数の抽象性とか かけ算の順序とか
かけ算の順序について、
結構前から話題になっている。
ブクマ巡りをしていても頻繁に目にする。
僕自身はこの話題について積極的な言及は控えてきた。
さわらぬ数学(算数だが)に祟りなし……である。
しかし、どういうわけかつい最近思い出したのだ、ずっと前に数に関するお話を余所で書いたことに。
「では、レティシャちゃん、全部で何羽の鳥がいますか?」
と、ミサは問いかけた。
質問を受けたレティシャは、元気に答えた。
「ガアガアさんが2匹と、コケッコッコーが3匹と、カルガモが1匹!」
(中略)
「全部で何羽の鳥がいる?」
「アヒルさんが――」
「アヒルさんもニワトリさんも、カルガモさんも、全部あわせて何羽いる? 鳥は、何羽、いるかしら?」
レティシャは目をぱちくりとさせて、ああ、なるほど、分かった! と、目を輝かせると、
「ニワトリが3羽、アヒルが2羽、カルガモが1羽!」
数が多い順に並べ直すことが、分類学上とても優秀なことなのだと発見した――とでも勘違いしていそうだ。一点の曇りもない眼差しに、ミサは疲れを感じた。教師生活六年目、もう新米ではないけれど、子供のエネルギーに圧されてしまうことがある。
「ニワトリは鳥? それとも馬?」
「鳥!」
「アヒルとカルガモは?」
「おももだち! じゃなかった。お友達!」
「アヒルとカルガモは、鳥かしら、それとも――」
「鳥よ、羽があるし、クチバチがあるもん」
「それじゃあ、鳥は全部で何羽いるの?」ミサの気持ちは、正答を期待して力んでいる状態だった。本来なら、回答する生徒が持つべき感情だ。
レティシャはしかし、そんな緊張とは無関係な、可愛い目をして、「6羽よ。レティシャ知ってるもん」
ガアガアさんとコケコッコーとカルガモとチョコレートの話*1
ガアガアさん(アヒル)とコケコッコー(ニワトリ)とカルガモを足すと、どうなるのか。
世にもおぞましい合成獣が誕生する。
リンゴとミカンとブドウを合わせるとどうなるのか。
フルーツミックスジュースになる。
いや待て待て待て……
もしかしたら美味しい鳥鍋になるのかもしれない。
フルーツバスケットになるのかもしれない。
なんて、こんな巫山戯たことばかり言っていると算数の先生に叱られてしまうだろうけれど……。
しかし、なぜ鳥鍋ひとつやフルーツバスケットひとつが正解にならないのだろう。
リンゴが3個あります。
ミカンが2個あります。
ブドウが1個(1房?)あります。
全部でいくつでしょう?
レティシャ「リンゴがみっつ、ミカンがふたつ、ブドウがひとつ!」
これでは算数の先生は納得してくれない。
だが、なにがいけないのだろう?
全部ってのは、いったい何者なんだ!?
「なぜリンゴとミカンが区別されず同じものになるのだろう?」
頭の回る子供は「リンゴもミカンも果物だから」と答えるかもしれない。
これは正解に近そうだ。
というか、正解だろう。
区分が大きくなったのだ。
では、リンゴとテレビを足すときは、どういった区分になるのだろう?
果物と電化製品、そのどちらも内包する区分とは?
リンゴとテレビにカニもつけてしまおう。身の詰まったズワイガニ、ロシア産を北海道の工場で加工した新鮮なやつだ。そこにさらに万能包丁と抗菌まな板もつけようじゃないか。これが年内にお届けされる。しかも今回は先着80名限定だが2000円引き送料無料!
さて大変なことになった。
これらすべてをひっくるめるとなると……「モノ」という概念が無難だろう。
ところが、今話題にしているのは「モノ」じゃない。算数であり足し算であり合計なのだ。
答えは「モノ」ではなく「数」だ。
「かず」じゃないよ「すう」だよ。
モノが固有の性質を剥ぎ取られ、抽象化の果てに数だけが残る。
もしモノが具体的であったなら足し算などできない。
リンゴ+ミカンはどう考えてもリンゴとミカンのミックスジュースだろう。
リンゴではなく3個、ミカンではなく2個という個数だけに注目するから計算ができる。
計算されるのはリンゴでもミカンでもなく「数」なのだから。
この事情はかけ算においても同様だ。
オレンジ × カラタチ = ?
答えは「オレタチ」
というのは生物学の話であって、数学では数でなければ計算できない。
もしかけ算の順序に意味があるとすれば、それはモノが固有性を失っていないことを意味する。
たとえばBLのカップリングではどちらが攻めでどちらが受けかは、おそらく極めて重要な問題だろう。
この場合、キャラクターを入れ替えることは「物理的に可能」ではあるが、意味するところは異なってくる。
意味が重要視される局面においてのみ、かけ算の順序は交換不能になる。しかしこのとき、モノは「固有性を失っていない=数ではない」ので、計算はできない。
おそらく、数値化できないもの、数値化する必要がないものが評価されようとしているのだろう。
数学はすでにお呼びではなくなっている。
だが、たいていの場合、求められているのは「答え」である。
6人に1人あたり7個アメを配るのであろうとも、
7個のアメを6人に配るのであろうとも、
配る側は「42」個用意しておかんといかんのです。
過程や、方法なぞ、どうでもよいのだァーーーッ!
仮にかけ算の理解度(問題を図示できるかどうか)を重要視しているのであったとしても、立式を見るだけでは理解度を確認できない。頭の中で図示できた瞬間から数(かず)は数(すう)になってしまう。なぜなら図示されたものは縦と横を持つ長方形と区別が付かないから。あとは数を掛け合わせる作業を待つばかりだ。順序を定められた立式は無駄な寄り道以外の何ものでもない。理解度を測りたいのならば素直に図示させればいい。
−−−−本筋とは無関係の おまけの問題−−−−
下記の問題をぼくの妹が小学生の当時に何と回答したか予想せよ。
れいにしたがってけいさんせよ
れい) 2+3=5
1+6=
3+3=
4+5=
答えはすべて「5」だった。
忠実に例に従って回答したまでのこと。
子供の素直さなめんなよ!
*1:リンクは張らないでおく。どうしてもという方はググって下さい。