数珠繋ぎのメモ帳 『嵐が丘』の実況録

おおエミリー 数多の先達が血肉や魂で作ったというのに そなたはそれを骨で成したのか

 開幕自作ポエムですみません。
 今回も『嵐が丘』です。
 岩波文庫から出ている河島弘美訳をはじめて読んだときに一章ごとにメモを取っていたので、それをまとめて今回のエントリとしました。

 なにぶん、もとがメモなので、文章に脈絡がないこともしばしばあります。異様に興奮していて支離滅裂な主張をしている箇所もあります。気が付いたときにはポエムができていた、なんてこともありました。需要はないでしょうし、始まる前から終わっている企画です。そもそも他者へ何かを伝えようとする文章ではありません。ナマの感想、呟き、独白の垂れ流し……。体裁のとれていない数珠繋ぎのメモ帳です。



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 Emily Bronte 著 『嵐が丘(WUTHERING HEIGHTS)』――エミリー唯一の小説作品にして世界的名作の一つ。二つの家族の三代に渡る愛憎劇であるが、サーガのような叙事的側面よりも物語的側面が勝っている。物語ることを、古典的だが造りのしっかりとした構造が支える。
 
 海外文学を敬遠する人の中には、登場人物の名前を覚えられないという理由を挙げる人がいる。『嵐が丘』も初回の読書では名前で躓くことを避け得ない小説だ。なにせキャサリンという名前ひとつをとってみてもキャサリン・アーンショウ、キャサリン・リントン、キャサリンヒースクリフ……誰が誰やら……
 
 しかし大切なのはキャサリンという登場人物が二人いること。一代目キャサリンと、二代目キャサリン(僕は二代目をキャシーと呼ぶ)。親子二代にわたって同じ名前を持っている。ところが、性格は若干違っている。あとはキャサリンを取り巻く人々の関係に注目していれば理解は早い。
 
 語りの構造について。『嵐が丘』は二人の登場人物によって語られる。最初はロックウッド氏の一人称ではじまり、中核(いわば嵐が丘物語とでもいうべきもの)は家政婦のネリー(ディーン)おばさんがロックウッド氏に聞かせる形で語る。この二重の語り構造には、物語を物語たらしめる率直な効果がある。
 
 『嵐が丘』がどのような作品か、一言で説明するのは難しい。復讐もの、恋愛小説、ゴシック小説……などと一言で説明すればそれは即座に誤りとなる。愛の物語でも復讐の物語でもない。嵐が丘の物語である。抽象的な分類を許さないひとつのジャンルである。愛も復讐も個人を離れて存在し得ないのだから。
 
 『嵐が丘』のたいていの概要は「ヒースクリフの悪魔的造形が迫力を持つ」云々とヒースクリフを中心に語られている。なるほど彼の存在感は神話的であり、それゆえに木の幹のように中心的だが、主人公かと問われると、一瞬答えに窮する。
 
 屋敷である「嵐が丘」や「鶫の辻」のように、ヒースクリフはひとつの建造物のように聳えている。かといって、たとえば題名が『嵐が丘』だから「嵐が丘」という屋敷が主人公だ、とはならないように、ヒースクリフも主人公ではないのではないか。僕には『嵐が丘』がキャサリンの物語に思えて仕方がない。
 
 物語の前半部は一代目キャサリンが、後半部は二代目キャサリンが占める。ヒースクリフが二人のキャサリンを動かすのではない。二人のキャサリンヒースクリフを激しく揺さぶる。彼の吸う大気こそが彼女らなのだ。そして僕という読者の吸う大気も。ならば僕が主人公ではないように彼も主人公ではない。
 
(とはいってみたものの、これは偏った読み方だ。冷静に全体を見渡せば、『嵐が丘』はヒースクリフの熱狂が支配的な物語であり、それゆえに彼が主人公と考えるのが妥当だろう。ただ、一瞬その見方を疑わせる魔力が、語り手であるネリーから漂っている。というのも、この家政婦は愛憎渦巻く物語の中で、最終的には誰にも嫌われることなく語り手としての立場を全うするので、彼女によって語られる登場人物の誰もが中心的な存在に見えてしまう。そして僕にとってはキャサリンの精神が最も興味深いものだからこそ、余計に彼女を中心に物語を読んでしまう)
 
 
 

 
 
 
 さて、本編を見ていこう。第一章。都会暮らしに辟易としたロックウッド氏が田舎を訪れるところから物語ははじまる。氏はいかにも中立な語り手であるかのような顔を当人だけがしているが、どうにも信用ならない語り手である。人間嫌いとさんざんのたまっておきながら、やたらと話し相手をほしがるのだ。
 始末の悪いことに、ロックウッド氏はたびたび勘違いを読者に語る。第二章で二代目キャサリンヒースクリフの義理娘)とはじめて出会った場面では、語り手失格級のミスリードを連発する。しかも思い上がりが甚だしく、自意識過剰な心配をする。そのおかげでとかくユーモアに富んだ展開が続く。

 ところで、今回、岩波文庫の河島弘美訳に初挑戦したのだが……P30に「ぼくはヘアトン・アーンショウです。この名前に敬意を払ってもらいたいものですね」とある。ヘアトンは十八歳ぐらいだが文字の読み書きができないほど無学であり粗暴。ゆえに丁寧語の台詞はミスマッチではないかと思う。
 岩波文庫 阿部知二訳 P38「おれの名はヘアトン・アーンショウだ。ばかにしてはもらうまいぜ」 と、まあ、こういう訳があっているように思われる。
 
 ああそれにしてもキャシーかわいいよキャシー。キャシーこと二代目キャサリン。十七歳にして未亡人。冷たい態度と悪態の数々。だが心根が優しいことがうかがい知れる場面も多数。口が悪いのは暴君の住まう屋敷で生きていくために自然と気を強く持つようになった結果であって基本的にいい子。
 
 第四章。二度目の嵐が丘訪問で散々な目に遭い、雪が積もった悪条件の中を帰還したため風邪を引いてしまったロックウッド氏。家政婦に嵐が丘の話をするように求める。この家政婦こそ第二の語り手であるネリーおばさん。ネリー、ディーン、エレン、三つの呼び方があるが同一人物。ジラーは別の家政婦。注意。
 
 ネリーはヒースクリフ嵐が丘へやってきた当時を語る。
 遠出した父の帰りを夜更かしして待つ兄妹(ヒンドリーとキャシー)の様子が、早速、とてもいい。前半は子供あるあるネタ豊富。子供の行動様式のイデアを並べて飾っていくかのよう。『嵐が丘』は子供の物語であるから、読者はまずここで物語との波長を合わせるべし。
 
 そう、『嵐が丘』は子供の物語。大人がほとんど出てこない。大人=理性・秩序の意味で。ヒースクリフの復讐心も、ヒンドリーの堕落ぶりも、キャサリン(特に初代)のおてんばぶりとヒステリーも、病弱なリントン・ヒースクリフのクソ生意気餓鬼ぶりも、子供。大人はどんどん少なくなってゆく。
 ヒースクリフへの偏愛以外では理性的だったアーンショウ氏は死に、リントン氏も死んでしまう。大人としてはやや頼りない二代目リントン(エドガー)も息を引き取る。物語の進行とともに大人は絶えてゆく。暴君ヒースクリフが残り、支配する。だが最後の最後には理性・秩序がぽうっと芽吹く……。
 
 あの結びはあまりに美しい。が、先走りすぎたようだ。ネリーおばさんのお話に耳を傾けてみよう。子供の描く夢、しばしば「雲の上の王国」と比喩されるあの偉大な時代に触れて、読者一人ひとりの心のうちに息を潜めている子供の頃のあの黄金の精神を思い出して頂きたい。
 
 帰還した父親(アーンショウ氏)はジプシーのような子を連れていた。兄妹は約束のお土産を求めて父のコートを探るが、買ってきたヴァイオリンは壊れ、鞭はどこかで落とした模様。ここでの兄妹の憤慨ぶりが子供らしくて面白い。分別が付く前の荒々しさが分かりやすく出ている。
 
 ヒンドリーとキャサリンは父親の言いつけに背き、ヒースクリフを部屋に入れない。当時若かったネリーも、これに便乗するのである。ネリーがしたことはたいてい裏目に出るというのが『嵐が丘』のお約束となっている。あとでバレてお屋敷から追放されてしまうネリーであった。
 
 第5章ではキャサリンがどのような子供か余すことなく語られる。生意気で、悪戯好きで、我が儘で、きかん坊だが、すこぶる魅力的。一言でいうとおてんばお嬢様気質のテンプレ。泣かせてしまった相手に寄り添い気遣わしく覗き込んだりするあたりポイント高い。こまっしゃくれた返し文句が愛くるしいのなんの。
 
 ちなみにキャサリンヒースクリフは、ネリーが追放されているうちに仲良しになっている。仲直りの場面を描く必要がないほど二人の波長は似通っているのだ。(というより、子供が仲直りするその瞬間というものを目撃できる大人はいない)
 
 五章の最後でアーンショウ氏は息を引き取る。氏はキャサリンの父親、ヒースクリフの庇護者だった。キャサリンヒースクリフの二人は泣き叫ぶが、いつまでもそうしていたわけではない。氏のために美しい天国を語り合う。この場面は七行程度でさらっと流されてしまうが、読者はこの二人のやりとりを始めから終わりまで仔細に想像できる気にさせられてしまう。
 
 六章。ヒンドリーとヒースクリフの仲は最悪といってよい。ヒンドリーは大学へ通うため嵐が丘を出ていたが、父親の死をきっかけに家に戻る。ヒースクリフへの虐待がはじまる。また、リントン家とキャサリンの関係も深まり、ヒースクリフはキャサリンと引き離されがちになる。
 
 ところで、ワザリング・ハイツは「嵐が丘」と訳されているが、スクラッシュ・クロス(リントン家のお屋敷)はそのまま「スクラッシュ・クロス」と訳される場合がほとんど。新潮文庫鴻巣訳では「鶫の辻」となっていて、日本語の「嵐が丘」と対をなす雰囲気が出ている。
 
 七章。リントン家に忍び込んで犬に足を噛まれたキャシーは、しばしリントン家で養生する。その間にお嬢様としての作法を学ぶ。自尊心のある娘なので、褒められる環境であれば礼儀作法に則ることも苦痛ではない。野生児のようだった彼女がお嬢様に生まれ変わると、野生児のままであるヒースクリフは気まずい思いをする。
 
 召使い同然の扱いを受け、当人も身なりに頓着しない。そんなヒースクリフの身だしなみを整えてやるネリー。だが、ここでネリーの裏目に出るジンクスが。ヒンドリーがめかし込んだヒースクリフを見かけ、キャシーに会わせまいとする。心と立場を一新するかも知れなかったイベントが、おじゃんになってしまった。
 
 キャシーは一緒にいられないヒースクリフが気がかりで食事も喉を通らない。食器を落としたふりをしてテーブルの下で密かに泣くレベル。それほどヒースクリフを思っている。子供らしい真っ直ぐな気持ちが胸を打つ場面。キャシーはやっぱり思い遣りが深く、情に厚い。
 
 八章。ヒンドリーの妻が出産(ヘアトン誕生)と同時に死んでしまってから、ヒンドリーは自堕落になり、ヒースクリフへの風当たりも悪くなる。ヒースクリフは殊更ひねていく。キャシーへの好意を口にしなくなる。陰湿、陰険、無愛想。たまにキャシーも愛想を尽かすレベル。もっと素直になればいいのに……。
 
 鶫の辻屋敷のリントン坊ちゃんことエドガーは、そんなヒースクリフとは対照的。作中でもしばしば対比的に語られる。ちと臆病、泣き虫のところはあるが、ヒースクリフにはないものを多く身につけている。ヒースクリフがひねていくのはエドガーに対する劣等感によるところが大きい。
 この八章でのヒースクリフエドガーの対比は特に鮮やか。陰湿で根暗な性格を増し、ついにキャシーと喧嘩してしまったヒースクリフが部屋から退場する。入れ違いになるようにエドガーが入場する。わざとらしいほどの、典型的・王道的表現。ここからネリーのジンクスへ繋げるあたり展開が早い。よくまとまっている。
 
 エドガーが訪ねてきたのに部屋の掃除を続けるネリー。キャシーが退場を命じるがネリーは掃除を続ける(嫌がらせ)。キャシーはヒースクリフとの喧嘩の直後で感情が高ぶりやすく、ネリーを叩き、ヘアトンを揺さぶり、エドガーをもひっぱたく。エドガー涙目。完全にとばっちりである。
 
 叩かれて退場しようとするエドガー。引き留めるキャシー。躊躇うエドガー。ネリーが立ち去るよう促す。これが地味に逆の働きをしたように見受けられる。雨降って地固まるといえばそうなのだが、後の展開を考えると固まってはいけないものが固まってしまったといえよう。愛が固まったわけでもあるまい。
 
 九章前半のイベント。ヒンドリーが息子のヘアトンをうっかり階下へ落としてしまい、ヒンドリーを憎んでいるヒースクリフが「運悪く」そのヘアトンをキャッチし、救ってしまう場面。創作話でなければあり得ない展開だが、それが面白い。というのも、あまりのあり得ない出来事であることを登場人物らが意識しているのだ(メタな意識ではない)。ヒンドリーは一瞬正気に返った様子だし、ヒースクリフもかなり間抜けな顔をする。直後のネリーの反語による嫌味と、それを反語の体裁のまま減らず口で返すヒンドリー、このやりとりもユニーク。
 
 続く九章後半部、これぞ本作前半部の山場、『嵐が丘』という作品の黒く青く暗くもどかしい場面がやってくる。雲の上の王国を目指していたあの偉大な精神は健在であるか否か、キャサリンは大人的な打算を下したのか否か。どちらにしてもヒースクリフは愛を失ったと信じ、絶望と復讐心を背に屋敷を去るのだ。
 
 順を追ってみていこう。
 まず、エドガーはキャサリンに結婚を申し込んだ。……頬をひっぱたかれた後なのに、お前、頭は大丈夫か? 仲直りできた勢いで変に高揚してしまったらしいと想像できる。こればかりはネリーの言に賛成「あんな騒ぎの後でプロポーズなさったとすると、どうしようもないお馬鹿さんか、考えなしの向こう見(ry
 
 エドガーの求婚を承諾したキャサリンは、ネリーにその事実を告げ、是非を尋ねる。ここからのやりとりは、うまくいえないが、すごくいい。一体何がそんなにいいのか、言葉にできずに悲しくなるぐらい完成されたやりとりになっている。完成といってもガチガチに固められているのではなく、無数の隙間を持っている。この隙間から作中の人物らの呼吸が聞こえてくる。
 
 エドガーはハンサムで、一緒にいると楽しくて、若くて、陽気で(そうかぁ?)、お金持ちで、キャサリンは、だから結婚を承諾したという。だが彼女の魂はそれは間違っていると訴えている。ここでは天国(リントン)が否定され、地上(ヒースクリフ)への愛が説かれる。だがその説かれ方はヒースクリフには絶望でもある。彼には彼女を物質的に豊かにする力も将来性もないということだから。
 
 キャサリンヒースクリフがわたし以上にわたしだからなの。魂が何でできているか知らないけど、ヒースクリフの魂とわたしの魂は同じ――エドガーの魂とは月光と稲妻、霜と火ぐらい掛け離れているのよ」 名言。しかし訳、対比が分かりにくく、いまいちでは? 稲妻、火が動的であるヒースクリフ。月光、霜が静的であるエドガー。
 
 ああ! さっき言葉にできなかったことが、少し分かった! 僕は『嵐が丘』なんだ。これ以上の小説があることを知っているのに、これを一等愛してしまっている。だがこの古い小説と心中しても落ちぶれるだけ。でもどうしようもない。小説とはこれのことだといいたい、それが僕の魂だからだ。
 

 魂とは骨のことであった!
 肉体が朽ちてなお残るもの
 屍となって初めて露出するもの
 強固であるもの
 失われず、引き継がれるもの
 『嵐が丘』とは物語の骨であった

 
 取り乱した直後は冷静になる。冷静さは言葉を思い出させる。この一連のやりとりに共通する特徴を見つけた。ネリーが常に反語でキャサリンを諫めている。キャサリンはそれにとりあわず、自分自身の悩みを見つめ、それを語り、聞いてもらいたがっている。その結果としてユーモラスな響きがある。

(この場合、反語というと、寝坊した人に「早起きですね」というアレ。皮肉のたぐい。「〜だろうか?(いや、そんなはずはない)」の方ではないよ、と念のため注意喚起)
 
 二人のやりとりを物陰で聞いていたヒースクリフヒースクリフと結婚すると私は落ちぶれてしまうとキャサリンがいったところだけを彼は受け止め、絶望し、こそこそと出て行く。それに気付いたネリーがもっと早く、もっとはっきりとそれをキャサリンに伝えていれば彼女は必死で引き留めただろうに!
 
 いい加減にしてくださいよネリーさんレッドカード級のポカですよ何を遠慮してるんですか、このすれ違いがこの後の展開を決定づけてしまうんですよ可愛いキャサリンの魂を苦しめることになるんですよ僕だって身悶えさせられましたよネリーさんあなたちょっと聞いてるんですか勘弁してくださいよ!

 私はヒースクリフなの、という有名な台詞が出るのもこの場面。キャサリンは他の場面でも似たようなことをたびたびいう。
エドガーへの愛は森の木の葉のようなもの――冬に木の姿が変わるように、時が経てば変わるのが分かっているの。ヒースクリフへの愛は地下で変わることのない岩みたい――目を楽しませはしないけど、なくてはならないものよ。ネリー、わたしはヒースクリフなの。」
 
 
 
 九章の最後、このあたりは登場人物の年齢や作中の時間経過を探る上での数字が多い。
 ネリーが22歳、ヒースクリフが出て行く、エドガーの両親が亡くなる、三年後エドガーとキャサリンが結婚する、そのときヘアトンが「もうじき5歳」
 
 
 
 ヒースクリフも可哀想なやつ。キャサリンにはエドガーといた方が楽しいといわれ、外見、教養の点で劣等感を抱くも、頑張って身だしなみを整えてみればヒンドリーにひっぱたかれる。挙げ句、ヒースクリフと一緒になっても落ちぶれるだけとキャサリンがいっているのを聞いてしまう。そら出て行くわ。
 
 キャサリンにとってエドガーは一時的な楽しみ。美しく、礼儀正しくあることで評価されるため虚栄心を満たす。エドガーがいなければ着飾っても礼儀正しくしても仕方がないので裸足での山を駆け回る。ヒースクリフのことは好きだが、それは一般の愛とは違う。彼はもう一人の自分、もうひとつの悲しみ。
 
 
 
 これで物語も四分の一を消化したところ。
 第十章では、ヒースクリフが一財産拵え、教養を身につけ、戻ってくる。エドガーの妹、イザベラがヒースクリフに恋をする。
 
 イザベラ曰く「あなたって、飼葉桶に入った犬みたいに意地悪ね、キャシー」
 これ、脚注がないと意味が分からないのではないか。それともそんなに有名なイソップ物語なのだろうか。
 飼い葉桶の犬=自分に要らぬものでも他人には使わせたくない。強欲で意地悪。
 
 イザベラの恋心をヒースクリフの前で暴露し、とことんまで虚仮にするキャサリンヒースクリフもイザベラをフォローすることなく、始終冷たい。二人ともアクセル全開の罵倒っぷり。イザベラがやや可哀想……にはならないな、実際、ちょっと生意気だったから。それも恋ゆえか。
 
 十一章に入り、ヒースクリフはイザベラをたぶらかそうとする。これを知ったキャサリンは憤慨する。本当に結婚したいのなら奨励するがヒースクリフがイザベラに熱を上げるはずがない、とキャサリンは看破しているのだ。ここでヒースクリフは復讐の意図があることを明かす。
 
 君は俺に酷いことをしたんだ、とヒースクリフは言う。しかし彼は彼女を愛しているから彼女に直接手を下すことはしない。ただ彼女の周りのものを台無しにしようとする。彼女の夫であるエドガーを困らせることで彼女を苦しめる、そういうつもりでいるのだと話す。どことなく構ってチャンなヒースクリフ
 
 さて。飼い犬と飼い主ほどに主従というか上下というか、攻撃してもよい側といけない側が固定されていたヒースクリフとキャサリンの関係がここで崩れる。が、それでもなおキャサリンのほうが怒ると怖い。これ、多分、ネリーが介入しなかったならこの場はとりあえずキャサリンが勝っていただろう。ネリーが介入したから主従関係(っていったら語弊があるけど。この二人の力関係)が回復することはなく、これが裏目に出る。(どのみちヒースクリフを抑え込み続けるのは不可能だが)
 
 ネリーはエドガーへヒースクリフがイザベラに手を出そうとしたくだりを伝える。エドガーは憤慨し、ヒースクリフとキャサリンが口論しているところへ参上してヒースクリフ咎め、絶交を宣言するが……キャサリンは口論を立ち聞きされていたと思い込み、それが気に入らず、エドガーにとって悪い展開に。
 
 安定のネリージンクス。間違ったことはしていないのだが、物事が悪い方へ向かうための火種にしっかりと火を付けてしまうこの方は家政婦ならぬ火政婦といったところか。結果、キャサリンは激しい気性ゆえに精神を害してしまうほどの怒りに身を焼くのであった。ヒースクリフも鶫の辻出入り禁止。
 
 十二章、キャサリンは部屋に閉じこもる。二日間誰にも会わず、断食しただけで軽い錯乱に見舞われる。枕を裂いて中の鳥の羽根を種類別に並べたり、鏡に映る像を自分だと認識できず怯えたりする。語り手がネリーなのでホラー風には語られないが(この語り手はホラーが嫌い。信心深いネリーさんは悪魔的なものを直視しない)、狂気が滲み出ている。
 
 少しの間だけ正気に返るキャサリン嵐が丘の自室のベットにいた気分になっていたという。このあたりの彼女の台詞に響くものを感じる。嵐が丘というそれまでの世界を追放されて鶫の辻で夫人の役を務める……。以前に天国と地獄の比喩で出てきた概念を彼女は再び口にする。楽園の追放=大人になること。
 
 キャサリンは再び錯乱する。彼女はすでに己の死を見つめている。錯乱した精神がそうさせたのか、それとも錯乱していてなお己にとって肝心なことを考えたとみなすべきか、自分が眠る墓のことを口にする。安らかには眠れないその墓へ、リントン家のものとしてではなく、入るのだと。
 
 
 
 イザベラがヒースクリフと駆け落ちするのも十二章。さすがにエドガーも呆れ、妹とは縁を切ることに。愚かな妹さんだ。それにしても、ヒースクリフ、そんなことしてる場合じゃないのに……。
 
 十三章はイザベラからネリーに宛てた手紙がメイン。あれほど思慮分別が足りていないように見えたイザベラも、書簡の形式を取り悪態をつき始めると知的に映る。それにしても、やはり、反語による悪態が頻出。反語は『嵐が丘』の罵倒術の基本であると同時にユーモアの根源でもある。
 
 十四章、ネリーが嵐が丘を訪ね、イザベラに会い、ヒースクリフと話をする。イザベラは結婚初日からヒースクリフの性格に気付き、鶫の辻屋敷に帰りたがっていたらしい。ううん、やはりこのあとイザベラがヒースクリフの子供を産む展開には無理がある。それについては、また、おいおい考えたい。
 
 それにしてもイザベラ、嵐が丘の雰囲気に染まっている。物語のはじめのほうで出てきたキャサリン・リントンとやや似ている。暗い感じ。書簡から感じたような知性は見られず、精神を圧迫されていっぱいいっぱいのようだ。戦う術も分からないまま悪魔と檻の中で同居しているのだから仕方ない。
 
 さて。ヒースクリフはネリーに、キャサリンと会えるよう段取るよう命じる。ほとんど脅迫。ネリーに選択肢はなかったとはいえ、またまたフラグ立てちゃってる。
 
 というところで岩波文庫の河島弘美訳は上巻を終える。十四章末を飾るのはロックウッド氏の自意識過剰発言。お前要らん心配するな(笑)
 
 
 

嵐が丘〈下〉 (岩波文庫)
エミリー ブロンテ
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 第二部に入り、章はまた一からはじまる。ロックウッド氏が病床でネリーから語ってもらっているという図式から、健康をとりもどしたロックウッド氏がネリーに語ってもらった内容を振り返るという図式に。文体的にはネリーの語りなので些細な違い。だが語りの責任は氏も半分負担、と見てもいいかな?
 
 下巻第一章、ヒースクリフとキャサリン、最後の逢瀬。ここでのやりとりも美しい。譬えるならキャサリンはすでに青白い幽霊のようでいて、なおかつ苛烈な火花。ヒースクリフは剥き出しの岩石。我と我、魂と魂、そして情念が衝突する。これは愛だが恋ではないし、二人の魂は同じだが結ばれたりはしない。
 
「ほら、ネリー、わたしをこの世に引きとめておくためにちょっと優しくするのさえいやがるのよ、この人! あれでわたしのこと愛してるんですって!」自分がもうすぐ死ぬと分かっていてもキャサリンは彼女らしく振る舞う。というより、ヒースクリフが傍にいるとき、彼女は自分を見つけられるのだろう。
 
 ヒースクリフが傍に来てくれないことを嘆きながら、キャサリンは天国とは別の、これから旅立つ先の世界について、どこか病的に唱える。自分はそこへ往きたいのにヒースクリフは来たくないのかしら、といって、その言葉がそのまま彼に傍に来るようという命令にすり替わる。こういう書き方が好き。
 
 キャサリンの性格と気性と精神の錯乱が文章中に波打っていて、それが美しいように感じる。あるいはキャサリンの前髪を顎の下に感じるとでもいおうか。読者である僕にとって美しいその波が、ヒースクリフにとっては心臓を握りつぶす悪魔的圧力になる。彼女は彼にとっての魂であり、魂無き彼は生ける屍(=ゾンビ)。
 
 第二章、キャサリンは娘を生み、生涯を閉じる。ここでのヒースクリフの叫びも本作の山場の一つ。かけがえのないものを失うと言葉でいうのは簡単だが、実際に起きるとどうなるか。特にキャサリンへの愛にかけては子供のように直情的だったヒースクリフならどうなるか。子供の癇癪のようでもある。
 
 それは恋ではないが、愛でもないのかもしれない。愛という語に愛の意味と同時に臓器の意味も加われば、ヒースクリフの失ったものが確かに愛であったといえよう。彼に残っているのは骨と皮のみ。この後は地上を彷徨う復讐の悪鬼であり落胆のゾンビである彼が、地上を彷徨う亡霊を求め迷走する物語とも。
 
 それにしてもリントンは最後にいいことをした。キャサリンの墓をリントン家と同じにはしなかったことは、彼が少なからず彼女の本質を理解していたことの表れだろう。あるいは彼も彼女の魂がすでにどこか彼方へ旅立っていたことを理解していたのか。彼が彼女と墓を合わせるところで初めて彼の愛を感じた。
 
 第三章は長い! 長いぞ! エミリーも途中で区切りをつけられなかったとみえる! そういうことを考えるとニヤニヤ、ワクワクする! そしてこの章は語りの枠となる構造が度々変動して、時間の経過も融通無碍。なかなか小説技法に富んでいる。そして暴力とユーモア! なんて『嵐が丘』らしい章だろう!
 
 三章前半部ではイザベラが嵐が丘から脱走してネリーの前に現れ、顛末を語る。イザベラの変わり様が結構なもの。幸せを願った分だけ憎まずにはいられない。テンション高すぎて狂気的だが、ヒースクリフのもとから逃げてきたとなると納得できる。(不自然を自然と思わせるヒースクリフの狂気がすごい)
 
 それにしてもイザベラ嬢も動乱の人生だ。すっかり悪態つくのが上手くなってしまって、かえって清々しいほど。彼女の心理は十分に理解できる。だがそれは今日日的な感覚なのかもしれない。『嵐が丘』が書かれた当時は、イザベラ嬢のこの態度は相当ショッキングだったのではないかと思う。
 
(語り構造のおさらい。ロックウッド氏がネリーの話を聞いている。ネリーの話の中でイザベラが顛末を語る。イザベラの話の中でヒースクリフやヒンドリーが登場する。イザベラの語りが長引くと、そこは地の文のようになる。ネリーがロックウッドに語っているはずなのに、イザベラがネリーに語っている!)
 
 ユーモアもみていこう。冒頭でイザベラが鶫が辻屋敷に現れるが、狂気的な不審者のようで、軽くホラー。イザベラの語りは憤怒と憎悪に満ちている。が、どこかしらユーモラス。まず彼女のハイテンションが発話の節々に現れている点が大きい。そして『嵐が丘』では基本となる反語の多用も大きい。
 
 くそったれのジョウゼフじいさんがいいキャラしすぎ。「リントンさんは治安判事だ、たとえ五十人の奥さんに死なれたところにせよ、こういうことはちゃんと調べていただかんとな」五十人も奥さん持つはずないじゃん、なにこの誇張表現。結構深刻なシーンなのにジョウゼフにブレがなくて笑える。

 その後、イザベラはロンドンへ逃げ、子供を産む。すでに身ごもっていたヒースクリフの子供を。……ううむ……。『嵐が丘』でもっとも(いや唯一か)納得いかない。駆け落ちした翌日にはイザベラもヒースクリフに愛想を尽かしていたはずなのに、いったいどこのどういうタイミングで子作りすることになったんだ……。
 
 僕の中のヒースクリフは天地がひっくり返ってもイザベラと子作りしない男。復讐の一環として血縁を交わらせるという理屈をこねることはできるが、これですますと余計に納得できない。『嵐が丘』には性の気配が一切ない(省かれた気配すらない)のだから。
 だから思うに、この子供はコウノトリが運んできたんだ。
 
 イザベラは息子をリントンと名付ける。……なぜだ。そういう習慣があるのか。旧姓を名前にするとは。
 エドガーは娘にキャサリンの名を与え、妻と区別するためにキャシーと呼ぶ。……なぜだ。そういう習慣があるのか。死んだ妻の名を子に与えるものなのか。
 ヒースクリフは(ヒンドリーの死によって)ヘアトンを手に入れる。
 
 ネリーさん、イザベラが十三年後に他界することをさらっとネタバレ。
 ヒンドリーが死ぬのも第三章。イベント多すぎる。ヒンドリーは屋敷を借金の抵当に入れていたので、彼の死後、嵐が丘屋敷はヒースクリフのものに。ヒンドリーの息子ヘアトンも召使いとしてただ働きさせる。かなりえげつない。
 
 四章、時は経ちキャシーは十二歳に。まさに箱入り娘の扱いで、世界は鶫の辻がすべてといった様子。当然、物語はキャシーが嵐が丘方面へ出掛けてしまうことから起きることに。
 エドガーがイザベラの息子をひきとりに出掛けている間に事が起きる。ネリーさん、厳重注意うけてたのに、またポカをやった……。
 
 ヘアトンは十八歳。言葉遣いも読み書きも知らない。キャシーはそんなヘアトンがいとこだと知って動揺する。このあたりの戸惑い方は、箱入り娘のそれとして分かりやすい。自分をお嬢様と見てくれない粗野なヘアトンの存在は異質だっただろう。まあ、ヘアトンの方はすでにキャシーに一目惚れしてるけど。
 
 五章。イザベラの息子、リントンの登場です。僕は未だかつてこいつ以上に頬をひっぱたいてやりたい登場人物を書物の中に見た試しがありません。甘やかされて育てられたのと虚弱体質のせいで病的に気難しい性格をしているのです。環境と体質の犠牲者というのは簡単ですが、そんな情けも実害がでるまで!
 
 六章。リントン少年、ヒースクリフの要請により、嵐が丘へ。ここは『ドナドナ』が脳内で自動再生される。その場凌ぎの約束をついて少年を宥め賺すネリー。大人って汚い。
 嵐が丘に辿り着く。その屋敷の外観に満足できないリントン少年。が、文句は控える。それについて語り手ネリーは聞き手に向けて言う「中は意外に良いかもしれませんものね」 し、知ってるくせにぃ〜っ!
 
 嵐が丘みたいなお屋敷でミルクや紅茶、ビスケットだけを食料に、読書ばかりの生活を送る……というのは憧れないでもないが、あらゆる病の温床だな……。でも憧れないわけじゃあないんだよなぁ……。
 リントンは毎日何食ってたんだろ。ミルク粥(オートミール)は食べられないんだとぬかしやがる。
 
 七章、キャシー、再び嵐が丘へ。ヒースクリフと対面し、リントン、ヘアトンと話す。
 とうとうヒースクリフと出会ってしまったキャシー。ヒースクリフはリントンとキャシーをくっつけて遺産相続がつつがなく進行するよう目論んでいる。これまた『嵐が丘』らしいユーモア溢れる章。ネリー語り面白すぎ。
 
 ヘアトンは無知で粗野。そういうふうに育てるのがヒースクリフの復讐の一環。本質は金だが、これを石のように扱うことにヒースクリフはえもいわれぬ快感を覚えている様子。このヘアトンの立場こそ、ヒースクリフの体験してきた立場である。
 ヒースクリフはヒンドリーによって下男としての扱いを受け、無知・無学であることを助長させられ、社交性を身につけたり発揮したりする機会を奪われていた。
 ヒースクリフはヘアトンを自分と同じ境遇に追いやることで復讐しているつもりなのだろうけど、僕にはこれが悲劇に思える。キャサリンと結ばれることがなかったヒースクリフのとるべき復讐の道は、キャシーとヘアトンをくっつけることじゃなかろうか、と思うのだ。
 第一、ヒースクリフはヘアトンが好きなんだから、ヘアトンに幸せになってもらえばいいのに……。ただヒースクリフはヒンドリーへの復讐としてヘアトンを幸せにしないことを己に誓っているから、己が正しい復讐の道を歩んでいると信じているのだろう。自分を苦しめる盲目的な復讐、悲劇じゃなかろうか。
 
 ああそれにしてもリントンひっぱたきたい。なにが4マイルも歩いたらぼく死んじゃうだよコンチクショウ。
 
 ヒースクリフとしては息子リントンをキャシーとくっつけたい。その悪巧みをしている表情がネリーの語り口から易々と想像されるわけだが、そのいわば真面目な計画もリントンの軟弱さ加減の前には失敗に終わりそうだと気付いたときのヒースクリフのリアクションが、なかなか愉快である。
 
 ああそれにしてもリントンひっぱたきたい。ヘアトンの無知無学をネタに嘲りやがって。そんな品のない遊びをキャシーお嬢様に教えやがって。ぼくはこんなやつがキャシーの夫になるだなんて認めませんからねっ
 
 ああそれにしてもキャシーは素直で可愛い。ヒースクリフとネリーからリントンにあったことを口止めされていたのに、パパ(エドガー)へと正直に告白するし、ヒースクリフと仲直りするべきと進言する。
 パパは娘にヒースクリフがどういった悪人かを説く。
 
 キャシーにしてみれば悪い行いというのは言いつけを守らない、ずるいことをする、癇癪、短気、軽率といったもの。だがヒースクリフの場合は次元が違って、何十年でも憎悪するし、それでいて良心の呵責を感じない。キャシーの想像を遙かに超える巨悪。それを諭せるパパ、お見事。ネリーは失敗したが。
 
 さて嵐が丘のいとこのところへは行けなくなってしまったキャシーだが、密かに文通を始める。それを見抜いたネリーはお嬢さんの引き出しをこっそり開けてリントンからの手紙の束を発見する。プライバシーの概念がないのか、ひどい家政婦がいたものだ! ネリー、密かに手紙を没収し、様子を見る。
 
 恋文が紛失していることに気付いたキャシー……。この狼狽える少女を見て、語り手はいう……《陽気にさえずる巣いっぱいのひなたちを残してでかけた親鳥が、戻ってみたら一羽残らずいないと知ったときの、悲痛な悲鳴や羽ばたきも、この時のお嬢さんの絶望の深さには及ばないほどでした》 って、なに的確な比喩使っちゃってるのこの犯人=家政婦!
 
 いやあ怖いわあ、地の文担当のこの家政婦さんは油断ならん。気を抜いたら一瞬で笑わされてしまう。冷静に(?)客観的に(?)淡々と(?)語っているのだが、「あ、そんなこといっちゃう?」ということをしれっと言っちゃう。そしてキャシーの目の前で手紙を暖炉にくべちゃうお仕置きパネェッス……。
 
 第八章、キャシーお嬢さんは父親が病で倒れたため心配のあまり元気がない。その隙をつくようにヒースクリフがキャシーをそそのかす。リントンが今に死にそうだから慰めてやって欲しいというようなことを。
 
 ヒースクリフは流石に計算高い。自分が悪人だと知られてしまっても、逆にそれを利用し、そのような悪人の傍で生活しているリントンが元気になれるはずがないといった趣旨を説き、たくみにキャシーの心理を操作する。ネリーがいくら言い聞かせても焼け石に水
 
 第九章、キャシーはネリーと共に嵐が丘へリントンに会いに行く。
 アニメ界にはイクラ&タラヲという二大巨頭がいて、小説界にはリントンが双璧を成しているといったところか。いけすかないクソガキランキングのトップランカーっぷりが、もう……。病人の心理という事情を考慮しても、ひっぱたきたい。
 
 キャシーはその優しさにつけ込まれて、リントンの我が儘につきあわされるし、手厚く接していれば彼もまた可愛い家族のように見なせると思い込んでいる。もう二度とリントンと会ってはならない、と断固阻止しなければならないネリーも、なにやってんだかまったく、体調を崩して寝込んでしまう。オイオイ
 
 第十章。前章で「お仕事」できなかったネリーだが、三週間経って回復して早速「お仕事」するんだから、いやはや……すごい嗅覚だ。キャシーの秘密の訪問はあっさりとばれ、白状させられてしまう。 ということで、この章は基本的にキャシーの口から語られる。時間を遡って、頭から順に話す、丁寧な手法。
 
 ここまでくると読者によるヘアトンに対する感情はネリーのそれと同じになっているはず。つまり、この少年だって素材は良いのだからヒースクリフに虐げられずに紳士として育て上げられていれば……と。気の早い読者はIFのストーリーを夢想してキャシーとヘアトンが結ばれる結びを予見するかも。
 
 十章の後半になるとキャシーは本当に天使のよう。リントンの性質をもう十分理解しているのに見放さずにつきあってやるのだから。
 この辺りは当人の口から語らせることで感情がダイレクトに響いてくる(ヒースクリフから逃げてきたイザベラの時のハイテンションと同様)。乙女の抑揚が心地よい。
 
 そしてシメは安定のネリー節である。告白した内容を秘密にしてねとキャシーから懇願されたネリーは、一晩考えてみる、という。そして実際、考えたのだ、主人(エドガー)の前で口頭で。ストンと落とすこの呼吸! 雇い主への忠誠心とお嬢様への愛ゆえの無慈悲と当作品のユーモアを示す凄まじい切れ味!
 
 第十一章。エドガー・リントンの体調は悪化するばかり。そしてリントン・ヒースクリフの体長も悪化の一途を辿っていた。が、ヒースクリフはその事実をひた隠し、息子に手紙を書かせ、キャシーと会えるよう努めさせる。
 特に大きな動きのない章だが、次の章での大きな動きを予感させる静寂がある。
 
 十二章。キャシーはリントンに会う。しかしリントンは無気力で自分の体調のことばかり考えている。キャシーと再会できた喜びもなく、父ヒースクリフの存在を気にしてばかり。さすがにキャシーも落胆してしまう。
 
 十三章。ついに事件が起きる。リントンに会いに来たキャシーを、ヒースクリフ嵐が丘に幽閉する。事実上の拉致。結婚の強要。完全に犯罪レベル。ヒースクリフの暴力的暗黒面が具体的な行動を通じて描写されている章といえましょう。キャシーから引き離されたネリーも四、五日幽閉され続ける。
 
 十四章。幽閉五日目、ネリーは嵐が丘から帰還。世間はヒースクリフの嘘(ネリーとキャシーが沼に落ちた)を信じている。六日目の朝、キャシーが帰還。そしてエドガーが亡くなる。エドガーは死の前日に遺言を書き換えようとしたが弁護士はヒースクリフに買収されており、招集しても現れなかった。
 
 さて。これにてヒースクリフの復讐は、またも一つの区切りに至った。キャシーとリントンは結婚している。リントン家の財産は息子のリントンのものとなった。すなわちヒースクリフのものとなったも同然。あとは憎いリントンの血を引く己の息子とキャシー、ヒンドリーの息子ヘアトンを蔑み暮らすのみ。狂気だ。
 
 十四章でキャシーが嵐が丘から逃げ出すために使った窓はキャサリンの部屋の窓。ロックウッド氏が夢でキャシーの亡霊を見た場所だ。
 十五章で復讐を完遂したヒースクリフが最初に鶫の辻に姿を現すのは、キャサリン存命のとき、再会のときに通された客間だ。
 『嵐が丘』にはこういう空間の対比がある。
 
 十五章。キャシーを嵐が丘へ連れて行くため鶫の辻に現れたヒースクリフは、ネリーへと「キャサリンの亡霊」の話をする。彼女の死の後、墓を勝手に暴こうとしたことや、つい昨日墓を暴いたことなど。
 彼は彼女の死を未だに受け入れられていないのだろう……。
 いや、「彼は彼女の死を未だに受け入れられていないのだろう」と読むのは正解だとしても、半分までだろう。キリスト教としては死者は天に召されるのであって地上を彷徨うわけではない。だがヒースクリフはキャサリンという死者を地上に感じ取る。キリスト教に反する価値観、この凄絶さは僕には分からない。
 
 十六章。嵐が丘には入れてもらえなかったネリーは、物語の現場から遠ざかることになる。代わりに嵐が丘の使用人ジラからネリーへと話されるかたちで物語が語られる。
 リントン、死す。キャシーは彼の命の救済に手を貸してくれなかった嵐が丘の住人を憎む。だからヘアトンがキャシーに気があっても辛辣。
 
 キャシーは憎しみで、しかし強い心で、ヒースクリフと戦いながら生きていく、そんなふうに見える。だが一人きりではどうにもならないことは読者にも分かる。むずがゆい。
 鶫の辻は売りに出される。ロックウッド氏が賃借人になる。こうして過去の語りは現在においつく。
 
 
 
 十七章。ロックウッド氏はまた都会に戻ることを決め、賃借期間を延長するつもりがないことを含め家主であるヒースクリフへと報告に向かう。ネリーが介在しない一人称視点に戻ってきたわけだ。心なしかフィクションと現実の境界線を跨ぎ越えるような不思議な感覚が……まあ、それほどするわけでもない。
 
 それにしても氏も相変わらずだ。はいはい、自分でなにいっちゃってるのこの人、みたいな発言をやらかす。しかしながらヘアトンのサポートをする点は好感が持てる。キャシーはひねくれていてヘアトンを侮辱するばかり。
 よく考えると二人を隔ている最大の要因はヒースクリフの存在。まるで呪い。
 
 
 
 十八章。ロンドンへ帰っていたロックウッド氏だが、偶然ギマートン付近にやってきたため、鶫の辻へ一泊することを決める。だがそこには見知らぬ家政婦がいて、ネリーは不在。ネリーは嵐が丘で働いているという。氏は嵐が丘へ赴き、ヒースクリフが死んだことを知る。
 
 十八章はキャシーがヘアトンと仲直りするいきさつが語られる。なんとも初々しい場面。ニヤニヤ指数は作中最大。キャシーの優しい気質が出ているし、片意地を張っているヘアトンの牙城が崩れてゆく様もくすぐったい。学ぶことが二人の恋愛感情を橋渡ししている点も、知の肯定が滲み出ていて美しい。
 
 ちなみに十八章冒頭でロックウッド氏はキャシーとヘアトンが仲良くしている様を見かけ、キャシーの美しさに驚き、ヘアトンに嫉妬し、彼女の心を射止めなかった自分の愚を恥じるのである。いや、なにいってんだこいつw お前もうロンドンに帰れよw と、それは物語の続きが聞けないので困るが。
 
 十九章。ヒースクリフがまだ健在だった頃に彼に訪れた変化がネリーの口から語られる。ここで名言として良く知られている「この世はすべて、かつてキャサリンが生きていたことと、おれがあいつを失ったことを記したメモの、膨大な集積だ!」が出てくる。
 
 ヒースクリフにとってキャサリンは死んでいると同時に、世界中のどこにでも存在している。特に嵐が丘周辺には彼女を思い出させるものしかないだろう。そして教養を少しずつ身につけ、そのために顔つきが変わってきたヘアトンのその眼差しはいっそうキャサリンのものに近づき、ヒースクリフを苦しめる。
 
 ヘアトンという登場人物は『嵐が丘』の複雑さを象徴している。彼の性格ではなく、存在が複雑だ。ヒースクリフにとって仇敵であるヒンドリーの息子でありながら、キャサリンの面影の根源であるアーンショウの血を色濃く引き、ヒースクリフ自身の手によって彼と同じ惨めな境遇に追いやられている。
 
 つまりヘアトンには、ヒースクリフにとっての敵と愛と自分自身、この三種すべてが混在している。ヘアトンとキャシーを虐め倒すことによってようやく復讐が完遂されるはずなのに、彼はこの複雑な象徴に精神を圧倒されている。
 もっともヒースクリフはヘアトンに自分自身をあまり重ねていないようだが……。
 
 二十章、最終章。ヒースクリフは四日間絶食し、息を引き取る。彼は彼の天国へ旅立ったのだ。それは天にではなく地上にあって、キリスト教や聖書にはなく彼の心やキャサリンの存在を記した嵐が丘周辺、すなわちあの膨大な備忘録にあるのだ。
 
 ロックウッド氏は話を聞き終える。そして外から屋敷へ戻ってくるキャシーとヘアトンには会わないように裏口から出て行く。僕の想像だが、物語の外にいる氏が物語の中にいる彼らとの面会を避けようとする姿勢とも読み取れる。観測者は事象に干渉してはならない。氏はメタな感傷に陥っているのかも。
 
 氏がメタな感傷・感情に染まっているからこそ、結びの場面では物語を知悉しているような、お前はいったい何者なんだとツッコミを入れたくもなるような、しかし美しい、あの感慨が紡がれるのだ。「こんな静かな大地の下に休む人の眠りが静かではないかも知れないなどと、誰が考えつくだろう」
 
 
 
 語り手設定の話。ロックウッド氏とネリーという二重のクッションが導入されている。ロックウッド氏の役割は典型的。冒頭から彼が物語に影響を与える人物ではないことを読者に伝えるための描写が目立つ。読者と立ち位置を同じにすることで読者は彼の背後に落ち着くことができる。
 
 普通はロックウッド氏だけでよさそうだが、彼を物語の完全な外側に位置させるために、物語の中へはネリーが干渉することとなる。ネリーは物語全体を語るため、作中の誰よりも長生きして、生誕から死までを付きそう。また、多くの人物と絡みを持たせるため、拒絶される(憎まれる)ことのない人物造形。
 
 ネリーは敬虔なキリスト教信者だ。これはイギリスの多くの読者と同じ。対して作中の核を成す人物、キャサリンヒースクリフは非キリスト教的価値観を持っている。この反社会的ともいえる価値観をスムーズに語るため、ネリーはキリスト教的常識人である必要がある。
 
 想像になるが、現代的・日本的である価値観からすればキャサリンヒースクリフの価値観を特に異質に受け止めることはないが、『嵐が丘』が出版された当時のイギリスでは二人は個性的すぎただろう。氏とネリー、このダブルクッションは第一義的にキャサリンヒースクリフのためではないか。
 
 脇道に逸れるが、ヒースクリフは最後まで人種も正確な年齢も出自も分からないまま。あらゆるレッテルが剥ぎ落とされた造形となっている。つまり彼がキリスト教的に振る舞う道理はない。
 彼の死は自殺と見ることもできる。ただしそれは死を目的ではなく彼の望む世界への旅立ちの手段としている。

 そんなヒースクリフの価値観を、ネリーは分かっていない。語り手として中立であろうとする姿勢も見られるが、ネリーはキリスト教を離れた価値観を一向に理解しようとしていない。しかし読者はそれを汲み取ることができる。語り手はネリーだが聞き手はロックウッド氏であり、氏は理解している。
 
 氏は理解しているからこそ、最後にあの結びを導く。ネリーが、死者は安らかに眠っていると何度もいっているのに、氏は、何も知らない人には安らかに眠っていないかもなどと誰も想像できないだろうなあ、という趣旨の考えでいるわけだ。
 
 それにしても! 考えれば考えるほど凄絶な小説なのに、読み返しても読み返してもユーモラスなのは反則だろう。ロックウッド氏は滑稽すぎるし、ネリーおばさんはとにかく笑わせてくれるし、ジョウゼフの味は真似したいけど現代では真似しづらい古典ユーモアといったところかw
 
 鴻巣訳の結びを確認してみたら、盛 大 に 誤 訳 し て い た よ ! 確かに普通に考えたら死者が安らかに眠っている方が美しいんだけど、『嵐が丘』って作品はそれを裏切っている。文脈的に少し違和感が沸くけど、安らかに眠っているとするのは誤訳だよ!