スランプを脱する薬が欲しい

文学的守護霊

 ここ二ヵ月間の執筆量が通例の半分を下回っている理由は、書きたいことがないためではなく、書きたいことが多すぎるからだ。夜空を流れる一筋の星は美しいが、満天の星の全てが銘々で思うままに飛び交い始めたならもはや収拾のつかない事態になる。ここのところは、それに悩まされている。書きたいことを一つ捕まえて綴っていくことでさえ難しいというのに、あれもこれも捕まえたいというどころではない。あれもこれも捕まえなければ表現として失敗する、というところで私は右往左往し、ある星は取り逃し、ある星には逃げられ、焦っては躓いて転倒し、両腕に抱えていたなけなしの星すらもどこかへ散ってしまった。言葉が網だとすれば、悪いのは唐突に降って湧いた大量の星なのだろうか、それとも荒っぽい目を持つ網目なのだろうか。ともかく私は今日も惨敗してここへ逃げてきたのだ。
 
 一人称から非人称に語りを改めて書き始め、はじめの頃にあった不慣れな感じも克服し、どうということもなく書けそうだと思った矢先のことだった。新しい自分に生まれ変わった心地がしていたというのに、ここ二ヶ月で何もかもが崩壊し、先に述べた「はじめの頃」を下回る書き方しかできなくなってしまった。それはもう、小学生並の文章で、「〜と思った」を連発してしまう始末で、力量云々ではなく、本当に、書けなくなってしまった。書きたいことと意欲ばかりが今も頭上を飛び交っているが、今や星一粒捕まえることができない。ぐすん。
 
 非人称の語り手というものが分からなくなってしまった。語り手は、語るのだから、そこにいて、そこにいるのだから、私と名乗るか、名乗らないのかで、一人称か非人称かの二択となるし、非人称であっても、彼、彼女に視点を統一する一元型であるか、パラグラフで区切られてもいないのに融通無碍に視点を移り変わっていく多元型がある、と分類するとして、名乗らない語り手が次々に視点を移り変わっていくというのは、一体どういった距離感を持てばよいのだろうか?
 一人称ならば、「私」と書きたい対象との距離があるだけで、ことは容易い。ときに対象は「私」の内側にまで及ぶ。一人称で最も大きく位相が移り変わるのはそのときぐらいのもので、これは割と分かりやすい。
 非人称でも、語り手があたかも背後霊のように人物の背後に取り憑いたり、心中を覗き込んだり、あるいは特定の誰に憑依するのでもなく浮遊霊として周囲を漂ったりするイメージを持つと割合しっくりときてやりやすくなった。
 ところが、分かったような気になっていたのも三人称一元型に絞って書いていたときまでだった。時期尚早とは考えずに多元型に手を出して、今、困惑の最中にいる。この二ヶ月で私は迷宮に足を踏み入れ、進めば進むほど出口から遠ざかり、この魔物のような難問の腸でついに力尽きようとしている。いや、もう力尽きた、と敗北宣言をしておこう。そして戦線から撤退し、一元型に戻ってきて続けようとするのだが、もうすっかり距離感を見失ってしまっていた。フリースローの入らないバスケットマンの気持ちはこんなふうだろうか。これでは戦力にならない。
 そもそものはじまりは、ちょっと上手く書けてしまった、というところにある。一人称で書いていた頃の壁がすべて取り払われて、人物の内外を自在に出入りしては新しい発見をし、ははあ、これが非人称でしか作られない雰囲気か、と悦に入っていた。制約を一つ取り払った開放感から更に飛躍して、作中の時系列も小刻みに入れ替えよう、入れ替えながらも容易に分かるようにしよう、と試みて、無難に成功し、書きたいことを書きたいように書けばいいのだ、ただそれだけだったのだ、と思いもしたが、ハードルを上げすぎて自分の首を絞めているとは気づかなかったし、そもそも書くためのまとまった時間がいつでも取れるわけではなかったので常に集中力のある状態で挑めるわけでもなく、積み上げたと思っていたものが瓦解するのは早かった。瓦礫の中から抜け出すのも一苦労だ。
 
 距離感を失ってしまったと述べたが、正鵠を期するとこれは一人称の距離感しか分からなくなってしまったということで、たとえば一人称であれば「私」の視野に入っていないものは見えていない以上書けないものなのに非人称であればそれが書けるということが、どうにも不自然に思えて当惑する、といった事態のことだ。幽霊は成仏してしまった。
 ああ、また以前のように、境界を失ったように辺り一帯に溶け出して、何もかもどろどろになった自分の中に溶かしてしまうあの感覚で書けたらいいのに……。
 次回はもう少し現世に定着する霊を降ろさなくてはならないようだ。
 
 
 

粗い編み目で夜空を掬ってみる(早く修繕しなきゃ)

 でも上に書いたのは諸悪の権化の一翼なのよね、もう一翼は丸谷才一の『文章読本』を読んだのが悪かった。タイミング的に出逢っちゃイケナイ本だった。これまで活用してきた作家ではない文章の先達の技術の一つ一つのどれもが記されていて、うわ僕の先輩方全員この本から盗用したんとちゃうか、と思わされたし実際彼らはこの本に目を通していたであろう人たちばかりなのだが、それはさておき、海外の古典(の日本語訳)が主食だった私には日本語の真髄を丁寧に分かりやすくしかも実例を示して説いてくれるこの本が私の手にしていた方法と別の方を向いていたので大いに揺さぶられ、拙く積み上げた「本気の文体」の塔は耐震強度に難があったため巨人に踏みつぶされてしまった哀れなジャックのように(そんなジャックいないよう!)潰れてしまったアーメン。
 そも私は硬い考えを持った後にがちがちのそれをこんにゃくに変える運命的な出逢いを経てこんにゃくを通り越してとろろになって、やがて次第に硬くなってゆき望み通りこんにゃく程度になったときが一番いいのだが、またいつかがちがちに固まって、柔らかくなって……を繰り返してきた。最新のところでは金井美恵子の『柔らかい土をふんで、』を読んで「書きたいことを書けばいい」に至った。誰だって書き始めた頃は書きたいように書いたところで黒歴史にしかなりようのないアイタタなものしか作れず、規律と訓練で硬くなっていくもので、やがて自分を抑えて書いていることに気づき、何かのきっかけでまた書きたいことを書くようになって、そこに宝石と茨の両方を見付けては宝石の輝きにうっとりとし茨の棘にアイタタと呟き、また規律と訓練を自分に課する。そういうものだと思う。やがて書きたいことを書くということと規律と訓練を課することが同じ行為になると、書くことがまた一段と苦しくなるのだけど。
 今、また、そこに立ってるのだろうか、それならそれで、祝すべきなんだろうな。
 
 
 
 近いうちに*1文章読本』の感想を書きたいと思う。

*1:大人の「もうちょっと」は大嘘ということをふまえて、「近いうちに」