真の小説嫌いが書いた最上の小説

キャッチコピー

 著者:アンドレ・ブルトン
 題名:ナジャ
 
 1926年 『ナジャ』が世に出る
 1963年 『ナジャ』著者による全面改訂版が出る
 
 この書物が多くの人の手に開かれるように、キャッチコピーを考え、本エントリの題名とした。
 真に小説を批判できるものは、小説の構造について熟知しているものに違いない。そして小説の持つあざとさや粗雑さ、身勝手な捏造といった多くの欠陥についても承知していることだろう。そのような人物がそれでも書かずにはいられなかった小説とは――? そして執筆して後、晩年になって多くの訂正を行ってまで完成させずにいられなかった理由とは――?
 

導入

 私は本作品について多くを語ることはできない。必要十分に理解するためには、ブルトンが記した『シュールレアリスム宣言』を読み、理解する必要があるし、もちろん、できればの話だが、その内容を実践してみるべきだろう。加えて、ブルトンが愛読したはずの詩をいくつか諳んじて、それらを吟味できるだけのセンスがあれば心強い。しかし私は氏の『宣言』を読んだことがないし、詩についてはシュールレアリスムに関する浅薄な知識よりも更に疎い知見しかないときている。だがこうしてエントリを立ち上げずにはいられない。それだけの美が本作品にはある。*1
 


 私は本作品を岩波文庫で読んだ。
 ページの内訳は次の通り。
 
・序言 p7-9 (3ページ分)
・ナジャ(本編) p11-191 (181ページ分)
・写真目次・訳注 p193-313 (121ページ分)
・解説 p315-345 (31ページ分)
 
 ご覧の通り、本編は181ページ相当となっている。『ナジャ』というタイトルの岩波文庫本を一冊手にとったときの半分の重みがナジャである。もう半分は脚注となっている。すべての脚注を追いながら読む場合、『ナジャ』を小説ではなく論文として読むことになるだろう。小説として読む限り、脚注を神経質に追いかける必要はない。となれば、読む量は181ページでよい。また、本作品には多数の写真やデッサンが掲載されている*2。実に48枚。となれば、読む量は実質133ページ。
 こんなことを強調してしまうのは、まずは最後まで読んでもらいたいからだ。難解な作品であると同時に、難解さを感じてはいけない作品とも思しき本書を楽しむためには、とりあえず最後まで読み切ってもらいたい。本を閉じたが最後、二度と開かずに終わってしまうような威圧感に負けないでもらいたい。ナジャが登場するところまでくれば、後は軽快に読めるはずだ。

ナジャ

 あらすじと呼べるほどの起承転結はない*3ブルトンが誰よりも自由な女性、ナジャに出会い、彼女がいかに自由であったかを記した作品となっている。
 彼女がどのような人であるかを言葉で説明するのはナンセンスだ。ナンセンスでなければ、なぜブルトンは一冊の本を書いたというのか。それとも自由を囲い込むことなどできるだろうか。囲い込まれてしまうような自由が自由と呼べるだろうか。
 しかし雰囲気ぐらいは伝えることができるように思う。ひねりもなく台詞を引用することによって。
 そして引用し始めればそれと同時に、私はナジャにもブルトンにも嫉妬しはじめるだろう。
 
p82

 立ちさろうとしたところで、私はほかのすべての問いを要約するひとつの問いを、たしかに私しか問うものがいないにしても、少なくともいちどはそれにふさわしい答えに出会ったことのある問いを、彼女に問うてみたくなる。「あなたは誰?」すると彼女は、ためらわず、「私はさまよう魂」。

 前置きなく*4、あなたは誰ですかと訊かれて、躊躇うことなく、私は彷徨う魂と答える。
 
p86

「遊びよ、なにかいってみて。目をとじて、なにかいうの。なんでもいいわ、数字でも、人の名前でも。こんなふうに(と目をとじる)。ふたつ、何がふたつ? 女がふたり。どんな格好? 黒い服。どこにいる? 公園のなか……。それから、その女たちは何してる? さあやってみようよ、とても簡単なんだから。どうして遊びたくないの? それじゃいいわ。あたしね、ひとりぼっちのとき、こんなふうに自分と話をするの。どんな話でもしちゃうの。無駄話とはかぎらないわ。あたしって、まるっきりこんなふうにして生きているの」。

 これこそが、シュールレアリスム。何も考えず、思いつくがままに。*5
 

私の家の門の前で別れる。「さあ、あしたはどうしようかな? どこへ行く? でも簡単、ラファイエット通りとフォーブル−ポワソニエール通りのほうへゆっくりくだっていって、私たちがさっきいた場所にまずもどってみることね。」

 そう、いつでもはじめから始められる。いつでも原点に戻ることができる。原点は到達地点であり、することはといえば、無作為に紡ぐばかり。プロットも伏線も背景も何も要らない。探しに歩く必要もなければ積み上げていく必要もない。なぜならそれらは彼方のどこかからやってくるから。自由とは何も持たないことである。すべてが訪れる地点で何も持たずにいることである。ゆえにそれは一見するとひとつの偶然のように思われる。
 
p100

 真夜中ごろ、テュイルリー庭園へやってくると、しばらく腰をおろしていたいという。目の前に噴水がふきでており、彼女はその曲線を目で追っているようだ。「あれはあなたの考えることと、あたしの考えること。ほら、ふたついっしょに、どこからかふきだして、どこまでふきあがってゆくか、それでまた落ちてゆくときのほうがどんなにきれいか、見てちょうだい。それからすぐに溶けあって、おなじ力にまたとらえられて、もういちどあんなふうに伸びあがって砕けて、あんなふうに落ちてゆく……こうやっていつまでもくりかえすのよ。」

 ただでさえ官能的である水の動きを二人の関係になぞらえ、あまりに官能的。美しすぎる。
 
p110

ナジャが私の留守中に電話をかけてきた。かわりに受話器をとった人物が、どうすれば連絡がつくかとたずねると、「あたしには連絡がつきません」と答えた。

 ナジャはさらっと、もの凄いことをいう。前触れなく打ち据えてくる稲妻だ。五臓六腑が痙攣してから、今とてつもないものを読んだ、と気づく。
 定まった場所に住み、定まった人間関係を築いている人であれば連絡が付くはずだが、彼女は自由すぎる。無論、一般的な感覚では住所不定かつ人間関係の一定でない人など危ないだけ。
 一本の綱の上で軽やかに踊る彼女を、呼び止めて大地に引き留めるべきなのか、黙ってその美を見つめ続けるべきなのだろうか、いつか墜落する危険性には目を瞑って……?
 そんなことは認めるべきではない……
 
p117

アンドレ? アンドレ?……あなたはあたしのことを小説に書くわ。きっとよ。いやといってはだめ。気をつけるのよ、なにもかも弱まっていくし、なにもかも消えさっていくんだから。あたしたちのなかの何かがのこらなければいけないの……。でも、なんでもないわ、あなたは別の名前をもつようになるから。どんな名前かいってほしいでしょ、とても大切なこと。なにか火の名前のようでなくちゃ。だってあなたのことになると、いつも火が思いうかぶんだもの。手もそう、でも火ほど肝心なものじゃないわ。あたしに見えるのは、手首から出てくる炎よ、こんなふうに(と、トランプのカードを隠すような動作をする)、それから炎は手を燃えあがらせて、その手はまたたくまに消えてしまうの。あなたはラテン語アラビア語の偽名を見つけるのよ。約束して。きっとよ」。彼女はまた新しいイメージを使い、自分がどんなふうに生きているのかをわからせようとする。ちょうど朝、浴槽につかっていて、水の表面をじっと見ているうちに、体が遠のいてゆくときのようだという。「あたしは鏡のない部屋の中で浴槽に浮いている思考なの。」

 《なにもかも弱まっていくし、なにもかも消えさっていくんだから》、そう(作中の文脈を今は脇に置き、私の感ずることを述べるが)、多分、朝食に何を食べたのかも、昨日着ていたシャツの色も、新緑のように芽吹いた志も、倦怠の果てに感じ得た退廃的な快楽も、すべて瞬く間に忘れてしまって、何一つ残らないが、何か一つ残さなければならない……。泡のように生じた着想が泡のように失われるとしても、その美しさだけは何らかの形で残らなければならない……というよりは、残ってしまうことだろう。作家が書くべくして書く美は、薄暗い部屋で明滅しているぼんやりとした赤いランプのようなもので、書くときにランプはなく、瞼の裏側に焼き付いて消えない残像……。
 
 それにしても……
 あなたからは炎を連想する、といわれて気をよくしない男がいるだろうか。
 いやそれよりも、
「あたしは鏡のない部屋の中で浴槽に浮いている思考なの。」
 ああ……、どうしたものか。
 これをどうしたものか。
 美しすぎて、流石に危うい、これに感動していては、正気や人間性を失ってしまう、踏み込むべきではない、と警戒し、アンドレ・ブルトンを突き放し、共感を拒否――したはずの私を一瞬にして引きつけ、引き裂いてしまうこのフレーズ! この破壊力……!
 自筆の小説を読み返している最中にこのフレーズが現れたなら、私は十分ほど惚けてしまえる自信がある。息を止め、興奮したその次には、熱のこもった感嘆を飽きるまでつき続けるだろう。前後を執拗に読み返し、喉の奥から熱い感情を吐くだろう。それを書いた当時の自分を褒め称え、その延長にいる自分を誇るだろう。この瞬間にのみ生は肯定されるし、自信というものも、この瞬間でなければ本物ではあり得ない。
「あたしは鏡のない部屋の中で浴槽に浮いている思考なの。」
 これと同じ次元にある言葉を私はいつも探している。あるときは深く潜ったときに、あるときは思いの外、浅いところで、この言葉を拾う。風の精霊か何かのようなその生きものの尻尾を掴んで、春先の雪よりも溶けやすい記憶の箱に封をして、その傍から封をしたことを忘れ、次に開けようとしたときには、箱ごと、跡形も残っていない……。私はそうやって逃してばかりいるから、捕獲者の功績が妬ましい。
(だから、ブルトンの提唱した自動筆記はあまりに正論だ。「書くとき」と「思いつくとき」を同じ時空で行う以上、尻尾付きの精霊を逃すはずがない。ぐうの音も出ないほど正論だ)
 
p130

私は朝になって、はてしのない希望の羽ばたきがそれ以外の恐怖の羽ばたく音とほとんど区別されなくなるような一つの世界の上に、彼女の羊歯の目がひらかれるのを見た。それまでその世界の上では、目がとじられるところしか見たことがなかったのだが。

 ブルトンに嫉妬せざるを得ない。
 こういった表現を私は誰よりも好んでいるし、いつも探している。だが、いつでも見つけられるわけではない。手に入れられそうなところで現実や日常や生活といった檻に気付き、羽ばたけるとした確信が錯覚にすぎなかったことを知る――というよりは、知らされてしまう。それほどに地上の重力は強い。
 「それほどに地上の重力は強い」――ああ、なんということか! なんという皮肉めいた偶然!――はじめスペースキーを押したとき、「それほど日常の重力は強い」と変換され、愕然とさせられた。何が地上の重力か! そう、日常の重力の方がよっぽどふさわしい。私はまた手に入れられなかったのだ。*6
 

語られていない事実

 はじめて読んだとき、『ナジャ』という書は難解だった。当時の私は若すぎて、ブルトンに近づくことができなかった。まだ精神が幼かったということもあるが、自己破滅的な衝動の美を知らない健全さを持ち合わせていたことが大きい。しかし名作には力がある。何か突然、『ナジャ』を読まなくてはいけない気がして、誘われるように読んだ*7
 読む直前、私は好意的ではなかった。ナジャが精神的な病にかかる結末を知っていたからだ。男はなぜメンヘラ女を好きなのか、好きといいながら実際に選ぶのは実直な女である狡猾さに目を瞑るのか、と考えていた*8。しかし、読み返し始めるとそのような問いは忘れた。ナジャの羽の生えたような軽さに惹かれ、彼女の詩的な言葉に震えた。かつて目を通したときよりもずっと確かに読めている手応えに酔いしれた。読後、先の問いを思い出した。ブルトンが当時の精神病院のあり方を非難しているページが蘇った。私は浅く愚かな解釈で、狂気と非狂気の境目のうち限りなく狂気に近い場所に立ち続けていなければ具現し得ない性質、極めて寿命の限られた性質が、ナジャの本質であり、ブルトンはそれを失って、(ちゃちな言い方になるが)玩具が壊れてしまった子供のようにだだをこねているふうに読んでいた*9。やはり男は身勝手だと考えた。
 なんと筋違いな解釈か。二度という回数は、私が書の中身を理解するためには少なすぎる数のようだ。
 男は身勝手だと悟ったふうなことは、安易に書くものではない。ブルトンには、その手の狡猾さはなかった*10。そしてそれゆえに彼は『ナジャ』を書かねばならなくなった。
 
 『ナジャ』はブルトンの自伝――自伝的作品ではなく率直に自伝――といってしまってよい作品である。事実に即しているのであればドキュメントかノンフィクションだが、なぜ小説(フィクション)であるのか? それは、彼女、本名レオナ・カミーユ・ギスレーヌ・Dが、ナジャとして神話的永遠の存在へ昇華されなければならなかったから。そうすることがブルトンにとって、ナジャと知り合っている最中に負い、別れてからはいっそう強まってしまった責め苦からの、唯一の救済となるからだ。
 小説は「ガラスの家」のように、隠し立てされることなくすべてがあけすけに語られていなければならない。これがプルトンの思想の一つだ。事実、『ナジャ』はそのようにして書かれている。すべてが語られている。それゆえに語られている事柄には意味があるし、語られていない事柄にはなおのこと意味がある。この場合、語られていない事柄とは、ひとつには、後の研究者たちがブルトンとナジャの交流を追跡し、発見した、作中に登場することのなかった書簡の内容などのことだ。今ひとつは、本書が著者の手によって訂正される上で削除された部分だ。(これについては本書の脚注と解説が詳しい)
 ブルトンはナジャがいずれ精神的な疾患にかかることを予見し、それに苦しんでいた。その上でブルトンはなにをしたのだろうか(彼女を救おうとしたのか、しなかったのか)、その辺りのことは専門家達の間でも意見が割れているようだが、ブルトンがナジャを救えなかったことについて苦しんでいたことだけは確かだ。作中でブルトンが、ナジャの妖精のような自由な側面と現実生活に関する聞くに堪えない話のギャップに苦悩する記述がある。見当違いの解釈をしていた私と解釈を改めた私はそこにまったく異なる解釈を見るようになった。
 
 著者が削除した箇所に限らず、『ナジャ』の中には断絶がある。墨インクを一滴垂らしてできたような何もかもを呑み込み覆い隠してしまっている断絶が。
 三度目の読書が必要になる。
 解説と脚注を読み込んだ後、それらがすべて無意識の海に流れ出て漂うまでの時間をおいてから、ふっと衝動的に書を手にとって、シュールレアリスムにより書くようにして読むとき、断絶は明らかとなるだろう。文学の研究者ではない私が、読者として接近することのできるもっとも深い部分は、このようにしてしか覗けまい。

*1:本書は私を嫉妬させた。世間にとっての名作と個人にとっての名作を分かつ線は嫉妬が生まれるか否かに依る。

*2:《作中では文章による情景描写の代わりに、ナジャによるデッサンを初めとして、多数の人物写真や風景写真を用いて、ブルトンが「宣言」で攻撃している描写を排除している。》――wikipedia、ナジャより引用

*3:ただし構成力は凄まじい。

*4:かどうかは分からないが

*5:もの凄い余談をここですると――シュールレアリスムは無住の剣に似ている。無住の剣とは「心に何も住まわせずただ剣を振る」理念を持つ剣術流派の一つ。しかし何も考えずただ剣を振るうだけで戦場を生き残れるならば苦労はない。あらゆる技術を身につけた上で、それらを型に嵌めず、身体のなすがままに任せる。コッテコテの技術論への反動としての磨かれた戦法であって、素人が何も考えずに実践できるものではない。

*6:この手の偶然が『ナジャ』には溢れている。ブルトンは客観的偶然と呼んでいる。

*7:チャンドラーの『長いお別れ』を1/3のところでほっぽり出して。

*8:森鴎外の『舞姫』を思い出した。あと、ドストエフスキーはなぜ娼婦萌え路線なのか。

*9:狂気と非狂気に境はない(両者は同じもの)と主張する彼が精神病という狂気によって彼女を失ったのだとしたら(彼がそう感じたのだとしたら)、それは滑稽だ、とすら思っていた。

*10:ブルトンは誰かに恋をしたならその事実を妻にありのまま打ち明ける人だった。