『人生論ノート』――幸福について

人は誰でも、幸せ探す、旅人のようなもの

疑いなく確かなことは、過去のすべての時代においてつねに幸福が倫理の中心問題であったということである。ギリシアの古典的な倫理学がそうであったし、ストアの厳粛主義の如きも幸福のために説欲を説いたのであり、キリスト教においても、アウグスティヌスパスカルなどは、人間はどこまでも幸福を求めるという事実を根本として彼らの宗教論や倫理学を出立したのである。

 三木清『人生論ノート』 ふたつめの章は、「幸福について」

人生論ノート (新潮文庫)
三木 清
新潮社
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読むための足がかり

『人生論ノート』を読んでいて興味深いのは、抽象と具体の意味の逆転現象にある。私が*1抽象的だと思っているものの一部分を、三木清は具体的だと説明するし、三木清がこれこれは抽象的であるというとき、私はそれを具体的なものだと考えていたことに気づく。言葉は基準となるものとそれと対比されるものにより意味を変える*2。そのとき私は言葉の曖昧さに困惑するが、それ以上に三木清の整然とした思索に感動を覚える。
 この「幸福について」の章では、この手の逆転現象が目立った。時折、意味がとれず苦しまされたが、何を基準とし何が対比されているかを考えることによって、三木清の文章を比較的平易に読むことが出来るものと思う。このエントリが、その助けになれば幸いである。
 

幸福について考える気力を失っている

今日の人間は幸福について殆ど考えないようである。(中略)幸福について考えないことは今日の人間の特徴である。現代における倫理の混乱は種々に論じられているが、倫理の本から幸福論が喪失したということはこの混乱を代表する事実である。新たに幸福論が設定されるまでは倫理の混乱は救われないであらう。

 倫理学とは、人が幸せになるためにはどうすればいいか、これについて考える学問である。――とすれば、幸福とは何か、という問いと向き合うことが、倫理学のはじめの一歩となるわけだが、昨今では倫理学はその問いを忘れてしまい、混乱した状態にある、と三木清は言う。

幸福について考えることはすでに一つの、恐らく最大の、不幸の兆しであるといわれるかも知れない。健全な胃をもっている者が胃の存在を感じないように、幸福である者は幸福について考えないといわれるであろう。しかしながら今日の人間は果して幸福であるために幸福について考えないのであるか。むしろ我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいか。

 「幸福について」が執筆されてから六十年以上経過した現代では、当時よりも生活がずっと豊かになったものと思う。それでもなお、「現代人は幸福について考える気力を失っている」と言われれば頷いてしまえるほど疲弊している感がある。

 

忘れ去られた心理批評

幸福論を抹殺した倫理は、一見いかに論理的であるにしても、その内実において虚無主義にほかならぬ。

以前の心理学は心理批評の学であった。それは芸術批評などという批評の意味における心理批評を目的としていた。人間精神のもろもろの活動、もろもろの側面を評価することによりって、これを秩序づけるというのが心理学の仕事であった。この仕事において哲学者は文学者と同じであった。

 批評の仕事とは、評価を通じて対象を秩序づけることであると言う。
 なるほど、批評が面白かったり、批評を通じて作品への理解が深まったり、批評それ自体が一つの作品であると考えられるのは、秩序づけるこの仕事の性質のためだろう。
 そして心理学とは心理批評の学であった、らしい*3。あの絵はどこそこが素晴らしい、というふうな意味での批評が、人の心理のあり方に対しても行われていた。つまりは自然科学に基づく方法(仕組みを解き明かす)ではなく価値批評(どこが素晴らしいか、どのように素晴らしいか)としての学問であった。
 自然科学的方法に基づいた学問を非難しているのではない。
 重要なのは、幸福とは何かを考えるためには、価値批評を失ってはならなかったという点である。そして昨今の哲学もまた価値批評を失った学問である。
 ところで、批評とは、批評それ自体が芸術的活動である。

哲学における芸術家的なものが失われてしまい、心理批評の仕事はただ文学者にのみ委ねられるようになった。そこに心理学を持たないことが一般的になった今日の哲学の抽象性がある。

 最新の哲学が何をしているのかについて、私は明るくないが、恐らく今もまだ哲学は言語やクオリアについてをテーマとしているだろう。それは私にしてみれば、かつての哲学のような抽象的な思索を行う学問とは異なり、研究分野が細分化されたという意味でも具体的な学問となったように思われる。だが、三木清にいわせれば今日の哲学の方が抽象的だという。
 かつての哲学の方に具体性を認める三木清の姿勢からはヒューマニズムが読み取られる。具体性を認めるということは有用性を認めることである。人は幸せを求める生きものであり、哲学はそのような人にとって有用でなければならない。三木清は恐らくそのように考えていたのだろう。

 また、三木清は、虚無主義を克服できないことが現代の病の一つ、と本書の他章で述べている。虚無から価値あるものを生み出すという意味で、芸術的活動はこの病を脱するための一つの鍵となるだろう。*4
 

生とはなんぞや

死は観念である、と私は書いた。これに対して生は何であるか。生とは想像である、と私はいおうと思う。

 ひとつめの章《死について》では、死は観念から生じる、と語られた。
 死は観念である。
 では、生とはなんぞや?
 生とは想像(力)である。

人生は夢であるということを誰が感じなかったであろうか。それは単なる比喩ではない、それは実感である。この実感の根拠が明かにされねばならぬ、言い換えると、夢或いは空想的なものの現実性が示されなければならない。

 人生は夢のようだ、と感じなかった人はいないであろう。
 夢のようだ、というのは比喩だろうか?
 比喩である、というところに留めては前進はない。それは単なる感想であるから。
 比喩ではなく、それは実感である。
 しかし実感であれば(実感――文字通り、実際に感じたこと)、なぜそのように感じるのだろうか? (哲学とは問いを立てる学問である)
 しかし、先に述べておくと、《夢或いは空想的なものの現実性》が如何にして示されるかはこの章では明示されない。この章でいえば「構想力」や「形成力」が答えに相当するが、解説するには時期尚早である。今は生と死の対比にまつわる話に戻ろう。

人間を一般的なものとして理解するには、死から理解することが必要である。死はもとより全く具体的なものである。しかしこの全く具体的な死はそれにも拘らず一般的なものである。

 死は一般的なものである。対して、生は特殊的なものである。と、三木清は説く。
 なるほど、死は一般的(あるいは具体的)なものである。生とは違い、死は、それは無である、と言い切ることが出来るから。あるいは土に還ることが死であるから。
 否、死は一般化できない、と反論の声が聞こえる。一般化できるということは、定義が可能ということである。死を定義できるならば、脳死が人の死であるか定義できるはずである。しかし三木清はいう。

死そのものにはタイプがない。死のタイプを考へるのは死をなほ生から考へるからである。

 すなわち、脳死を死であるかどうかと考えてしまうのは、脳死を生の見地から考えているからである。
 死は定義可能なものである。死とは無である、と、このように、揺るぎがない。
 それでもなお、脳死が人の死であるか否か線引きできない理由とは何か。某漫画のように「人は忘れられたときに死ぬ」と唱えてしまう、その理由とは何か。この点から、生とは特殊的なものであるとする三木清の考え方が、かえってはっきりとしてくる。
 この考え方に則していうと、「脳死は人の死か否か」は誤りで、「脳死は人の生か否か」と問うことこそただしい認識に基づいている、ということになる。生命維持装置に繋がれ病床に伏す肉体の動悸、伸びる髭や髪や爪、体温を、生きている私たちは死(無)とは断じ得ない。それはもはや死か否かではなく、生か否かなのだ。*5
 付け加えていうなら、死に様とは死に属するものではなく生に属するものであるがゆえ、バリエーションを持っている。

 しかるに生はつねに特殊的なものである。一般的な死が分離するに反して、特殊的な生は結合する。死は一般的なものという意味において観念と考えられるに対して、生は特殊的なものといふ意味において想像と考えられる。我々の想像力は特殊的なものにおいてのほか楽しまない。(芸術家は本性上多神論者である)。もとより人間は単に特殊的なものでなく同時に一般的なものである。しかし生の有する一般性は死の有する一般性とは異っている。死の一般性が観念の有する一般性に類するとすれば、生の一般性は想像力に関わるところのタイプの一般性と同様のものである。個性とは別にタイプがあるのでなく、タイプは個性である。死そのものにはタイプがない。死のタイプを考えるのは死をなお生から考えるからである。個性は多樣の統一であるが、相矛盾する多樣なものを統一して一つの形に形成するものが構想力にほかならない。感性からも知性からも考えられない個性は構想力から考えられねばならぬ。生と同じく幸福が想像であるということは、個性が幸福であることを意味している。

 上の引用箇所は、「幸福について」の章だけでは意味がとりづらい。最終章である「個性について」*6を読むことにより、ここで三木清がいわんとしているところを把握できるだろう。ゆえにこの箇所は「個性について」のエントリを立ち上げるまで待ってもらうこととしよう*7
 しかし参考までに「個性について」の一節を引用する。

理智の技巧を離れて純粋な学問的思索に耽るとき、感情の放蕩を去って純粋な芸術的制作に従うとき、欲望の打算を退けて純粋な道徳的行為を行うとき、私はかような無限を体験する。

 ここでの「無限」は「個性」と同義であり、「個性」を得るものは「幸福」である。
 「幸福について」の終盤に書かれている内容も、これと同じことである。
 

人格こそが幸福

幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。もちろん、他人の幸福について考えねばならぬというのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。

《人格は地の子らの最高の幸福であるといふゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるといふことは人格になるといふことである。》

 難解であった考察に区切りをつけ、実に明快な定義が示される。(偉大なゲーテ大先生に感謝!)
 人格こそ幸福の要素である。
 幸福とは、精神的快楽であるか肉体的快楽であるか、活動であるか存在であるか、と問うことは混乱を呼ぶばかりだと三木清は言う。なぜならば、それらをひっくるめたものが人格であるから。幸福とはそれらすべてをひっくるめたものであるから。

幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。


 人が後悔することの半分以上は、己に抗ったためであろう。抗った結果として破綻を来したなら、これは明らかに不幸であろう。
 己に従って行った選択であれば、成功はまさに幸福であるし、失敗もまた彼を傷つけることはないだろう。
 自分自身へ帰ること。自分自身であること。すなわち人格であること。これが幸福の条件である。

 それにしても! 何と美しい言葉があったものだろう!
《ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。》
 三木清には哲学者になるか文学者になるか悩んでいた時期があったそうだが、文学者としての才能の片鱗がここに限らず見て取れる。

機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現われる。歌はぬ詩人といふものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。

 さて、これまで語られた幸福論は、なにか極限の状態でなければその真の姿を確認できないようなものに聞こえた。しかし、そう難しく考える必要はないのが本当のところである。
 ついつい漏れてしまう鼻歌のように、幸福は常に外に現れる。*8
 
 

関連リンク

三木清 人生論ノート
 ▲青空文庫にて『人生論ノート』の全文を読むことが出来る。ただし、現代仮名遣いではないだけに少々読みづらい。現代仮名遣いで読みたい方は新潮文庫版をご購入下さい。
 
『人生論ノート』――死について - 備忘録の集積
 ▲『人生論ノート』ひとつめの章「死について」

*1:それとも、世間一般が、と主語を大きくしてもよいかもしれない

*2:哲学の分野にはありがちなことですね、主観と思われていたものが客観で、客観と思われていたものが主観で……。ゆえに主観的客観、客観的主観なんて言葉が出てくる。

*3:すでに倫理学の以前・以後が語られ、ここでは心理学や哲学の以前・以後が語られ、続いて人間学についても触れる。私はそれらの以前・以後について詳しくないので、眉に唾を付けておく。ただし、それらの以前・以後は本題ではない。

*4:「芸術家的活動」でも「芸術活動」でもなく、「芸術的活動」としたのは、芸術や創作とは無関係に、人は認識という芸術的な仕事を為し得なければならないから。認識のあり方は芸術的でなければならない。

*5:もっとも、脳死というものについて考えるべき「死」が、政治的・経済的なものであれば、それはまた別の「死」のことだ。三木清ははじめからその「死」については触れていないし、そうである以上、その対比として現れる「生」についても触れていない。

*6:この章こそ真っ先に執筆された章であるが。

*7:そのときは永遠にやってこない気がする。

*8:私的な発想であるが、「幸福について」のこのフレーズを読むたびに、幸福のモデルとしてクマのプーさんが思い浮かぶ。「うたえやホー、クマのために!」 可能ならば、偉大なクマのように生きたい。