今更、第弐門の感想とか

 『修羅の門 第弐門』の最終刊を年末に読み、本作についていろいろと感慨深く思ったので、ここに綴る。
 その性質上、ネタバレしていくスタンスになる。あしからず。
 
 
 

 
 
 
 『修羅の門』は格闘漫画の古典だ。
 第一部では主人公である陸奥九十九が単身で実戦空手の総本山である神武官に挑み、完全勝利を収める。
 やたらめったら強い主人公が無双する典型的パターンだ。ラスボスの海堂に苦戦を強いられるので無双という語には語弊があるが、類型としては無双ものに数えるのが妥当だろう。
 
 第二部では日本最強をかけたトーナメントが開かれ、様々な流派と立ち会う。
 それぞれの流儀の特性を説きながら、それを上回る陸奥圓明流の強さが証明されていく。
 面白いのはラスボスが分家の不破圓明流である点。ほぼ同じ流儀ゆえに技ではなく人間の強さというか宿業が勝敗を決したという形か。
 
 第三部はボクシングの本場アメリカで、ヘヴィ級のリングに立ち、ボクシングルールの縛りの中で陸奥圓明流の最強を示す。ルールの制約があるだけでも面白いのに、ラスボスである王者アリオスと戦う舞台まで上り詰めるサクセスストーリーまで魅力的。
 アリオスが最終的にボクシングのルールを逸脱したダーティな戦術をとるのに対し、何でもありを信条とする陸奥の方がボクシングの師を気遣ってルールに則り戦う。熱い。
 
 第四部はヴァーリ・トゥード異種格闘技戦である点は第二部と同じだが、日本ではマイナーとされていた流儀が登場する。どのキャラクターも魅力的で、誰が勝つか読めないカードが多い。
 
 
 
 テンプレ的な第一部、異種格闘技戦をやり、なおかつ圓明流対決までやった第二部、ストーリー重視の第三部、キャラ重視の第四部と、格闘漫画の教科書にしたい構造がある。
 そして再開未定の形で連載は休止し、14年もの年月を経て、続編である『第弐門』が連載された。
 
 
 
 休載されていた14年の間に『修羅の門』は多くの人に読まれたはずだ。
 若い世代が格闘漫画に興味を持ち、次々と読んでいくうちに『修羅の門』に辿り着き、なるほどこれは名作だと褒め称えたであろう。
 特に第四部はブラジリアン柔術の描写が魅力的だったし、すべての選手がイカしていた。続編にも同じ完成度を期待したことだろう。
 
 こうしてハードルが上げられたうえでの『第弐門』、その評価はといえば、連載されてから長らく「コレジャナイ感」が呟かれていたように記憶している。
 陸奥九十九は前田ケンシンと仕合ったが、死闘であったがゆえに勝敗を記憶していない。陸奥九十九にとって戦うということは己の最強を証明する行為であり、無敗でなければ意味がない。もし前田ケンシンに負けたのであれば、九十九はもう戦う必要がない。記憶喪失の九十九は勝利に執着できず、いっそ強敵にしっかりと敗北して再起したいとネガティブに考えている。それを指して「陸奥九十九は壊れている」といわれてきた。
 しかしこの事実が明かされるのは『第弐門』の終盤にさしかかってからであり、それまで読者にしてみれば九十九が壊れている状態とはつまるところどういうことなのか、まるで分からないままだった。
 物語において謎は原動力になるが、この「陸奥九十九は壊れている」という謎はむしろ読者を当惑させるばかりだった。
 
 『第弐門』のコミックスには毎度、著者のあとがきがあり、作中でどういったことを表現したかったのかがそこに綴られているため、読者が解釈を違えることもない。陸奥圓明流なる古武術は現代格闘技の粋を詰め込んだ総合格闘技の技術といかにして戦うのかといった試みが明記されている。こうなると、もう、逃れようもないくらい、作者の仕掛けの成否に注目が集まる。
 うまい仕掛けだったとはお世辞にも言えない。「やりたいことはわかるが、うーむ……」そんなところだ。
 
 極めつけは「発勁」の登場だ。
 発勁は重心の移動により大きな力を生み出す中国武術の技法だ。平たくいえば効率よく体重を乗せる方法であり、実在する技法である。中国拳法の真髄はもっと他のところにあるのであって、発勁それ自体はわりと基礎的な技法とされる。
 しかし作中での発勁の扱いは、明らかに実在のそれとは別物だった。
 修羅の門という漫画は震動を叩き込む無空波かまいたちを利用する龍破といった技が登場するような漫画だから、発勁がトンデモ理論に則った作者オリジナルの「発勁とよばれている技」であってもいいといえばいいのである。
 しかし第壱門から第弐門までの14年間の空白がハードルを上げてしまっていた。第四部のブラジリアン柔術の描写が現実的だったために、いまさら発勁がトンデモ理論で済まされるのは許されない。そんな雰囲気ができあがってしまっていたのである。
 
 このあたりになると惰性で読んでる人しかいなかったのではないかと思われる。
 しかし10巻のジム・ライアン戦辺りから何となくよくなり始め、九十九は壊れている云々の謎も明かされて、14巻で前田ケンシンとの仕合の回想が始まると、一気に持ち直した。トンデモ発勁にも慣れてテンション上がりっぱなし。(むしろこれはこれでいいぞ!)
 これが修羅の門だよ、俺たちはこれが読みたかったんだよ、と皆の顔に生気がみなぎってきたと記憶している。
 いまいち強く見えなかった姜子牙が「あれ? こいつ作中最強じゃね?」と思えるくらいになったところで陸奥が完全復活し、「敗北の二字はない」を、やっという。
 この展開ですべて許せてしまうのは、僕が甘い読者だからだろう。
 少なくとも『第弐門』はこれをやるためにあったのだ。
 
 
 
 その後の海堂晃戦は消化試合感が否めない。
 作者がコミックス巻末でノープランだったことを赤裸々に語っている。
 それ自体はいいと思う。
 ただ片山の株がちょっと落ちた感が、ファンには受けが悪かったんじゃないかなと。
 陸奥九十九の強さに張り合う強さが海堂晃にあると表現するためには、カマセも片山ぐらいのレベルが必要になるのは分かるし、片山当人は強くなるための動機に乏しいので物語的な意味合いで退場しがちになるのは避けられないのだが、ちょっともやもやした。
 
 
 
 なにはともあれ、格闘漫画の古典作品が昨年になってやっと完結したことに感慨深いものを覚える。自分がセコンドに着いていたらタオルを投げずにいられない、そんな状況から逆転勝利を飾る主人公が好きです。時代を超えて偉大なる大馬鹿者を続けた陸奥九十九に感謝したい。