『人生論ノート』――死について

 近頃私は死というものをそんなに恐ろしく思わなくなった。年齢のせいであろう。以前はあんなに死の恐怖について考え、また書いた私ではあるが。

 哲学者である三木清の『人生論ノート』は私の愛読書だった。ここのところ繙いた記憶はないが、すでに二桁に達する数を周回している。手垢の目立たないことが不思議であるくらい読み込み、書き込み、マーカーで線を引いている。その痕跡に自身の幼さが露呈していて、読み返すと恥ずかしくも微笑ましい。ブログになれてきた頃は、この愛読書のことで記事を埋め尽くそうと目論んだものだが、実現していないのはひとえに私の怠惰が原因である。

人生論ノート (新潮文庫)
三木 清
新潮社
売り上げランキング: 87820
おすすめ度の平均: 4.5
4 現在60歳の私が高校生のとき何度も読んだ本
5 名著のなかの名著
5 人間の宿命
4 タイトルどおりの本だった。きっと再読する。まったく古さを感じない。
4 繰り返し読もうと思う

 この度、この書を引っ張ってきたのは、新たな周回に際していつも私の気を引き締めさせた「死について」の一扁がよぎったからである。

 思いがけなく来る通信に黒枠のものが次第に多くなる年齢に私も達したのである。この数年の間に私は一度ならず近親の死に会った。そして私はどんなに苦しんでいる病人にも死の瞬間には平和が来ることを目撃した。墓に詣でても、昔のように陰惨な気持ちになることがなくなり、墓場をフリードホーフ(平和の庭――但し語原学には関係がない)と呼ぶことが感覚的な実感をぴったり言い表していることを思うようになった。

 死とは観念であり、観念らしい観念は死の立場から生まれると三木清は語る。現実や生といったものは死と対比され出現する。三木清の哲学のエッセンスが詰まった本書のはじめに「死」を語るのは至極当然の流れであった。
 しかしここでは、死や死に対する態度について焦点を絞り、引用したい。

 私にとって死の恐怖は如何にして薄らいでいったか。自分の親しかった者と死別することが次第に多くなったためである。もし私が彼等と再会することができる――これは私の最大の希望である――とすれば、それは私の死においてのほか不可能であろう。仮に私が百万年生きながらえるとしても、私はこの世において再び彼等と会うことのないのを知っている。そのプロバビリティは零である。私はもちろん私の死において彼等に会い得ることを確実には知っていない。しかしそのプロバビリティが零であるとは誰も断言し得ないであろう、死者の国から帰ってきた者はいないのであるから。

 彼岸の世など存在しない、と私は今も思っているし、過去においても一貫して死後の世界を否定してきたが、引用した文章を目にしたときばかりは頑なな態度が崩れたことを覚えている。あの世などない、ないが、あっても構わない、肩に力を入れて否定するほどのことでもない、と考えを改めた。彼岸の世に重きを置く宗教的価値観とは別に、死とは慰めだと知ったのであった。

 執着する何ものもないといった虚無の心では人間はなかなか死ねないのではないか。執着するものがあるから死にきれないということは、執着するものがあるから死ねるということである。深く執着するものがある者は、死後自分の帰ってゆくべきところをもっている。それだから死に対する準備というのは、どこまでも執着するものを作るということである。私に真に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する。

 真実のところ、私にはまだ死が分からない。執着するものはあるが、それが死を遠ざけたい根拠になることはあってもその逆はない。しかし執着するものがなかったなら明日などどうでもよく、生ける屍のように生きただろうから、執着するもの(すなわち偏りのない愛の対象)が自分の帰ってゆくべきところだという話は、なんとなくであるが、分かる気もする。あるいは、いつかその場所へたどり着きたいと思うのではなく、いつかその場所へ帰りたいと思って執着しているのかもしれない。
 
 
 
 hebakudanさんの訃報は唐突に訪れた。病を患っていることを知らないでいたほど浅い交流しかなかったが、拙ブログがアンテナに加えられていたことを知ると申し訳ない気持ちになった。スターをつけて頂いた記事を読み返しては、何か慰めになっていただろうかと考える。感傷ついでに星の瞬かないこの空がhebakudanさんのところまでつながっているかを考える。