問題点と層の話

 どうにも小説がうまく書けなくなって、もう一年経つことになる。
 放っておけば自然に解決されるだろうと、必死に楽観視していたが、これといって改善されなかった。非常によろしくない事態である。
 しかし少しずつだが問題の核心が見えてきた。
 
 僕はもともと長らく一人称で書いていて、ある一つの書き方を完成させるに至り、この書き方であればおよそなんでも書けるという確信を得た*1。時間も空間も自在に伸縮可能な、それでいて特に派手すぎることもない、しかしかなり偏向的性質を持つ書き方だ。これを通して形作られる世界は僕にして僕ではない誰かの*2途切れることのない語りであり、幼児にとっての子守歌のように僕に馴染むものだった。幸運なことに、この技術は今後失われることはなく、放っておけば勝手に更なる熟成を遂げるだろう。だが不運なことに、もうこの技術は不要なのだ。この技術を使ってやりたいことはすべてやってしまって、一つの記念碑となってしまった。
 では次からはどうなるかといえば、突然、まったくの別物になってしまうというわけではない。まず似たような文体で語りの設定を一人称から他人称へ移行し、もとより構想していた応用法を実践した。これがなかなかに上手く決まって――苦労するにはしたが、苦労すればそのぶんだけの成果が得られたので苦痛ではなかったし、苦痛だとしても心地よい苦痛だった――僕はすっかり気をよくしていた。ムージル作・吉井由吉訳『愛の完成』やウルフ作・御輿哲也訳『灯台へ』の文体を下敷きに、一人称(一人の語り手に固定された視点)を離れ、複数の人物の視点を移り変わり同じ物事を多角的に描く。これに確かな手応えを感じた次第だ。とはいえ、目まぐるしく大勢の視点を移り変わる荒技には到底至れず、もっとも頻繁に視点が移動する場合でも、場面は固定し、最大で二名の視点を行き来するのみである。しかしここでは視点移動よりも、当初に完成させた技術特有の側面を顕著にした他人称的描写を目指したのであり、それは僕の中で一定の成功を収め、まず何の問題もなかった。
 そこで僕は意気揚々と、同じ技法を用いて次の話を手がけ始めた。そして歯車は狂い始めた。問題はいくつもあったように思う。現実生活の仕事量が増えて時間と体力が限定されたことや、これまでよりもシナリオが重視される展開に入ったこと、自分とはまったく異なる人物を主要人物に据えたこと、およそ現実にはあり得ない入り組んだ人間関係のために想像力が追いつかなかったこと、等々。それらは根本的に時間をかけて解決していくしかない問題だったため、トライ&エラーあるのみだった。
 しかし、最近、いっそう酷い状況に陥って、苦しい思いばかりして、書くことが堪らなく不快になる始末だ。ここまで追い込まれて、ようやく問題の本質が見えてきた。それは主要人物の成長に関係していた。この人物の成長を追うものとして物語は展開されているのだが、これがまだ物心付かない年頃から追いかけているため、作中の時間経過に伴い二十歳過ぎの年齢にもなると精神的に成長しており、僕の従来の文体を受け付けなくなっていたのだ。僕の文体というのは、黄昏時に窓の外の夕日を見ながら、ただひたすらぼけえっとしているような、それでいて弛緩しているのではなくむしろ粘っこい、鼻息の近いタイプのものなのだが、大人になった主人公がこれをまったく受け付けず、僕の顎を押してぐいと引き離し、もっと離れて、もっと後ろ、あと三歩下がる、そう、そこ、そこで気を付け、というのである。もっと無味乾燥で客観的な文体を使えと要求してくる。ところが、その技術が僕にはない。
 
 苦しいはずだ。自分の文体で書けていなかったのだから。
 
 思えば、僕はカメラワーク的な技法に対する感度も芳しくない。フローベール作『ボヴァリー夫人』は映画が発明される以前に書かれた小説なのにカメラワークが美しく、映画を作ったのはフローベールだとさえ言われるほど賞賛されているが、件の名場面を読んでもあまりピンとこない。
 僕は基本的に物語をカメラではなく層で捉えている。これはバルガス=リョサの〈転移〉という用語を僕なりに解釈した概念で、簡単に説明すると漫画の吹き出しのようなレイヤーの遷移を小説技法として取り込んだものだ。漫画の台詞は発話しているものもあれば内面での呟きもあるし、ナレーションの声を借りて代弁する内的独白もある。コマ枠外の漫画作者のツッコミもあれば吹き出しを持たない登場人物の呟きのような台詞もある。漫画ではこれらの様々なレイヤーにある台詞が同一の紙面に、というか同一のコマに収まりながら、無理なく読まれる*3。この台詞を読む順番に並べ、レイヤーの違いをグラフで表せば、稲妻のような激しい高低差を持つグラフが得られるだろう。漫画というメディアはそのようなレイヤーの急激な変化があっても通用するようになっているが、小説では絵や吹き出しやテキストといった要素はなく、あるのはただ一つ、文章だけなので、稲妻状のレイヤー遷移は認められていない。今どのレイヤーが語られているか読者に分かるように、レイヤーの遷移は妥当な一定の法則に従って上り下りする必要がある。可能な限り滑らかなグラフを引き、美しいマーブル状の層を形成するように努めるのである。(例外的に鉤括弧付きの会話文は唐突に用いても違和感がない。むしろレイヤーをリセットするために使える)
 この層の概念はカメラに譬えるならば遠近のみの調節にあたり、カメラの向きを含んでいない。そのためカメラの角度を変えつつの遠近調節(ズームしたりパンしたり)さえも、僕はどうやら苦手としているらしい。南無……。
 
 こういった僕の従来の技術が通用しない状況にあることが苦痛の元凶であるらしい。
 となれば、研鑽あるのみだから、今すぐ解決する問題でもない。今は頭を低くして、従来の文体を存分に振るえるステージまで切り抜けるしかないだろう。そして、この問題にいずれまたまみえるであろうその日までに、自力を養うとしよう。

*1:「書き方」というよりは「ものの見方」という方が適切か。

*2:本当は誰かではなく、彼には名前がある

*3:というか、漫画を読むためには、この辺りのお約束ごとを学習しなければならないのだろう。