人生論ノート――懐疑について

 三木清『人生論ノート』 三つめの章――懐疑について。
 

人生論ノート (新潮文庫)
三木 清
新潮社
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節度ある懐疑について

 この章の主題である「懐疑」については、特に難しいことはない(読んで、そのまま理解できるもの)と思われるため、軽く紹介するに留める。

 いずれにしても確かなことは、懐疑が特に人間的なものであるということである。神には懐疑はないであろう。また動物にも懐疑はないであろう。懐疑は天使でもなく獣でもない人間に固有なものである。(中略)実際、多少とも懐疑的でないような知性人があるであろうか。そして独断家は或る場合には天使の如く見え、或る場合には獣の如く見えないであろうか。
――p23

 
 何事にも「なぜ?」と問うことはできる。これが懐疑であり、人間的な知性の代表格である。
 そして懐疑の取り扱いには節度が肝要であると三木清は説いている。
 

しかるに哲学者が自由の概念をどのように規定するにしても、現実の人間的な自由は節度のうちにある。古典的なヒューマニズムにおいて最も重要な徳であったこの節度というものは現代の思想においては稀になっている。懐疑が知性の徳であるためには節度がなければならぬ。一般に思想家の節度というものが問題である。
――p24

 
 節度ほど徳を語る上で鍵となる言葉は他にないだろう。
 

 懐疑には節度がなければならず、節度のある懐疑のみが真に懐疑の名に価するということは、懐疑が方法であることを意味している。(中略)
 方法についての熟達は教養のうち最も重要なものであるが、懐疑において節度があるということよりも決定的な教養のしるしを私は知らない。しかるに世の中にはもはや懐疑する力を失ってしまった教養人、或いはいちど懐疑的になるともはや何等方法的に考えることのできぬ教養人が多いのである。いずれもディレッタンティズムの落ちてゆく教養のデカダンスである。
 ――p29

 

形成について

 

ひとは無限に証明してゆくことができぬ、あらゆる論証はもはやそれ自身は論証することのできぬもの、直感的に確実なものを前提し、それから出立して推論するといわれる。しかし論理の根底にある直感的なものが常に確実なものであるという証明は存在するであろうか。もしそれがつねに確実なものであるとすれば、何故にひとはその直感に止まらないで、なお論理を必要とするであろうか。(中略)確実なものの直感は(中略)それ自体においては論理の証明を要しないのに反して、不確実なものの直感(中略)こそ論理を必要とするもの、論理を動かすものである。論理によって懐疑が出てくるのでなく、懐疑から論理が求められてくるのである。
――p25

 
 不確実なものが確実なものの基礎である、と三木清はいう。
 不確実なものこそが、人の活動の原動力となる。
 
 修辞法的な表現になるが、ひとは己の人生という作品を作る生きものである、とでもいうべき考え方が三木清にはある。無から有を作り出す作用が人間存在の根本であるとするのが彼のスタンスであり、彼はその作用にたびたび形成という語をあてている。*1
 

情念について

 懐疑と知性の関係、独断と情念の関係について
 

独断に対する懐疑の力と無力とは、情念に対する知性の力と無力とである。独断は、それが一つの賭である場合にのみ、知性的であり得る。情念はつねにただ単に肯定的であり、独断の多くは情念に基づいている。
 ――p26

 
 非常に分かりづらい言い回しであるが、三木清の文章には上記のような論法が多く存在する。慣れてしまえば実直な論法である。*2
 
 《独断に対する懐疑の力と無力とは、情念に対する知性の力と無力とである。》
 →懐疑と知性がセットで語られてきたことを思い出して欲しい。また、懐疑と独断が対立的に説かれてきたことも思い出してもらいたい。ここでは懐疑に対する知性の関係のように、独断には情念が関係している、と述べている。

 《独断は、それが一つの賭である場合にのみ、知性的であり得る。》
 →懐疑は知性と関連づけられていた。となると、懐疑と対比されていた独断は、知性と無関係である。しかしここでは、独断も知性的であるケースがあることが示唆されている。

 《情念はつねにただ単に肯定的であり、独断の多くは情念に基づいている。》
 →独断が知性的であるケースというものは存在する。が、基本的に独断の多くは知性とではなく情念と関係している。ちなみに、情念は知性とは違い、ただ単に肯定的であるもの。
 
 現実には「四の五の考えている場合ではない。先ず行動あるのみ」といった状況は多く存在するし、その場合には、なにかしら独断しなければならない。断定する材料もない状況での独断は賭であり、不確実なもの(=懐疑)のうちにある行為であろう。
 この事実は、独断は懐疑においてあることを意味している。
 
 また、懐疑と情念の関係についての記述を見てみよう。

 純粋に懐疑に止まることは困難である。ひとが懐疑し始めるや否や、情念が彼を捕らえるために待っている。だから真の懐疑は青春のものでなく、むしろ既に精神の成熟を示すものである。青春の懐疑は絶えず感傷に伴われ、感傷に変わってゆく。
 ――p29

 懐疑がまったく行われないことは愚かしいが、行き過ぎた懐疑もまた困りものである。その行き過ぎた懐疑をやらかしてしまうのが、若者の性質なのである。若者こそ、哲学に目覚めたばかりの活力ある新芽であるが、なぜ、と多く問いかけすぎてしまうきらいがある。それゆえに自らを袋小路へと追い込んでしまい、悪くすれば精神を病んだり、鬱屈してしまう。あるいは行き過ぎた懐疑から逃げ出すために短絡的に犯罪へ走ったり、神秘主義に囚われてニセ科学や詐欺としての宗教に嵌ってしまう。
 なるほど、これが独断であるらしい。もっともな話だ。

散文について

 

 懐疑というものは散文でしか表すことのできないものである。そのことは懐疑の性質を示すと共に、逆に散文の固有の面白さ、またその難しさがどこにあるかを示している。
 ――p28

 
 本書が難解であるとすれば、その原因のひとつは本書が散文によって書かれていることに依る。

 たとえば、「懐疑について」の章には、虚栄や習慣、情念、感傷、絶望といった語が出てくるが、それらの語が三木清において辞書に書いている以上のいかなる意味を有するかについては、「虚栄について」「習慣について」「感傷について」「希望について」等の章を読まなければ確定されることがない。
 先ずはじめの段階において確定されることがない――すなわち、不確実なものである――ということ。これこそが散文の難しさであろう。
 説明することだけを考えるならば、文章は論理的に組み立てられなければならず、定義の曖昧な語を突然登場させるようなことは避けるべきだろうが、散文は必ずしも論理的であろうとしているわけではない。かといって、散文は単に曖昧であろうとするだけの傍迷惑な形式というのでもない。

 そもそも散文はイメージの連関を何よりの基礎とするため、イメージの枝葉が本題から逸れていくことが考えられる。本題に対しての保留とそれに伴う迂回には――本題の輪郭を浮かび上がらせるゆえに――かえって本題の理解を助ける働きが備わるものである。
 しかし、それはあくまで小説技法的な一側面に過ぎず、散文における保留と迂回の注目すべき作用は他にある。それは、読み手の理解を助ける目的のためではなく、作為から離れたところにある無意識による思索を促すものである。この作用にこそ散文としての意味(価値)が生じる。それはさながら、書簡における追伸こそが最も伝えたい内容であるように、本題とは別に、ふっと湧き上がるものとしてある。*3
 
 散文は不確実なものから生まれ、それ自身を確実なものにしようとする。それは、真の意味では確定され得ないものを、確実なものにしようとする作用そのものである。それは懐疑に似ている。

*1:「虚栄について」の章においてもっとも詳しく語られている。

*2:表を作って整理すると本当に分かりやすいのですが……。

*3:それゆえに、本題に対して、完全に異物であることもある。理解を阻害する余計な文章と「独断」することもできる。実際、今回のエントリでは、脇道に逸れている部分は独立して説明するように努めてみた。その方が分かりやすいから。しかし、面白味は不思議と失われる。