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虚栄は人間の存在そのものである。人間は虚栄によって生きている。虚栄はあらゆる人間的なもののうち最も人間的なものである。
三木清『人生論ノート』 五つめの章――虚栄について
さて、いよいよ「虚栄について」であります。
この章は他の章に比べ抜きん出て興味深いといいますか、人間的であることのなんたるかを説いていて、いかにも三木清的であります。
虚栄――
つまり、自分を本来の姿以上に大きく見せようとする、あの厄介な人間的性質のことです。
見栄というやつです。
私がこうして『人生論ノート』のエントリを書いているのも、虚栄心によるところが大きいのです。専門家でも何でもないのに、私は知っているとばかり教鞭を振るうその様は、まさに虚栄心のなせる業でありましょう。(もちろん、虚栄心ばかりではないのですが)
とはいえ、虚栄心が即座に悪しきものとは限らないのです。
見栄は大なり小なり誰もが持っているものですし、何事も程度の問題です。
過剰なダイエットや暴飲暴食が禁物であるように、虚栄心にも節度が求められます。
いえ、食事の摂取に例えるよりは、排泄に例える方が適切かもしれません。つまり、排便せずに健康に生きていくことは考えられないのです。
まずはその点を見てみましょう。
半分の徳
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「虚栄を余り全部自分のうちにたくわえ、そしてそれに酷使されることにならないように、それに対して割れ目を開いておくのが宣い。いわば毎日の排水が必要なのである。」かようにいったジューベールは常識家であった。しかしこの常識には賢明な処世法が示されている。虚栄によって滅亡しないために、人間はその日々の生活において、あらゆる小事について、虚栄的であることが必要である
虚栄が慢性化することを防ぐためには。あるいは、抑圧された虚栄心が爆発することを防ぐためには。毎日のガス抜きが必要なのです。
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人に気に入らんがために、或いは他の者に対して自分を快きものにせんがために虚栄的であることは、ジューベールのいった如く、すでに「半分の徳」である。すべての虚栄はこの半分の徳のために許されている。虚栄を排することはそれ自体ひとつの虚栄であり得るのみでなく、心の優しさの敵である傲慢に堕していることがしばしばである。
すべての虚栄はこの半分の徳のために許されている!
有り難いことです。この言葉だけで救われる人もいるのではないでしょうか。
具体的には、「偽善」に潜む虚栄的な響きに嫌悪感を示し、潔癖に偏ったものの考え方をする方々に。あるいは、ほとんど何に対してでも「中二病」という言葉を当てはめようとする方々に。半分の徳という言葉を処方したいところであります。
「偽善」や「中二病」といった言葉でそれらを切り捨てようとする行い――つまり虚栄を排すること――は、実はそれ自体が虚栄なのです*1。いいえ、それどころか、実に傲慢な態度といえましょう。
フィクション
それでは、そろそろ他の内容も見ていきたい思うのですが、その前に「フィクション」という語について予習しておくとしましょう。
フィクションというと虚構のことです。小説や漫画、ドラマの多くはフィクションです。作り物のお話、現実には無いお話です。
ただし、三木清が使う「フィクション」には、もっと大きな意味が含まれています。それは虚構というよりは文明と訳す方が適切な場合が多々あります。人間がいなければ生まれなかったであろうもの、それをフィクションと呼ぶと考えれば分かりやすいのではないでしょうか。
小説は人間が書くものですから、フィクションです。
同じく、芸術作品もフィクションです。
カネも人間が発明したものですから、フィクションです。
硬貨がただの金属ではなく、紙幣がただの紙切れでないことは、国が保証しています。私たちは国を信用してはじめて通貨を使用できます。ですから、信用もまたフィクションなのです。
社会的なもののおおよそはフィクションです。
――このような「フィクション」という語の幅広いニュアンスを念頭に置いて読み進めると理解が早く済みます。
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虚栄によって生きる人間の生活は実態のないものである。言い換えると、人間の生活はフィクショナルなものである。それは芸術的意味においてもそうである。というのは、つまり人生はフィクション(小説)である。だからどのような人でも一つだけは小説を書くことができる。普通の人間と芸術家との差異は、ただ一つしか小説を書くことができないか、それとも種々の小説を書くことができるかという点にあるといい得るであろう。
というわけで、人生もまたフィクションなのです。
人生を人が作り出す一つの作品と見なせば、三木清の言っていることがお分かりいただけるでしょう。
では、フィクションであるのならば、人生は虚構なのでしょうか。
ある意味では、そうなのです。人生は小説と同じように、なんら実体があるわけではありません。実体があるとすれば、それは、冷めた中高生の言葉を借りていうと「アミノ酸と化学反応」でしかない*2。
しかし、疑うまでもないことですが、人生には実在性があります。
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ただその実在性は物的実在性と同じでなく、むしろ小説の実在性とほぼ同じものである。即ち実体のないものが如何にして実在的であり得るかということが人生において、小説においてと同様、根本問題である。
人生はフィクショナルなものとして元来ただ可能的なものである。その現実性は我々の生活そのものによって初めて証明されねばならぬ。
作家が小説にリアリティを持たせようとするように、私たちも人生に現実性を与えようとする。その現実性は生活そのものによって証明される。
人生は元来、可能的なもの――つまり、どのようにもできるもの、未だ定まっていないもの、空想的なもの――であるが、現実を生きることにより逆説的に人生は現実になる。舞台で現実に演じられた台本だけが、ただの紙の束ではなくなる。
人生は物的なものの実在性ではなく、小説的(フィクショナル)なものの実在性に属していると三木清は説いています。
これは心身二元論*3ではありません。
三木清の考え方としては、有機的なもの(フィクション)はすべて虚無(物)から生まれたとしています。
ところで、小説にリアリティを持たせる方法はいくつかあり、時代ごとの小説技法により様々です。人生の実在性の証明方法もまた時代ごとに異なっているのではないでしょうか。少なくとも、時代によっては社会が認めようとしない人生というものがあります。また、あるいは、これまでの生活により証明されてきた人生が、生活の崩壊と共に否定される(あるいは否定されたかのように受け取られる)場合もあります。
このような場合、人は人生から現実感を喪失します。いわば虚無に呑まれるのです。私たちが踏みしめている有機的な大地の下には虚無が横たわっているのであります。
▼p41
ヴァニティはいわばその実体に従って考えると虚無である。ひとびとが虚栄といっているものはいわばその現象に過ぎない。人間的なすべてのパッションは虚無から生まれ、その現象において虚栄的である。人生の実在性を証明しようとする者は虚無の実在性を証明しなければならぬ。あらゆる人間的想像はかようにして虚無の実在性を証明するためのものである。
ヴァニティ(vanity):虚栄
ところで、《人間的なすべてのパッションは虚無から生まれ、その現象において虚栄的である。》という一文は何かを思い出させないでしょうか。前回の「習慣について」の章で似たような理屈が出ていました。
情念に安定的な形を与えることこそ習慣の仕事でした。パッションもまた情念のひとつです。人間的なすべてのパッションは習慣の力を借りて形を成します。言い換えれば、人生が現実性を有するのは習慣の力によってなのです。
習慣化された日々(日常)よりも現実的な人生は考えがたいでしょう。
▼p43
フィクションであるものを自然的と思われるものにするのは習慣の力である。むしろ習慣的になることによってフィクションは初めてフィクションの意味を有するに至るのである。かくしてただ単に虚栄であるものは未だフィクションとはいわれない。それ故にフィクションは虚栄であるにしても、すでにフィクションとして妥当する以上、単なる虚栄であることからより高い人間的なものとなっている。習慣はすでにかようなより高い人間性を現している。習慣は単に自然的なものではなく、すでに知性的なものの一つの形である。
紙幣的価値
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紙幣はフィクショナルなものである。しかしまた金貨もフィクショナルなものである。けれども紙幣と金貨との間には差別が考えられる。世の中には不換紙幣というものもあるのである。すべてが虚栄である人生において智慧と呼ばれるものは金貨と紙幣とを、特に不換紙幣とを区別する判断力である。尤も金貨もそれ自身フィクショナルなものではない。
カネがフィクショナルなものであるということはすでに述べました。
大昔の人々は物々交換で望むものを手に入れていたのですが、それでは不便ですから、ある種の貝殻を貨幣として用いたとか(だからカネに関する漢字には貝の字があるのだとか)いう話は皆さん御存知だと思います。当時の人々は通貨の概念に馴染めなかった人もいるのでしょうが、周りの人々が皆やりはじめると貝殻如きにも信用が生まれてくるわけです。信用というか、もはや習慣の力です。
こうして人は無(もともと何もなかったところ)に有(通貨の概念)を形成して文明なるものを発展させてゆくわけです。
が、そのような「有」のすべてが同じ「有」とは限りません。「有」には無数の相が考えられます。同じカネであっても、それが紙幣であるのか、金貨であるのかでフィクションの度合いが違ってくるのです。極端な例を挙げるなら、今にも倒れそうな政府の発行している紙幣と純金の金貨では、その価値の普遍性に差がある、というわけです。その差を見抜く眼力こそが智慧というものである、と三木清はいいます。
つまりは、善と偽善とを区別する判断力もまた、智慧と呼ばれるのです。
善と偽善もまた多くの相に分かれており、これは善、これは偽善と綺麗に二分できるものではありません。さきほど紹介した「半分の徳」という考え方もあります。そのうえで偽善というものを考えるなら……あー……えー……幸いにも『人生論ノート』には「偽善について」の章もありますので、この話はそこまで待ってもらうといたしましょう。*4
▼p41
しかし人間が虚栄的であるということはすでに人間のより高い性質を示している。虚栄心というのは自分があるよりも以上のものであることを示そうとする人間的なパッションである。それは仮装に過ぎないかも知れない。けれども一生仮装し通した者において、その人の本性と仮性とを区別することは不可能に近いであろう。道徳もまたフィクションではないか。それは不換紙幣に対する金貨ほどの意味を持っている。
人間の悪
▼p43
すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる。
一読した瞬間に、これは名言だ、と思わされてしまう一文が、『人生論ノート』には無数に散らばっています。一息で唱えることを可能とする断定的な文言からは後光が差すかのようです。
しかしこの度、読み返していると、この一文が結構前触れなく登場していることに気付きました。意味深な割に、文脈を無視しているといいますか(悪についても孤独についても語っていないパートで、唐突に挿入されているのです)、ふと思いついたから書き留めておいた、といった印象を受けます。
私はこれまで、この一文から発せられる超然とした雰囲気に呑まれていたようです。しかしこの一文が「虚栄について」という章の一文であることをふまえると、ここにある「悪」は、どうやら「虚栄」のことを指しているとみるのが妥当のようです。
虚栄がただちに悪であるといっているのではありません。しかし虚栄は悪にもなりうるものです。あるいは、悪が人間的なものである以上、人間的な悪は虚栄の他から生まれることはないと換言することもできます。*5
すでに述べたように、人は虚栄によりフィクションを築きます。そうであるばかりかフィクションの上にフィクションを築き、より高度なフィクションを実現させます。これがまさしく文明の進歩に妥当します。そして、この文明の進歩を支える現象が虚栄である、というのがこれまで見てきたところです。
悪もまた同じようにして築き上げられます。
すべての人間の悪は社会的・文明的であるところから生ずるものであります。社会や文明を捨てられないところから生ずるものであります。*6
(つまり、私ははじめ「相対的に、孤独を尊ぶ性格は悪から遠い」という解釈をしていたのですが、三木清はここではそんなことを述べていない……ということです)
虚栄と芸術
▼p44
虚栄は最も多くの場合消費と結びついている。
社会的・文明的であろうとするところに虚栄は生じます。
では、虚栄から切り離された生活とは可能なのでしょうか。
▼p43
いかにして虚栄を無くすることができるか。虚無に帰することによって。それとも虚無の実在性を証明することによって。言い換えると、創造によって。創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションを作ることである、フィクションの実在性を証明することである。
▼p44
自己の生活について真の芸術家であるということは、人間の立場において虚栄を駆逐するための最高のものである。
現在、インターネットの台頭により創造的な活動の敷居は下がっています。誰もがものを書き、絵を描き、それを発信することができる時代です。それによって明らかとなったのは、それら創造的な活動の動機といえましょう。すなわち、自己顕示欲だとか、承認欲求だとかいう、虚栄に属するパッションです。
すなわち、創造的な生活が即座に虚栄と切り離された生活になるわけではないのです。
二度目の引用になりますが。▼p43
フィクションであるものを自然的と思われるものにするのは習慣の力である。むしろ習慣的になることによってフィクションは初めてフィクションの意味を有するに至るのである。かくしてただ単に虚栄であるものは未だフィクションとはいわれない。それ故にフィクションは虚栄であるにしても、すでにフィクションとして妥当する以上、単なる虚栄であることからより高い人間的なものとなっている。習慣はすでにかようなより高い人間性を現している。習慣は単に自然的なものではなく、すでに知性的なものの一つの形である。
承認欲求等による創造は、《ただ単に虚栄であるもの》なのですね。これが《単なる虚栄であることからより高い人間的なもの》となるためには、創造が生活のあらゆる側面に対して習慣化されることが必要です。
つまり、単なる趣味として創造するのではなく、芸術家として生きるということです。「生き方」の問題ですから、創造するかどうかは別問題になってくるわけです。(寡作の芸術家が多作の芸術家に芸術家としての姿勢で劣ると、誰が言い得るでしょうか?)
では、どうすればよいかといえば、もっとも実直なところでは、続けることが正解ではないでしょうか。
しかし、創造を続けることによって「承認欲求の化け物」となってしまうのか、それとも承認欲求から切り離されて真の芸術家になるのか……このふたつの道の分岐点がどこにあるのか……この見極めは容易ではなさそうです。
前回の「習慣について」はこの点に深く関わっています。情念(承認欲求)を支配し得るのは習慣であります。普段からの絶え間ない心がけと芸術家としての自覚が、知性と秩序の力ある形を成すのです。そこに習慣が技術的であるといわれるゆえんがあります。
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▲青空文庫にて『人生論ノート』の全文が読めます。
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*1:中二病をバカにするのは高二病だ、といわれます。これはつまり、虚栄を排することそれ自体が虚栄であることが少なからず知られていることの証左であります。が、方法論としてはよろしくない。
*2:なにをこじらせているんだこの中高生は……(呆然)、といったところですが、悩める当人には深刻な問題なのです。
*3:デカルトの哲学。精神と物体を共通性のない二つの実体であるとする考え。
*4:三年ぐらい待ってくれれば、そのときに「もう三年待って」というかもしれない。
*5:悪には人間的ではない、いわば神のごとき超越的な悪も考えられるので、区別する意味で「人間的」という語をあてます。
*6:若干、言葉遊びのような気もします。法律がなくなれば犯罪もなくなるのだ、といっているようで。しかし、だからこそなのでしょうね、三木清が一文に留めたのは。こうして長く解説していると、それがどーしたという気になってしまいますから。