人生論ノート――習慣について

 ▼p34

私が恐れるのは彼の憎しみではなくて、私に対する彼の憎しみが習慣になっているということである。

 
 それでは、実に10ヶ月ぶりになりますが、人生論ノートのエントリをはじめさせて頂きます。

 三木清『人生論ノート』 四つ目の章――習慣について

人生論ノート (新潮文庫)
三木 清
新潮社
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 ▲あれっ? 表紙のデザインが変わっている……!?
 

習慣について

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 習慣はこれに反して生きた形であり、かようなものとして単に空間的なものでなく、空間的であると同時に時間的、時間的であると同時に空間的なもの、即ち弁証法的な形である。

 
 三木清は習慣というものが生命の本質的な作用に属することを説いています。習慣というと、たとえば、就寝前には必ず五分以上歯を磨くというような自己の自己に対する取り決めです。このような習慣は当たり前のようですが、毎日続けるとなれば、そこには相応の技術力や意志が伴います。少なくとも、幼児はこのような習慣を維持することはできないでしょう。継続は力なりとはよくいったもので、その力は機械的なものではなく、どこまでも生命的なものであります。
 生命的というところから、少し話を大きくしますが、私たちの肉体が私たちの形を作り続けていることもまた習慣の力です。私たちは食物を摂取し、そうして獲得した新たな素材と古い素材を入れ替えていく(つまり新陳代謝のことです)わけですから、私たちは常に変化し続けているわけですが、同時に常に同じ形を取り続けています。こうして生まれる有機的な形のことを考えてください。毎晩歯磨きをするような当たり前の習慣もまた、有機的な形を有しています。歯磨きでさえも私を支える生命活動のひとつの形であります。
 習慣とは、そのように命あるものだとイメージしてください。

 幾分か頭の体操がすんだところで、本書を読み進めていくとしましょう。
 

模倣について

 ▼p32

 模倣と習慣とは或る意味において相反するものであり、或る意味において一つのものである。

 
 早速、模倣と習慣という二つの語による対比が語られます。*1

 まず先に明らかにしておきますが、習慣とは模倣なのです。
 そして「習慣」と対比的に取り扱われるのは「流行」です。
 流行とは、他を模倣すること。
 習慣とは、自己を模倣すること。

 すなわち、模倣=流行のとき、模倣と習慣は相反する意味を持ちます。
 模倣=習慣のとき、模倣は習慣と同じものとなります。
 
 ▼p32

 流行が横の模倣であるとすれば、習慣は縦の模倣である。

 
 横の繋がりという言葉があるように、横の模倣とはすなわち他者を模倣することです。
 これに対し、縦の模倣とは、自己による自己の模倣です。この場合の模倣は、哲学的にいうと、弁証法というやつです。

 それでは、習慣と流行の対比をもう少し追ってみましょう。
 

流行について

 ▼p32

 流行に対して習慣は伝統的なものであり、習慣を破るものは流行である。

 
 習慣は自己(あるいは歴史)という縦の繋がりを持つものです。流行はこの縦の繋がりを断ち切る特性を有しています。自分で決めた物事を破らせるところに流行の悪魔的な素養が感じられます。

 それまで髪を染めたことの無かった黒髪の大和撫子が、周囲を模倣して、ある夏を境に脱色し、茶髪になる。これが流行の力です。
 そうやって茶色に染まった髪が黒に戻らないよう持続するようになると、今度は習慣に属する力が生まれてくるわけです。
 彼女の髪がもし黒に戻ることがあるとすれば、それは習慣の力が衰退したときか、そうでなければ新たな流行の力が作用したときに他なりません。
 
 ▼p33

 流行においては主体は環境に対して寄り多く受動的であるのに反して、習慣においてはより多く能動的である。

 
 外部の環境に感化されて行うのが流行ですから、それは受動的であるといえましょう。
 これに反して習慣は持続するための力が必要であり、能動的であります。というのも、《習慣の形が主体と環境との関係から生じた弁証法的なものである》からです。
 
 ▼p33

 習慣は自己による自己の模倣として自己の自己に対する適応であると同時に、自己の環境に対する適応である。流行は環境の模倣として自己の環境に対する適応から生ずるものであるが、流行にも自己が自己を模倣するというところがあるであろう。我々が流行に従うのは、何か自己に媚びるものがあるからである。

 
 ううむ。
 《我々が流行に従うのは、何か自己に媚びるものがあるからである》……
 深い、ですね。*2
 

習慣を支配し得るものは他の習慣

 さあ、より多く習慣の特性を見ていきましょう。

 ▼p34

 一つの情念を支配し得るのは理性ではなくて他の情念であるといわれる。しかし実をいうと、習慣こそ情念を支配し得るものである。

 
 ここでの情念とは、「何か苛烈な、ちょっと抑えがたい感情」とでも解釈してください。情熱や欲望や憎悪や憤怒といったエネルギーのある感情のことです。
 そういった感情を抑え込むためには理性の力を借りるというのが、一般的な見解ではないでしょうか。
 しかしそれよりもむしろ、より強いエネルギーを持つ情念によって塗りつぶしてしまうのも一つの方法ではあります。
 ところが、実のところ、情念には形がありません。形のないものには力もない。平たくというと、一過性のものです。*3
 情念が本当の力を持つのは情念が習慣になったときだけなのです。

 憎悪を例にとって考えてみましょう。
 私たちは人間ですから、誰かを憎むことぐらいあります。怒りが頂点に達したときなどは、こんなやつは死んでしまえばいいのだとか、殺してやろうかと思うものです。しかし、ちょっと経って冷静になると、なにも死ぬことはないだろう、なにも殺さなければならないことはないだろう、と倫理的な価値観に引き戻されます。
 これは憎悪という情念が一過性のものであることを意味しています。言い方を変えると、憎悪は、私たちに教育されている倫理的な価値観というあの習慣の力に屈するからこそ、一過性の力しか持たないのです。
 では、もし、憎悪が習慣化したならどうでしょうか。その憎悪はもはや、倫理的であろうとか、社会的であろうとする習慣を破ってしまいかねない力を孕んでいます。
 冒頭の引用――《私が恐れるのは彼の憎しみではなくて、私に対する彼の憎しみが習慣になっているということである》――はそういうことなのです。
 
 ▼p34

 習慣を支配し得るのは理性ではなくて他の習慣である。言い換えると、一つの形を真に克服し得るものは他の形である。流行も習慣になるまでは不安定な力に過ぎない。情念はそれ自身としては形の具わらぬものであり、習慣に対する情念の無力もそこにある。一つの情念が他の情念を支配し得るのも、知性が加わることによって作られる秩序の力に基づいている。

 

デカダンス

 最後に、習慣の負の側面も見ておきましょう。
 習慣にはデカダンス*4が内包されていると三木清はいいます。このことはすべての習慣においていえることですが、情念が習慣化された場合に特に顕著です。先に見た憎悪の例のように、情念が習慣になることは、あまりよろしくない場合があります。デカダンスに陥りやすいのです。
 東洋哲学では悟りのように、落ち着いた心的状態が尊ばれています。情念が習慣化した場合というのは、落ち着いた心的状態の逆ですね。
 ただ、東洋哲学で真に尊ばれているのは落ち着いた心的状態ではなく、中庸を知っていることでしょう。ところが習慣はいわば情念の如き苛烈な感情を日常に組み込み、落ち着いた心的状態であるかのようにみせかけ、さらには中庸という概念を浸食する……。つまり習慣は「堕落しやすい」とか「退廃的になりがち」ということです。アルコール中毒も習慣であるといえば分かりやすいでしょうか。
 
 ▼p38

 習慣に対して流行はより知性的であるということができる。流行には同じようなデカダンスがないであろう。そこに流行の生命的価値がある。しかしながら流行そのものがデカダンスになる場合、それは最も恐るべきものである。流行は不安定で、それを支える形というものがないから。流行は直接に虚無に連なる故に、そのデカダンスには底がない。

 
 流行そのものがデカダンス……? どういった場合でしょうか。脱法ハーブとか……? みのもんたの煽動により納豆を買い漁る社会現象とか……? そこにそれを支える形がないというのは、なるほど、事実です。

*1:三木清は対比が好きなようですね。私も大好きです。好きの反対は嫌いなのか、それともなんとも思っていないのか。対比を考える上で重要なのは、対立項の関係です。対象をよく見極めましょう。

*2:文体模写をしていると著者の考え方が自然と身に付いてくるものですが、こういった着眼のあり方はなかなか身に付きにくいです。才能とは模倣できない素養のことである、とでもいったところでしょうか。

*3:中学・高校生のとき、教師が勉学の崇高性を語ってくれたことがあったはずです。聞いた直後は、よし、たくさん勉強して立派な大人になるぞ、と思うものですが、いざ下校・帰宅すると、そんなことより遊ぼうという気分になる……習慣には至らない……アレのことです。

*4:三木清の著作では頻出用語。