人間と同樣、抽象的である。その生理學は一つの技術として體操でなければならない。體操は身體の運動に對する正しい判斷の支配であり、それによつて精神の無秩序も整へられることができる。情念の動くままにまかされようとしてゐる身體に對して適當な體操を心得てゐることは情念を支配するに肝要なことである。

 怒を鎭める最上の手段は時であるといはれるであらう。怒はとりわけ突發的なものであるから。
 神は時に慘めな人間を慰めるやうに命令した。しかし時は人間を救ふであらうか。時によつて慰められるということは人間のはかなさ一般に屬してゐる。時とは消滅性である。

 我々の怒の多くは神經のうちにある。それだから神經を苛立たせる原因になるやうなこと、例へば、空腹とか睡眠不足とかいふことが避けられねばならぬ。すべて小さいことによつて生ずるものは小さいことによつて生じないやうにすることができる。しかし極めて小さいことによつてにせよ一旦生じたものは極めて大きな禍を惹き起すことが可能である。
 社會と文化の現状は人間を甚だ神經質にしてゐる。そこで怒も常習的になり、常習的になることによつて怒は本來の性質を失はうとしてゐる。怒と焦躁とが絶えず混淆してゐる。同じ理由から、今日では怒と憎みとの區別も瞹昧になつてゐる。怒る人を見るとき、私はなんだか古風な人間に會つたやうに感じる。

 気分的な怒りは生理に関係があり、生理は道徳に関係しています。
 むやみに怒りっぽくならないためには、適度に運動した方がよいですし、空腹や睡眠不足といったストレスを解消する必要があります。
 しかし何かと忙しい現代人はそういった処世術を実行できず、神経質になりがちで、その結果、怒りは常習的になって本来の意味を失おうとしてると三木清はいいます。



上昇する愛と下降する怒

 怒は復讐心として永續することができる。復讐心は憎みの形を取つた怒である。しかし怒は永續する場合その純粹性を保つことが困難である。怒から發した復讐心も單なる憎みに轉じてしまふのが殆どつねである。

 肉慾的な愛も永續する場合次第に淨化されて一層高次の愛に高まつてゆくことができる。そこに愛といふものの神祕がある。愛の道は上昇の道であり、そのことがヒューマニズムの觀念と一致し易い。すべてのヒューマニズムの根柢にはエロティシズムがあるといへるであらう。
 しかるに怒においては永續することによつて一層高次の怒に高まるといふことがない。しかしそれだけ深く神の怒といふものの神祕が感じられるのである。怒にはただ下降の道があるだけである。そしてそれだけ怒の根源の深さを思はねばならないのである。
 愛は統一であり、融合であり、連續である。怒は分離であり、獨立であり、非連續である。神の怒を考へることなしに神の愛と人間的な愛との區別を考へ得るであらうか。ユダヤの豫言者なしにキリストは考へ得るであらうか。舊約なしに新約は考へ得るであらうか。

 引き続き、愛と怒の対比です。

・愛の道は上昇の道
・永続するうちに浄化され、高次の愛へ高まっていく
・愛は統一であり、融合であり、連続である

・怒の道は下降の道
・発生した瞬間がピーク
・怒は分離であり、独立であり、非連続である


 神でさへ自己が獨立の人格であることを怒によつて示さねばならなかつた。

 怒は分離であり、独立であり、非連続であるとありますが、いきなりそんなことをいわれても意味が掴みづらいかと思います。

 たとえば父親が子供に「こらタカシ! いつもいつもパジャマを脱ぎっぱなしにしよって! ちゃんとたたまんとダメだろうが!」と注意したときに、「パパだって晩ご飯の後、食器を流しにもっていかないから、いっつもママが悲しんでるよ! 反省して!」なんて言い返されると立つ瀬がないですよね。同じ穴の狢では怒が機能しません。怒るということは「俺とお前は違う」あるいは「それはそれ、これはこれなのだ」と、つまり分離であり独立であり非連続であると示すことでもあります。
 とすると「パパも食器をちゃんと片付けるから、タカシもパジャマをたたむんだぞ」と言い聞かせるのが、統一であり融合であり連続であるところの愛ということでしょうか。*4



 最近、父親の虐待で少女が命を落とした事件が報道されました。
 なんとひどいことが起きたのだろう。なぜこんなことになってしまったのだろう。誰も助けることはできなかったのか。――誰もがこのような思いに駆られたはずです。私も義憤を燃やしました。しかし怒は持続されません。下降するのみです。そうなると怒と同時発生した愛だけが残ります。前半の「なんとひどいことが起きたのだろう」よりも、後半の「誰も助けることはできなかったのか」という思いのほうが強く残りました。結果として感情のうえでは、ひどくやるせない気持ちになりました。
 怒が過ぎ去ると、(持続性で勝る愛が哀として残り、)悲しくなるのだと思う次第であります。


名誉心からの怒

 「習慣について」「虚栄について」「名誉心について」「怒について」はそれぞれの章の関連性が強く、復習しなければ何を言っているのか分かりません。特に「名誉心について」の終盤では愛と名誉心の対比や宗教の話まで出てきているため、「怒について」と密接な関係にあるといえます。

 あと、三木清が使う「性格」という言葉の意味を掴めているかどうかで理解に差が出るように思います。

 特に人間的といはれ得る怒は名譽心からの怒である。名譽心は個人意識と不可分である。怒において人間は無意識的にせよ自己が個人であること、獨立の人格であることを示さうとするのである。そこに怒の倫理的意味が隱されてゐる。
 今日、怒といふものが瞹昧になつたのは、この社會において名譽心と虚榮心との區別が瞹昧になつたといふ事情に相應してゐる。それはまたこの社會において無性格な人間が多くなつたといふ事實を反映してゐる。怒る人間は少くとも性格的である。

 怒る人間、と聞くと誰を思い出すでしょうか。
 アニメ『サザエさん』の磯野家の家長、磯野波平がモデルとして使いやすそうです。
 波平さんは息子のカツオにしばしばバッカモ~ンと檄を飛ばします。波平さんが必ずしも正しいとは限りませんが、これが名誉心からの怒です。名誉心とは抽象的なものへの情熱です。この場合の抽象的なものとは、波平さんの思い描く日本男児のあるべき姿とでもいえばよいでしょうか。そしてそれと同時に日本の厳格な父親としてあるべき姿も意識されています。名誉心は個人意識と不可分であるというのはそういうことです。怒る人間が性格的だというのもこれとほぼ同じ意味です。理想の父親像を全うする=義人としての役割を果たす=性格的である、と。
 このたとえですと社会=家庭となるため、家庭で父親が父親として振る舞うのは当然でありますが……。しかし、もし仮に波平さんが社会(=妻や娘、養父、孫、同じ町内の隣人)に対する虚栄心で檄を飛ばすのであれば――つまり古風な父親像を演出して今時珍しい厳格な父親だと思われたがっている/格好をつけたがっているだけだとすれば――そんな檄はただの怒ったフリであり、これが常態化すれば本気とフリの境界が曖昧となって檄はその意味を失って、無個性(=表面的に父親ぶっているだけで内実が伴っていない)となります。
(というか、現代人の目から見て波平さんの檄はいくらか陳腐化していて、三木清的な意味での個性を半ば失いつつあるような気がする。アニメであるというメタな視点もふまえたうえで、彼がバッカモ~ンと怒鳴るのはそういうキャラだからと視聴者により軽く流され、彼の檄に名誉心からの怒に相当するものを見出せなくなってはいないか。これは波平氏に落ち度があるというよりは、我々現代人が無個性化してきているためではないか?)


 ひとは輕蔑されたと感じたとき最もよく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない。彼の名譽心は彼の怒が短氣であることを防ぐであらう。ほんとに自信のある者は靜かで、しかも威嚴を具へてゐる。それは完成した性格のことである。

 相手の怒を自分の心において避けようとして自分の優越を示さうとするのは愚である。その場合自分が優越を示さうとすればするほど相手は更に輕蔑されたのを感じ、その怒は募る。ほんとに自信のある者は自分の優越を示さうなどとはしないであらう。


 ここは読んだままの意味なので解説はいらないでしょう。
 悲しいかな、私は自信がないので、とても完成した性格には至れそうにありません。


アイロニイとヒュブリス

アイロニイという一つの知的性質はギリシア人のいわゆるヒュブリス(驕り)に対応する。ギリシア人のヒュブリスは彼等の怒り易い性質を離れて存しなかったであろう。名誉心と虚栄心との区別が曖昧になり、怒の意味が曖昧になった今日においては、たといアイロニイは稀になっていないとしても、少くともその効用の大部分を失った。

 このあたりはヒュブリス(傲り・野心)について調べてもらえば何となく察していただけるかと思います。
 野心により破滅する筋書きの神話を想像してください。そのような野心を持つべきではないと道徳的に諭すのがその神話の目的です。
 漫画やアニメにたとえますと、『こち亀』の両津勘吉が分かりやすいでしょう。閃きと持ち前の行動力・要領の良さで金儲けを成功させるのですが、切りのいいところで止めておけばいいものを度の過ぎた野心で突っ走ってしまい、最後には破滅して儲けを失うという、アニメ版でお約束となってる展開が、ピッタリ当てはまります。これを読んで「よし、両津を反面教師として俺は節度を守るぞ」と道徳的規範として捉える読者はおらず、ギャグとして捉えるばかり(いやギャグ漫画なので、それが正しい読み方なのですが!)。現代ではこの手の皮肉は道徳方面に機能しないのだということです。三木清は《効用の大部分を失った》といっていますが、彼の頃よりも更に時代の進んだ現代では、もはやギャグとしてしか解釈されないというのが正しそうです。


怒について

 これでひととおりの説明は終わりました。
 改めて、怒について考えてみましょう。



 怒とは何か。
 神の怒りである。
 神の怒りを啓示として受け取った自分を想像して欲しい。そこにいる自分は恐ろしく残酷で、冷徹で、慈悲など持ち合わせてはいない。想像して欲しい。想像するのもおぞましいぐらいの不幸を。世の中には酷い話はいくらでも転がっている。実例を出しても気分が悪くなるだけなのでやめておこう。結論だけを言えば、怒りを湧き起こした人物を、なるべく苦しませて殺せと、その怒りは命じるはずである。
 法律や道徳観念といったものは、たいていは人間が作り出したものであり、神の怒りは人間の作り出したものを軽々と飛び越えてしまう。すなわち人間的ではない。どれほど正統な怒りであったとしても、復讐に走る姿は非人間的で、何も知らぬ者の目を通せば悪魔的に見えるだろう。
 これが神の怒りである。神の怒が人の内に閃くことは、すでに悲劇であり、運命との対決である。

 神の怒がすべてではない。
 神の怒はあくまで瞬間的に示される正義であり、人間の行動や人生は瞬間ではなく歴史であるから。



 私がこの章でもっとも価値を見出しているのは、神の怒が神の愛の対比である点です。
 私たちが愛について考えるとき、しばしば人間的に捉えすぎており、そのために愛の本質を見失いがちです。なんなら、自分はもしかして愛というものを知らないのではないか、ずっと勘違いして生きてきたのではないかと大袈裟に疑ってみてもいいでしょう。そうやってすべてを白紙に戻して一から愛とは何かと考えたとしても、人間的な愛をスタート地点としていては永久に間違い続けるだけです。答えに辿り着くためには神の愛というものを考えねばなりませんが、愛と人間を切り離すことのなんと難しいことか。そのつかみ所のないものを想像する手がかりとして、対比に神の怒があると知ることは、多いに意味があることではないでしょうか。怒りは愛よりも人間と切り離されたものとして想像しやすく、その対岸にある愛の有り様を分かりやすく示してくれることでしょう。



最後に

 三木清の人生論ノートを解説するこのシリーズ、更新が大変遅れてしまいました。
 このエントリは三年前に草稿を書いていたのですが、そこから叩き上げを行う気力やら情熱やらを失い、お蔵入りしていました。しかし、習慣についての章から、この怒についての章まではひとつのまとまりを持っているので、どうしても完成させたく、今回、最後の力を振り絞り、仕上げることができました。
 というわけで、これが本シリーズの最終回となります。過去のエントリにコメントをくださった方をはじめ、数少ない読者の皆様がいなければ、このエントリは書かれなかったことでしょう。皆様に書かせてもらったも同然です。感謝しています。

*1:救世主のことをキリストといいます。

*2:最近では何でもかんでも擬人化されます。軍艦やら刀剣やらが萌えキャラとして消費され、神や悪魔もキャラクター扱いでありとあらゆる娯楽作品に登場します。『怒について』を読む前に、まず本来の神がどういった概念であるのか思い出してみる必要があるでしょう。

*3:三木清が「性格」という場合、人格者の持つ性格を意味しがちです。つまり性格=完成された善人の性格といったとらえ方をしましょう。個性豊かであるとか、そういった意味はありません。

*4:何か違う気がしますが、未熟なのでこんなたとえしか思いつきませんでした。