普通の速さで歌うように

モデラート・カンタービレ

 著者マルグリット・デュラスのような情熱的な恋をしたことのない私には、この物語は難解すぎた。
 情熱という語からはスポーティかつボーイッシュな色彩を感じるが、海を隔てたあちらのお国では、パッシオンという語には殉教・受難のニュアンスが含まれる。命を賭けて異性を愛する。そんな恋を私は知らない。愛しているから死にたい、死によって愛を証明したい。心中を愛の表現とする危なっかしい恋を私は知らない。自動車の人身事故のように身を砕く定めの苛烈な情念。体験した試しがない。だから、この作品を分かったということは到底できない。

モデラート・カンタービレ (河出文庫)
マルグリット・デュラス
河出書房新社
売り上げランキング: 125617
おすすめ度の平均: 4.5
5 恋人と読みたい小説
5 大人の愛を陰翳濃く、じっくり
5 激書
4 未読なら買いです。
5 むせかえるほどの香り

 話の中心にやってくる人妻アンヌ・デバレードは、ピアノ教室に通う息子が教師に反抗的態度を取るほどに気をよくし、屈して従うときにはなんとなくつまらなそうにする。彼女の内側には現環境からの脱出を望む気持ちがあるが、はじめはそれについて無自覚である。それがもう一人の登場人物であるショーヴァンとの会話を通じて次第に意識的になってゆく。

 本作の(目に見える形という意味での)最大の特徴は会話文が多用されている点である。
 普通、会話文の連続は物語を単調なものに変えてしまう。もし会話文だけが並べば、これは小説ではなく台本だと見なされかねない。逆に、会話文を用いない書き方を心がけるだけで、それなりに小説らしい雰囲気を醸し出せるてしまうだろう。しかし、本作は会話文を多用してなおメリハリを失わない希有な例である。
 主人公アンヌの心理はほぼ外側から語られ、彼女の発話の裏に横たわる彼女の精神性は記述されない。私たち読者は彼女の内心を感じ取り、理解しなければならない。

 アンヌとショーヴァンの心を捉えて放さないのは、冒頭に出てくる情痴殺人の顛末。二人は事件の詳細を推測しては話す。しかし二人が交わしあうその内容は、ピストルを撃った男と撃たれた女の心理であったはずが、いつしか自分たちの願望を語っている。アンヌは自身の願望に気づく。気づいたところで、彼女にはできることがなにもない。刺激のない日々、管理された時間の繰り返し。閉め切った部屋の窓を開けて風を通すがごとく、せめてもの抵抗として子供をピアノ教室に通わせそれに同伴することで、彼女は擬似的に日常から脱出しているし、真の脱出の手がかりや機会を期待する。自覚は期待を彼女に教える。期待は実現の見込みがないことを彼女に教える。彼女はただ閉塞感に苛まされるしかない。実存を感じたなら、吐くしかない。マロニエの木がなくとも嘔吐は訪れる。
  

本筋ではないが、結びについて、あれこれ

 彼女はもはやかつての社会へ帰り、順応して安らかに暮らしていくということができないだろう。こういった物語は多い。ドン・キホーテがそうであったように、狂気の信奉者は最後に現実に屈する。ボヴァリー夫人ことエマも破滅へ歩んだ。私はそういった結びに出逢うたびに屈辱的な気分にさせられる。これは作品を否定する気持ちではない。作品自体はその結び以外あり得ない。ギャグ漫画でよくあるように、足場のない空中を歩き、ハッと足下に気づいて落下する、それが現実だ。そこで落下しない結びは都合が良すぎて、フィクションにすぎなくなる。小説はフィクションだが、フィクションのままにしておけないところに真価がある。私が屈辱的な気分にさせられるのは、作品によってではない。現実によってである。
 となると、破滅エンドでなければ、社会に順応して円満とする結びが考えられる。「僕はここにいてもいいんだ」(パツパチパチパチ!!!)といった具合か。これも別の意味で都合がよい展開だが、不可逆的な結果としてなら十分認められる。あるいは『ガリヴァー旅行記』の主人公のように世を捨てて生きるか。戦い続けるという意味で美しいが、それを徹底できるとすれば、彼は超人的であるといわざるを得ない。
 カタルシスのある終わりかはないものだろうか。と、この考え方こそが狂気の表れなのだが。ドン・キホーテサンチョ・パンサは嘲笑の的だったが、私は二人を抱きしめて接吻してやりたい。