ディレンマを振り切って――スティール・ボール・ラン最終巻を控えて

 ※ 当方はコミックス派。現在の最新巻である22巻までのネタバレ注意。
 

 

 週刊少年ジャンプで『スティール・ボール・ラン』の名を冠して始まった荒木宏彦の新作が、『ジョジョの奇妙な冒険 第7部』と公表されたのは、月刊誌であるウルトラジャンプに移籍してからのことだった。私は丁度そのころからスティール・ボール・ランの読者となった。
 第7部は2011年の5月号にて完結し、すでに第8部の連載が決まっているという。しかし第7部のコミックス最終巻はまだ発売されていない。現在、最新巻は22巻であり、来月になれば23巻が、再来月になれば最終巻である24巻が発売される予定だ。コミックスで楽しんでいる私はまだこの漫画の終わり方を知らない。
 私はジョジョの物語を愛する読者の一人だが、最終回を期待して良いものかについては、一抹の不安がある。荒木宏彦は漫画家として天才であるが、話の作り方に関しては、緻密さとはほど遠い人種だ。氏の忘れっぽい性質のため、いつの間にか失われた設定、付け足された設定が数え切れないほどある*1。明らかな後付け設定はもはやジョジョのお約束ですらある。
 特に、スティール・ボール・ランでは大小様々な路線変更が行われてきた。冒頭に挙げた変化もその一つだ。連載当初はジョジョの系譜からは切り離された物語だったが(実質的には第七部だったに違いないが)、連載誌が変わったタイミングで正当な系譜であるとされた。内容も馬によるレースがメインであったところを「聖人の遺体」争奪戦へと変更された。レースという目的を目指して造形されたキャラクターにとって、この変化は大きすぎた。強敵(ライバル)のサンドマンが、悪役(ヒール)のサウンドマンとなってしまったように。どこかしら使い勝手の悪くなったキャラクターを処分したような印象を受けてしまった。そもそもサンドマンは砂を操る能力であるかのように描写されていたが、蓋を開けてみればサウンドマンとして音に関係する能力をもつとされた。この辺りはハラハラとさせられた。漫画を興奮して読んだという意味ではない。荒木先生が“失敗”をやらかすのではないかと落ち着かなかったのだ。
 訓練されたジョジョのファンとしては、今更、主人公の名前が以前のものと違っていたところで驚くに値しないし、スタンド能力の効果が物語の都合に合わせて徐々に変わっていったぐらいで文句を垂れるつもりはない。奇妙な謎が種明かしされた場面で、いやそれは種明かしになっていないと額に血管を浮き上がらせたりしない*2。「6秒、時が戻るだけで果樹園を抜け出せなくなったりしないw」と軽く笑って次へ進むものである。
 しかし、敬虔なファンであっても氏を疑ってしまうことはある。特に、結末というものに対して、私は安心できない。第1部から第4部までは、物語作りの手本にしても申し分ない終わり方をしている。しかし、その後はどうか。どうにも強引な締め方のように思われる。ラスボスの力が強大になりすぎてしまい、話が大きくなりすぎてしまった挙げ句、それらに振り回され気味の締め方だ。第5部、第6部の終わり方が失敗しているとはいわないが、成功しているともいえない。特に第6部の最後は難しい。意外にも計算された上に成り立っていることは分かる。だが、だからこそやっかいなのだ。計算された上でありながら、分かりやすさの点で言えば、まるっきりなっていない。だからこそやっかいなのだ。
 あるいは氏は何一つ失敗などしていないのかもしれない。だが分からない読者はどうすればいいだろうか。「なにこれ、わけわからん、ツマンネ」と非難する読者を読みが甘いと叱咤しようにもしきれない部分が確かにある。氏が失敗したのか、それとも単に難解なだけなのか、区別が付かないファンは当惑してしまう(情けない話だが、作品に対して尻込みしてしまう)。しかし氏の話作りが下手なのは本当のことだから、とんでもないことをやらかすのではないか、と危惧してしまう気持ちも分かって欲しい。
 実際問題、私の心はいくつかの心配と諦めでスティール・ボール・ランの最終巻を待っている。ジャイロがレースに参加した当初の目的は、処刑される運命にあるマルコ少年を恩赦により助けることだったが、マルコ少年に関する言及は、今後あるのだろうか。ジョニィを突き動かしていた「漆黒の意志」をジャイロは肯定していなかったが、これについてジョニィはどういった回答を示すのか。レースは誰が優勝するのか、ポコロコとの対決はあるのか。これらは決して些末な問題ではないはずだが、氏はこれらを無視して物語を締めくくるつもりではないか……という不安がある。この点に関して、荒木宏彦を信じることが正解なのか、疑うことが正解なのか、どちらでもよいと鷹揚に構えるのが正解なのか、私には分からない。
 
 だが、最後まで読みたいという意志もまた確かにある。
 「面白いもの」が描かれていることは事実だ。絵による表現は着実に進化している。さらにいえば、進化のわけが作者のモチベーションに依存していることが分かりやすいため、なおのことよい。向上心という名の、目的を見付けた人の強さが見え、その姿勢は物語の内容以上に人間賛歌を表している。(大統領との最終戦の舞台となっている割れた海の、あの水の動き!)

 不安の正体は――。私は減点方式でジョジョを採点しようとしているのだろう。ストーリーの欠陥、回収し切れていないテーマ、そういった項目の減点はかなり大きなものとなる。
 結末により作品は完成し、言い逃れしようのないものとして固まる。そこにひびを入れたくないと恐れおののいているのが私なのだろう。
 だが、なんと滑稽なことだろうか。スティール・ボール・ランの最後はすでに雑誌に掲載されて決まっているというのに、こうまで恐々とする自分の滑稽なこと。
 こんな滑稽な不安は今このときまでで終わりにするとしよう。
 こんな不安は作品を読み返しているうちに消し飛んでしまうはずだ。なぜなら読後、必ずこう思ってきたからだ。
 早く次の巻を読みたい!

*1:お前は今まで食べたパンの枚数を覚えているか?

*2:もちろん、鼻の上にも血管が浮き出ることはない。