語りの海を漂いながら――灯台へ

著者 Virginia Woolf (ヴァージニア・ウルフ) [1882-1941]
イギリスの作家。モダニズム文学の旗手。
 
 『灯台へ』は、我が人生の書の一つ。まだまだ若造の私ですが、残りの人生にこれを超える作品に出会うことはないだろうと思っています。
 感想を一言でいえば、名作がこんなに面白くていいのだろうか、といったところです。娯楽作品が愉快なのは当然ですが、名作は難解であり眉間に皺を寄せて読まねばならないとする権威主義的な信仰が、悪意とは無縁ながら慣習の呪術的性質に則って我々の中に息づいているものと決めつけさせていただくとして、この信仰を転覆させる圧倒的小説力が本書には備わっております。なんといっていいものか……「名作を読めてアタシ、シアワセ」と鼻血を垂れ流しそうな興奮に見舞われるのです。*1
 「意識の流れ」と呼ばれる手法により語られるウルフの世界の、なんと鮮やかなこと!*2
 人が他人を評するとき、一側面のみを見て判断することはありません。往々にして、甲に関しては尊敬するが、乙については愛想が尽きる、と場合分けするものですし、時と場所によっては、普段何ら価値を見出せない人のことであっても、無下にすることはないのではないか、丙に関しては見所があるのではないか、と美点を見出し、その一つの美点だけで全体の評価を逆転させたりもする。本作品では、ひとりの人間の強さと弱さが寄せて返す波か満干の周期のように揺れ動く様を描くことによって、人間らしいものの見方、感じ方が浮き彫りとなっています。
 本作品は三つのパートに分かれています。第一部と第三部は、ラムジー一家にまつわるある一日を描いています。第二部は第一部と第三部を隔てている十数年の時間を、あたかも映像の早送り再生のごとく描いています。時間の密度を自在に操る点でもウルフの腕前には惚れ惚れとさせられます。読者は強くたゆまなく流れる時間を感じ取り、いずれ時間がすべてを洗い流し、我々から何もかもを奪ってしまうだろうと考えてしまうことでしょう。その中で、永遠と呼べるものがあるとすれば、それはなにか、という命題を無意識のうちに考えながら読み進むことになるかと思います。



 人生の書というからには、何度も読み返し、咀嚼・反芻したいところです。初回は岩波文庫版の御輿哲也訳で読みました。二度目もそうです。しばしば適当に開いては、偶然に開かれたページから気がすむまで読み続けるといったことはしておりましたが、通して読んだ回数はまだそれだけです。通しで読む三度目には池澤夏樹=個人編集 世界文学全集の鴻巣友希子訳を選びました。

灯台へ (岩波文庫)
灯台へ (岩波文庫)
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ヴァージニア ウルフ
岩波書店
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 ▲以下、本エントリではこれを御輿訳と表記する。

 ▲以下、本エントリではこれを鴻巣訳と表記する。

 まだ読んでいる最中でありますが、鴻巣訳は文章を短く切って訳しているようです。英文は関係詞によって文章を長々とつなげてもメリハリがつくらしいのですが、膠着語である日本語は長くなればなるほど意味が取りづらくなる一方なので、短く区切るのは一つの手であります。しかし、御輿訳に慣れ親しんできた身としては、鴻巣訳はかえって意味が取りづらいように思いました。読みづらいだけならいいのですが、御輿訳と意味が違ってきているような気がして、御輿訳も開きながら並行して読み進めるようにしています。
 それぞれ、有り難いところと難儀なところがありました。

語りの段階と転移

 特に注目し、吟味した箇所がありました。引用してみます。




 ▼御輿訳 p41

一緒に車道を歩きながら、バンクスのコメントにリリー・ブリスコウはごく簡単な返事をするばかりだった(というのも彼女は子どもたち皆に、いやこの土地全体に恋をしていたから)のだが、やがてバンクスはラムジーの生涯についての考えを語り始めた。彼はラムジーを半ば哀れみ、半ば羨んでいたが、それは若い頃の孤独と厳格さによる栄光をかなぐり捨てて、親鳥が羽根をバタつかせながらひな鳥とやかましく鳴き交わすような生活の中に、いきなり飛び込んだような印象があったからだった。家族が彼に何かを与えたのは確かだろう――それはバンクスも認めていた。もしキャムが上着に花を挿してくれたり、ヴェズヴィオ火山の絵を見るために父の肩によじ登るように、自分の肩にしがみついてくれたら、やはりそれは嬉しいことだろう。それでも古い友人たちは、家族を持ったことで、ラムジーの中の何かが壊れたと感じないではいられなかった。ほかの人たちにはどう映るんでしょう? たとえばリリーさんはどう思いますか? 妙な習慣――風変わりな振る舞いや性格的な弱さが目立つようになったと思いませんか? 彼のように知的な男が、あれほど身をいやしめる――というのは少し言いすぎかもしれませんが――あれほど他人の評価を気にするようになったのは、驚くべきことです。
「でも」とリリーは言った。「ラムジーさんの仕事のことを考えてみて下さい」

 
 ▼鴻巣訳 p30

彼とならんで車道を歩きながら、リリー・ブリスコウは「ええ」か「いいえ」で短く答えて、彼の論評に適当な相づちをうっていた(なぜなら、彼女は子どもたちみんなに夢中だったから。この世界が大好きだったから)が、バンクスはそれにお構いなく、ラムジーの人生の重みをあれこれ量りながら、哀れんだり、うらやんだりしていた。彼の目には、ラムジーが若き日の栄冠である孤独と謹厳という誉れをみずから放りだし、小鳥たちの羽ばたく、ピーチクパーチクとやかましい家庭をしっかりと背負いこんだように映っているようだ。もしキャムが自分の上着に花を一輪さしてくれたら、あるいは、噴火するヴェスヴィオ火山の絵を見ようと父親の肩によじ登るときみたいに、この肩にのぼってきてくれたら、自分だって顔をほころばせるだろう。しかしわが子という存在は、ラムジーの中の何かを壊しもした。と、古くからの友人たちなら感じずにはいまい。これが旧知の仲でなければ、いまの彼をどう見るだろう? たとえば、ここにいるリリー・ブリスコウは? あの男にある種の性癖が強くなってきたことに、周囲も気づかずにはいられないだろう? 奇行というか、弱さみたいなものに? ラムジーのような知的な男があんな下世話な――いや、ちょっと言い方がきつすぎたな――つまり、あんなに人受けにこだわるとは意外だよ。
「けど、そこはやはり」とリリーは返した。「あの方のお仕事柄を考えてさしあげなくては!」

 
 どうです?
 この場面の描かれ方としては――

 一、まずバンクス氏の内面が描かれ、
 二、次に内外が曖昧となり(地の文が語り手のものなのか、バンクス氏の内的独白なのか、それとも自由間接話法なのか)、
 三、最後には自由間接話法であることが確定して、
 四、これを受けてリリーが直接話法で返答します。

 ――が、問題は「二」です。あるいは「二」と「三」の境界がどこか、というところです。
 

 御輿訳では、その点が明確にされています。
《それでも古い友人たちは、家族を持ったことで、ラムジーの中の何かが壊れたと感じないではいられなかった。》
 → (恐らくは語り手による)バンクス氏の内面描写
《ほかの人たちにはどう映るんでしょう?》
 → バンクス氏の内的独白か自由間接話法
《たとえばリリーさんはどう思いますか?》
 → バンクス氏の自由間接話法
 

 上記の三つの文章を読んで分かる通り、階段を一段ずつ下りるように語りのレイヤーが丁寧に区切られています。二つめの文章が内的独白か自由間接話法であるのかがわざとぼかされているのは、内面描写から自由間接話法へとレイヤーが移る上でのクッションとしての働きを狙ってのことです。つまりは曖昧なのではなく「内的独白であり、自由間接話法であり、内的独白かつ自由間接話法である」という文章として断定されているのです*3(御輿訳はこの法則に従って訳されていると見なせます)。
 バンクス氏を外から観察する眼差しが、やがてバンクス氏に寄り添い、彼の内面と一致して行き、ある瞬間に地の文で会話文を開く、という解釈です。
 

 一方、鴻巣訳では、誰の「声」であるかは曖昧です。
 どこでどのレイヤーに移行したのか分かりやすい御輿訳に比べると、鴻巣訳は断定しにくいところが目立ちました。
 語りの主導権は一体誰が握っているのか?――物語に介入できない不可視の語り手なのか? バンクス氏なのか? リリーなのか?
 語りのレイヤーはどうなっているのか?――バンクス氏は語り手によって内面描写をされているのか? それとも、まさかリリーの目を通しての推量なのか?*4 あるいはバンクス氏自身の「声」で内的独白をしているのか? それとも口に出して話しているのか?
 確かに言えることは、御輿訳と鴻巣訳で先に述べた「二」と「三」の境界線を引く位置がまったく違っていることです。両者の境界線の性質(はっきりしているか、曖昧であるか)の違いだけでなく、ある文章について、語りの主導権を誰が握っているのかの解釈を、まったく異としているのです。
 御輿訳より前後を多めに検証してみましょう。
 

《バンクスはそれにお構いなく、ラムジーの人生の重みをあれこれ量りながら、哀れんだり、うらやんだりしていた。》
 → 語り手による内面描写。(バンクス氏ではないもの――不可視の語り手――がバンクス氏の内面を見透かして描写している。)
《彼の目には、ラムジーが若き日の栄冠である孤独と謹厳という誉れをみずから放りだし、小鳥たちの羽ばたく、ピーチクパーチクとやかましい家庭をしっかりと背負いこんだように映っているようだ。》
 → 語り手による内面の推量。(この文末の「ようだ」が解せない……。推量なので、バンクス氏の内面を外部の視点から推量していることになるが、リリーの視点が挿入されるには唐突すぎるため、語り手の視点。しかし内部に入り込んでいたものがなぜ外部に出たのだろう。納得できない訳。後で言及する。)
《しかしわが子という存在は、ラムジーの中の何かを壊しもした。と、古くからの友人たちなら感じずにはいまい。》
 → バンクス氏の内的独白。(「いないだろう」ではなく「いまい」と口語的であるところから。)
《たとえば、ここにいるリリー・ブリスコウは?》
 → バンクス氏の内的独白。(隣にいるリリーにこんな訊き方をするはずがないので。御輿訳では、ここから先は自由間接話法として訳出されていました。)
《あの男にある種の性癖が強くなってきたことに、周囲も気づかずにはいられないだろう? 奇行というか、弱さみたいなものに?》
 → バンクス氏の内的独白。(日本語訳としてやや怪しいのではないか、という気分にさせられるが。曖昧な事柄を自問している文章。ラムジー氏を「あの男」と呼ぶくだけぶりからもそれはいえる。)
ラムジーのような知的な男があんな下世話な――いや、ちょっと言い方がきつすぎたな――つまり、あんなに人受けにこだわるとは意外だよ。》
 → 自由間接話法。(つまり、リリーに話しかけている。ただし、訳者は内的独白としても解釈できるよう曖昧に訳していると思われる。)
《「けど、そこはやはり」》
 → もちろんリリーの直接話法。
 

 まどろっこしい書き方しか出来ず恐縮ですが……いかがでしょうか。
 御輿訳がウルフ流「意識の流れ」をクッションのように解釈しているとするなら、鴻巣訳はマーブル状の層を形成するゼリーのプールを泳ぐ感じがします。
 私にとって直接話法は肉声を伴うところから目を覚まさせる効果があります(個人的な感覚に依るところが大きいですが)。「泳ぎ」で譬えるなら、地の文が水中をゆらゆらと泳ぐようであるのに対し、鉤括弧で括られた文章は水面から顔を出して息継ぎをするように感じるのです。この感覚に従って読むならば、鴻巣訳は混沌とした海へ潜るだけもぐって、突如浮上する感じがします。御輿訳は潜る段階も浮上する段階も前兆があるように思います。
 どちらがウルフの意に近いのでしょうか。さっぱり分かりません。

 
※解せない「ようだ」※
 鴻巣訳《彼の目には、ラムジーが若き日の栄冠である孤独と謹厳という誉れをみずから放りだし、小鳥たちの羽ばたく、ピーチクパーチクとやかましい家庭をしっかりと背負いこんだように映っているようだ。》の「ようだ」が腑に落ちない。
 この段落はバンクス氏に焦点が当てられているので、リリーの内的独白はあり得ないし、バンクス氏当人が自分のものの見方に推量を用いるのはおかしい。残るは語り手が推量を行っている場合だが、語り手なら断定的に「映っているのだ」あるいは「映っているのだった」でいいと思うし、どうしても推量でなければならないなら「映っているようだった」となるはず。と思うのですが、どうでしょうか。
 次に続く文章は《もしキャムが自分の上着に花を一輪さしてくれたら、(中略)、自分だって顔をほころばせるだろう》と明らかな内的独白になっている。これではバンクス氏の外部へ離れていこうという素振りを見せておいて、前触れなくそれを裏切って外部から内部へ一っ飛びに転身しており、解せない。語りの主導権が「語り手」から「バンクス氏」にバトンタッチされるのだからバンクス氏の外側に出て行く必要はないはず。
 御輿訳には違和感がない。違和感がないということは、訳者がひとつの断定を行っているということであり、その断定の正当性はまた別の話であります。が、ともかく、鴻巣訳に首をかしげてしまう。語りのほのかなブレが心地よい『灯台へ』ではあるが、ムムム……!?

キッチンテーブル

 ▼御輿訳 p42

「主体と客体と現実の性質の話だよ」という答え。それじゃあちんぷんかんぷんだわ、と言うと「だったら、調理台のことを考えてみて」とアンドリューは言った、「ただし誰もそこにいない時のをね」

 
 ▼鴻巣訳 p31

「主体と客体と実体の本質についてです」と、アンドルーは答えた。それを受けてリリーが、まあ、なんだかさっぱりわからないわ、と言うと、「じゃ、キッチンテーブルを思い浮かべてみて」と、あの子は言った。「それが見えていないところでね」

 
 哲学者ラムジー氏のお仕事について、息子アンドリューの説明。
 個人的には御輿訳の方が断然いいと考えます。哲学という、ちょっと日常的ではない考え方をする仕事に対しての説明は、そのままアンドリューの機知に繋がりますから、冴えていればいるだけいいと思うんです。そこで「キッチンテーブルを思い浮かべてみて。それが見えていないところでね」では、あまりに普通すぎます。というか、何かを思い浮かべるとき、普通は思い浮かべられる対象は目の前にはないものです。これでは普通のことをやれといっているだけで、哲学らしさがでていない。一方、御輿訳は「調理台のことを考えてみて。ただし誰もそこにいないときのをね」です。この「ただし」がきいていることはもちろんのこと、「誰もそこにいない」という点が何より大きい。他に誰も知覚する人がいない調理台です。リリーがその場にいないだけで、アンドリューがキッチンテーブルを見ているとしたら、それは意味がないんです。だ〜れにも見られていないキッチンテーブルでなければなりません。そのニュアンスが出ている方が絶対に哲学らしい雰囲気が出ます。
 あと、これは問題ではないのですが、「アンドリュー」で親しんでいる私には「アンドルー」は音が間抜けすぎました。らんらんるー。
 ちなみに、鴻巣訳では、アンドルーはリリーに「です・ます口調」を少し使っているようです。御輿訳のアンドリューにはそれがない。ラムジー氏の息子はリリーに敬語を使うのでしょうか。この辺りはアンドルー/アンドリューの性格の解釈次第です。面白いですね。



 引き続き、鴻巣訳を読み進めていきます。みなさんも、ウルフの世界の深みに誘われますように!

*1:誇張三割り増しでお送りしております。

*2:この手の技法は十把一絡げにすると痛い目に遭いますので、あくまでウルフ流の技法と認識しましょう。

*3:金井美恵子の文章で言えば、「〜と私は思ったし、実際、口に出して言いもした」とするところでしょうか。

*4:これはない、と思いますが。