人生論ノート――名誉心について
p45
名誉心と虚栄心とほど混同され易いものはない。しかも両者ほど区別の必要なものはない。この二つのものを区別することが人生についての智慧の少なくとも半分であるとさえいうことができるであろう。名誉心は極めて容易に虚栄心に変ずるものである。個々の場合について両者を区別するには良い眼をもたねばならぬ。
一年ぶりに『人生論ノート』のエントリです。
普段、次は○年後になるかも、と冗談のつもりで書いたいたのに、今や年ペースです。
名誉心について
名誉心。
昨今では聞かれなくなった言葉ではないでしょうか。
ファンタジー等で中世の騎士が「名誉にかけて姫をお守りする!」と誓ったりするときの、あの名誉心についてが、今回のパートです。
「名誉」を辞書で引くと、よい評判を得ること、名高いこと、道徳的尊厳といった意味が掲載されています。では、これらは虚栄心とどう異なるのでしょうか。虚栄心もよい評判を得ようとすることではないでしょうか。
これは普通に考えても想像が付きますね。虚栄心は見栄ですから、対外的なものです。とすると、名誉心はその逆かもしれない、自己へ向かうものなのかもしれないと予想がつきます。事実、その通りです。今回も名誉心と虚栄心が丁寧に対比されています。
p45
虚栄心はまず社会を対象としている。しかるに名誉心はまず自己を対象とする。虚栄心が対世間的であるのに反して、名誉心は自己の品位についての自覚である。
と、まあ、予想された文面が現れました。
しかしまだちょっと直感的に分かりかねます。
虚栄心は分かりやすいですね。お金持ちになったら羨ましがられるからお金持ちになりたい。イケメンになったらもてるからファッションには気を遣いたいし、プチ整形ぐらいしてもいいかもしれない。試験で満点を取ってクラスのみんなに頭が良いと思われたい。いい大学に入った方が世間体がいい。だいたいそんな感じでしょう。
しかし虚栄心とは反対の名誉心はどういったものでしょう。金銭の多寡や顔立ちの善し悪しは虚栄心と結びつきやすく、名誉心絡みの例は挙げにくいので、これは避けて、勉学の場合を例に取りましょう。周囲の評価のためでなく、自分自身の能力を高めるために勉学を行う姿が容易に想像できますね。ただし、この場合も「満点を取った」とか「いい大学に入った」とか、客観的にも評価可能な基準があることは虚栄心の場合と同じです*1。その評価基準に照らし合わせて己の努力や才覚を自覚することが品位の自覚に通じているわけです。
では、虚栄心と名誉心を区別できることの何がそんなによいのでしょうか?
p54
人生に対してどんなに厳格な人間も名誉心を抛棄しないであろう。ストイックというのはむしろ名誉心と虚栄心とを区別して、後者に誘惑されないもののことである。その区別ができない場合、ストイックといっても一つの虚栄に過ぎぬ。
これで「名誉心について」の冒頭一頁すべてを引用してしまったことになります(笑)
引用部分を言い換えると、ストイックに生きるためには名誉心と虚栄心を区別できなければならない、ということです。
別にストイックに生きたくなんかないという人もいるでしょうが、たいていの努力というものはストイックでないと報われないように出来ています。常にストイックとは反対、優柔不断に生き続けるというのも無理があります。(という方法論でストイックを勧めるのも違うと思うが……よりよく生きようとする、良い意味での「意識の高い人」が取るべき道とでもいいましょうか……)
アノニムなものに対する戦い
p47
名誉心というのはすべてアノニムなものに対する戦いである。
アノニム:anonym(あのにーむ)
意味:匿名の
アノニムな人というと、AさんでもBさんでもないと同時にAさんでもBさんでもある人、有象無象の人。いわゆる「世間」というやつです。
P46
名誉心も、虚栄心と同様、社会に向かっているといわれるであろう。しかしそれにしても、虚栄心においては相手は「世間」というもの、詳しくいうと、甲でもなく乙でもないと同時に甲でもあり乙でもあるところの「ひと」、アノニムな「ひと」であるのに反して、名誉心においては相手は甲であり或いは乙であり、それぞれの人間が個人としての独自性を失わないでいるところの社会である。虚栄心は本質的にアノニムである。
勉学の例をもう一度持ち出します。
「私は東大に受かった。これはとても名誉なことだ」と、東大生が名誉心からいったとしましょう。
これは東大が「いい大学」だからこそ名誉になるわけですが、東大が「いい大学」かどうかは世間が判定しているのではないかと見ることができます。世間体がよいから名誉なことだとすれば、名誉心も虚栄心と同じではないか? (もちろん、違います。しかし見分けにくいわけです。だから見分け方が重要だと三木清はいっているわけです)
P47
虚栄心の虜になるとき、人間は自己を失い、個人の独自性の意識を失うのが常である。そのとき彼はアノニムな「ひと」を対象とすることによって彼自身アノニムな「ひと」となり、虚無に帰する。しかるに名誉心においては、それが虚栄心に変ずることなく真に名誉心に留まっている限り、人間は自己と自己の独自性の自覚に立つのでなければならぬ。
世間体の良さというものには根拠がない*2。いい大学に入ることが世間的にいいことなのは、それが世間的にいいことだと認知されているからという理由がほぼすべてです。
そして世間体のよさに酔うためには、世間が認めたことを行う*3だけでなく、自分自身がその「世間」の人々と同じ価値観に染まらなければなりません。すなわち東大に入った自分が偉いのではなく、東大に入った人なら誰でも偉いという自分自身というものが存在しない価値観です。*4
一方、虚栄心に呑まれず名誉心に留まった人であれば、世間体のよさよりも、己の努力や才覚などなどに恥じぬ結果を残せたことを誇りに思うものです。かといって、彼は他者の称賛を受け入れないわけではありません。アノニムではない、具体的に名前のある人々、すなわち両親、友人、教師等々からの称賛を認知することで己の品位をよりいっそう自覚するのです。*5
こういった名誉心の人が最も嫌うのは流行(これぞアノニムなもの)の模倣です。
名誉心というのはすべてアノニムなものに対する戦いであります。
戦いとはいっても、自ら仕掛けるような攻撃的な戦いではなく、誘惑の嵐に耐え自己を貫こうとするまさにストイシズムの挑戦とでもいいましょうか。
p48
いま世間の評判というものはアノニムなものである。したがって評判を気にすることは名誉心ではなくて虚栄心に属している。
抽象的なものに対する情熱
p46
ストイシズムは自己のものである諸情念を自己とは関わりのない自然物の如く見ることによって制御するのであるが、それによって同時に自己或いは人格という抽象的なものを確立した。この抽象的なものに対する情熱がその道徳の本質をなしている。
p47
名誉心というのはすべて抽象的なものに対する情熱である。
名誉心は抽象的なものに対する情熱である、と三木清はいいます。
名誉心は自己の品位の自覚にあります。ところで、この品位というものが、そもそも抽象的なものなんですね。
騎士道や武士道も名誉心に属するものです。これらも品位と関係していますし、抽象的なものです。
「抽象的なもの」のイメージが掴めたでしょうか。
もう一つ例を出すと、名も抽象的なものです。
金田一少年は「ジッチャンの名にかけて!」といいます。「伝説的な名探偵であった祖父の名(名誉)にかけてこの事件の謎を解く」という気概が現れている台詞です。この場合の名は抽象的なものです。(ちなみに、病院で「金田一耕助様、奥の診察室までお入り下さい」というアナウンスを受ける場合、この名は具体的な名ですね。具体的な名は名前のことですから区別は容易です。*6)
p48
抽象的なものに対する情熱によって個人という最も現実的なものの意識が成立する、――これが人間の存在の秘密である。
対比
主なところはすでに見て回ったので、対比項目をおさらいします。
前々回の章(習慣について)では、「習慣は縦の模倣、流行は横の模倣」とありました。
この流行というものは虚栄心と同類です。
「クラスのみんなが髪を染めているから自分も髪を染めよう」
「友達みんなが五段変則のマウンテンバイクに乗ってるからぼくにも同じのを買ってほしい」
こういうのが横の模倣ですね。
そして名誉心は流行=虚栄心=横の模倣を最も嫌います。
ところで、流行は一過性のものです。流行廃りがあります。すなわち虚栄心は時間的なものなのです。
逆に名誉心は永遠を目指します。
一過性か永遠か、これが虚栄心と名誉心を区別するポイントのひとつです。
虚栄心は対世間的です。
名誉心は自己の品位に対する自覚です。
これも両者を区別するポイントになるのですが、これでは大雑把すぎて、あまりあてになりません。
もっと正しく言うと、
虚栄心はアノニムな社会に対している。
名誉心はそれぞれの個人が独自性を失わないでいる社会に対している。
ということなのですが、結局、分かりにくいですね。
そもそも現代は某アニメの台詞「私が死んでも代わりはいるもの」に代表されるように、個人が独自性を失ったアノニムな社会なので名誉心そのものが絶滅危惧種……というよりは極めて見極めがたいものになっているのです。
抽象的という言葉も高頻度で登場しました。
抽象の反対語は具体です。
名誉心は抽象的なものに対する情熱です。
対蹠的に、愛は具体的なものに対して動きます。
抽象的なものとアノニムなものも対比されていました。
アノニムというと名前がないことですから……あれ? それって具体的じゃないということだから、抽象的なことじゃない? と思ってしまいますね。思ってしまったら頭がこんがらがるので深く考えない方がいいのですが。
確かにアノニムというのは抽象的な概念です。しかしこの章での「抽象的」とは別物です。
・アノニム=名、顔のないもの
・抽象的=品位に属するもの、形のないもの
実体がない(物質的ではない)のはどちらも同じです。某アニメの最終回で「おめでとう、おめでとう!」といって拍手してくれるような面々は名も顔もあるものの、抽象的なものです。
番外編 愛について
p49
愛は具体的なものに対してのほか動かない。この点において愛は名誉心と対蹠的である。愛は謙虚であることを求め、そして名誉心は最もしばしば傲慢である。
宗教の秘密は永遠とか人類とかいう抽象的なものがそこでは最も具体的なものであるということにある。宗教こそ名誉心の限界を明瞭にするものである。
この宗教についての一節は目からウロコですね。
それにしても、言葉は難しい。伸縮自在だ。
《愛は具体的なものに対してのほか動かない》とあります。
ところで、人類愛という言葉もあります。
人類という語は抽象的ですから、人類愛も抽象的な語であるはずです。
しかし愛は具体的なものに対してのほか動かないのでありますから、人類愛もまた具体的な語となります。というよりは、抽象的であったものが具体的であると見なされてはじめて存在し得る巨大な愛、それが人類愛なのでしょう。
対象が抽象か具体かは人の認識如何というわけです。
*1:評価基準に妥協があれば品位もへったくれもない道理です。
*2:「発生の初期段階はともかくとして、それが現象として認知される頃にもなると、世間体の良さというものには根拠がない。」という文章は長すぎて意味が掴みにくいかなと省略。
*3:=東大に入る
*4:彼は大勢の人に鼻高々である。しかし彼の頭に浮かんでいるその大勢の人たちの九割九分が、見たことも会ったこともない同胞なのである。見たことも会ったこともない人々に称賛される彼は、やはり見たことも会ったこともない人々と同じ地平のアノニムな人である。
*5:すごい真面目くんを想像してしまった。堅苦しすぎてイヤだな……。
*6:さすがにこれは余計かな。