『人生論ノート』で読み解く『まどか☆マギカ』
哲学者 三木清の散文集『人生論ノート』の「幸福について」の章を引用し、アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』の登場人物が幸福であったかを説く。
自分が幸福であること
幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。もちろん、他人の幸福について考えねばならぬというのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。
自分が幸福である状態とは、幸福の根拠が自分にあるということである。言い換えるなら自律的な幸福のみが幸福として生き残る。他律的な幸福は幸福であり続けることが出来ない。
「我々の愛した美樹さやかはなぜ死んだ」
「少女だからさ……」
美樹さやかは愛するものの幸福を願ったが、彼に愛されたいという念願は果たされることがなく、彼女自身は不幸であった。
我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。
徳は力である
愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であったのではなく、反対に、彼等は幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犠牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すところである。
幸福は他律的ではなく自律的でなければならない、と私はいった。しかし真の幸福は愛するものがいなければ現れない。自律的な幸福は、かえって他者との関係性を礎とする。そこに人間が本来的に間柄により生きることがあかしされる。
佐倉杏子は家族の幸せを願ったが、その願いのために家族を失った。それ以来、彼女は魔法少女としての力を己のためにのみ使用してきた。しかし、美樹さやかと接してからは本来の自分を思い出してゆき、最後には己自身へ帰った。佐倉杏子の本質は献身であり、それは最後の最後になって、祈りの姿勢に現れている。
献身が実現するとしたならば、それは佐倉杏子の幸福である。魔法少女の力を賭して美樹さやかの魂を救済できるのならば、彼女は幸福であっただろう。
彼女はQBに与えられた運命、絶望に落ち魔女を産んで完結する魔法少女の運命の車輪に踊らされはしたが、最後にはそれを打ち砕いた。
徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すところである。
幸福を武器として闘う者のみが幸福
佐倉杏子は美樹さやかの心を取り戻せず、次のように嘆いている。「頼むよ神様、こんな人生だったんだ、せめて一度ぐらい、幸せな夢を見させて……」
これをもって彼女は幸せではなかったと見なすことも出来よう。しかし真の幸福とは、心が折れたかどうかを問うものである。彼女の心はこのとき確かに弱ったであろうが、心の支柱は折れることがなかった。支柱とは彼女の本質である献身であり、本質であるがゆえに彼女のもっとも強い部分である。このとき彼女は「ただ一つだけ守りたいものを最後まで守り通せばいい」と述べている。三木清の言葉にも該当するものがある。
幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。
12話(最終話)では、鹿目まどかは魔法少女救済システムとして概念と化す。周囲は彼女の選択が過酷であることを訴えたが、彼女の決意は揺るぎなかった。
彼女はあらゆる人間的なものを捨て去った。しかし真の希望だけは捨て去ることがなかったし、それゆえに彼女は希望そのものとなることができた。
概念と化すというフィクションゆえの極端な状況設定によって、三木清の幸福論が顕著に当てはまっている。
そしてそれは暁美ほむらに対しても当てはまる。
暁美ほむらの願いは鹿目まどかを救うことにあった。その願いが叶わぬものと、一度は絶望に染まりかけた彼女であったが、鹿目まどかの決意によって暁美ほむらは救われた。そして鹿目まどかが存在のあり方を変えたために、暁美ほむらの為すべきこともまた姿を変えた。しかし根本は変わらない。鹿目まどかが個人ではなく世界(の法則の一つ)となってからも、鹿目まどかが守ろうとした世界を守り続けていく。それは終わりのない戦いである。戦いに終わりがなく、戦士に寿命がある以上は、いずれ敗北する戦いである。それでは、暁美ほむらは不幸であったのか。否、彼女は幸福であった。
かつて鹿目まどかの武器であった弓は、彼女の象徴であり、今となっては彼女の幸福の象徴である。暁美ほむらはこの幸福(=弓として象徴される)をもってあらゆる困難(=魔獣)と闘うのである。鹿目まどかが幸福である以上、それと一体となって戦い続ける者*1は幸福である。
幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。
幸福は表現的なものである
機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現われる。歌はぬ詩人といふものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。
鹿目まどかを救うためならば出口のない迷路に閉じこめられても構わないと考える暁美ほむらには幸福のサインがなかった。
しかし、幸福を手にしてからの彼女は微笑むようになった。そして幸福を武器として戦う彼女は、倒れるその直前にも笑みを浮かべるのである。
鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。