世界一有名なネズミより世界一賢いクマが好き

 たまにはトンデモ本の紹介でもすんべー。
 あ、タイトルは内容とほとんど関係ありません。ごめんなさい。
 でもプー・ベアーの話ですよ。関係ないのはネズミのほうです。
 

クマのプーさんの哲学
ジョン・T. ウィリアムズ
河出書房新社
売り上げランキング: 98901
おすすめ度の平均: 4.0
5 プーさんの魅力の秘密
3 なんというこじつけ^^
 
 えーと、この本なんですけど――て、え、高っ、え、僕こんなのにこんなにカネ出しちゃってたの?――あ、失礼、取り乱しました。
 
 私が世界一賢いクマのお話を読んだのは社会人になってからのことです。一方、この『クマのプーさんの哲学』は社会人になる前に読みました。プーさん、読んでみたいなあ、きっと面白いだろうなあ、でも子供向けだからハズレの可能性もあるなあ、と考えていた頃にこの本と出会いました。書店の本棚で汚れた一冊が収まっていたのですが、古本屋でも汚れた本を見れば自身の懐の深さを量られているような気がして「なめんな、愛してやんよ」と迷わず購入する私ですから問題なく購入しました(あ、そういえばカネは他人の財布から出て行った気がする。うろ覚え)。*1
 この本はトンデモ本とはいっても、トンデモ強度はさほどでもありません。ネタ系ブログと同程度の強度と思ってもらえれば差し支えないかと思います。(しかしネタ=愛と見れるかどうかは難しいところです。愛なのかなあ、ギリギリw)


 著者の主張は単純明快なのです。プーは頭がいいクマ、哲学的なクマであると言い張り、そのための理屈を唱えます。

プーは「頭の悪いクマ」、いや、正確に言えば頭の悪さを強調するように大文字で「頭の悪いクマ」と呼ばれているじゃないか、という反論が予想される。プーは偉大な哲学者であるというぼくたちの主張にとって、これは一見ゆゆしき反論だ。
 (中略)
 しかし、さいわいなことに、「頭が悪い」と自分で言ってしまった説明は簡単につく。自分のことを「頭の悪いクマ」と呼ぶときのプーは、己を無知の探求者と言い続けたあのソクラテスの伝統を引き継いでいるだけのことだ。

 プーが哲学的なクマであるところは私も同意しますが、同時に大学時代の英語教師(カナダ出身、中年にかかわらず露出度が高い衣服を好む)が「Poohの滑稽な行いを愛らしく受け取るお話」といった一般的(?)解釈を完全否定する著者の立場には同意しかねます。哲学者が完璧な智の体現者でなければならないというのは信仰のようなものであって哲学ではありません。
 プーは本当に頭の悪いクマなのです。そうだというのにプー本人がそのありのままの頭の悪さを自覚できているところに知性や信仰よりもいっそう深い智への愛を感じるのです。ありのままを捉える力こそが哲学者に求められる素養なのですから、プーは確かに哲学者であり、プーが頭の悪いクマであることを認められない著者はクマ評論家として失格です。
 
 ……私の論もどことなくトンデモめいてきました。しかしここは心を強く持って宣言しなければなりません。この私もまた、世界にあまたいるクマ評論家の一人であるということを!*2
 
 (それにしても、この本、読み返してみて分かったがやっぱりネタ本だなぁ……
  ネタが濃密すぎてとっつきにくい。全部引用しなければならなくなる、という意味で)
 さしあたり、第二章の「プーと古代ギリシア」の一節を引用するといたしましょう。

 ある朝、クリストファー・ロビンをたすねて行くみちみち、クマのプーは新しい歌をつくった。一行目は簡単にできた。

 うたえやホー! くまのために!

 それからすこしつまったが、イメージはまたすぐにわいて、複雑な九行の詩はすぐにできあがった。その最後の一行はこうだった。

 一じかんか二じかんかしたら、ちょっとだいじなことをするんだ!

(中略)
 いま、プラトンにかんして一番よく知られていることのひとつは、プラトンの理想国家から詩人が排除されていたということだ。その一番の理由は、詩人がうそを言うからだ(『国家』第二、三巻)。そこで、プーは何をしただろうか? プーは最後の一行が真実ではないと悟ると、すぐにその行をただのハミングに変えてしまった。
 さて、プラトンは『国家』第一〇巻で、「詩も、叙情詩なりそのほかの韻律なりを用いて自己の弁明ができるというのなら、国家にもどしてやろう」と言っている。まさにプーがしたことじゃないか。プーは正しくないとわかったとたんに、そのだめな一行を削除した。いかにもプラトンに否定されそうなものを削除してしまうとは、消極的な弁明だ。しかし、プーは削除したところにハミングを置いた。つまり、このプーの詩は「叙情詩なりそのほかの韻律なり」でちゃんと弁明できるんだというヒントをくれたことになる。

 (やはり全部引用するしかないような……)
 この通りなのです。著者は終始噴飯ものの(失敬!)鋭い読みをしているのです。
 更にこれに続いて展開される内容では荒唐無稽を極めて(失敬!)奇抜な着眼を披露しています。

(前略)ここではわずか十七行の文章の中にすくなくとも七回も「x」が出てくるという驚くべき事実に注目したい。
 「x」というのは英語では一番頻度のすくないアルファベットのひとつだ。なのに、ここではむずかしい計算をしなくても、平均二・四三行に一回「x」が出てくることになる。

 ダメダメです……。
 
 う〜ん、一人のクマ愛好家としてはもやもやとした気持ちにさせられます。もっと素直な言葉で評価できないものでしょうか?
 
 

 私がひいきにしている場面に、プーがハチミツの壺の中身を確かめるところがあります。プーはいつもそうなのですが、身体を張った経験を通じて真実を見つけ出します。

 プーは、家へかえるとすぐ、たべ物おき場へいきました。そして、いすの上にのって、いちばん上のたなから、とても大きいハチミツのつぼをおろしました。つぼの外がわには、「ハチミチ」と書いてありましたが、プーは、それでも、念のためにと思って、ふたの紙をとってながめたところ、それは、ちょうどハチミツのように見えました。「だけど、なんともわかんないぞ。」と、プーはいいました。「いつかもおじさんが、ちょうどこんな色のチーズを見たことがあるとおっしゃったのをおぼえているが。」そこで、プーは、舌をつっこんで、大きくひとつ、ペロリとなめ、「ハチミツだ。まちがいない。つぼの底まで、ハチミツと、まあ、いってもいいな。もちろん、だれかがいたずらして、下のほうへ、チーズいれとかなければだけれど。もうすこし、やってみたほうがいいかな……もしかして……もしかして……ゾゾが、ぼくみたいに、チーズきらいだといけないから……ああ!」
 そして、プーは、ふかいため息をつくと、
「ぼくは、やっぱりまちがってなかった。ハチミツだった、ずっと底まで。」
クマのプーさん』P95-96

 これについて『クマのプーさんの哲学』は壺のラベルと壺の中身から《ことばとそれがあらわすものの関係》がどうだとか《あらゆる哲学者のようにプーも、見た目は人をあざむくということを知っている》とかいった文句をひねり出すのですが、それはいいにしても、サー・カール・ポパーの例の言葉まで引っ張り出してくる始末です。「ある理論の科学性の基準は、反証可能性、または反駁可能性、またはテスト可能性に求めるべきである」
 う〜ん……! ノン、ノン、ノンです、ノンですよ! 一クマ評論家として持つ感想は、もっとシンプルで、もっとダイレクトで、もっと愛に溢れているものなのです、必然的に!
 すなわち、プーが「だけど、なんともわかんないぞ。」といったならクマ評論家は「Yes! そうだ、プー、その通りだ、まだ分からない!」と口に出していってしまっているはずですし、「ぼくは、やっぱりまちがってなかった。ハチミツだった、ずっと底まで」とプーがいったなら、「Yes! キミはスバラシイ!」と、やっぱり口頭で讃辞を述べているはずなのです。
 他の学者の名前なんて頭をよぎりません。なぜなら私たちはプー大先生を前にしているから、他の誰も思い浮かべる必要なんてないのです。
 
 あなたもクマ評論家になりたければ頭を空っぽにして歌わなければなりません。

 うたえやホー! くまのために!

 そしてこれを出だしに、プーの真似をして即興の詩を作れるようになったなら、誰がなんと言おうと立派なクマ愛好家です。
 
 
 
 ……はて?
 ここで締めくくろうとするとなにかおかしい。そうだ、本の紹介をしていたはずがクマ愛好家の条件に話がすり替わってしまっていた。プーに言わせれば「やぁんなっちゃう」事態だ。しかし私の中のプーから名案だ、タイトルを「ブログ主が『クマのプーさんの哲学』を紹介し、ことのついでにクマ愛好家のあり方について語る話」とでも変えてやればそれですむという、さすがだ、偉大なるプー!
 
 しかし一度始めたことは最後までやり通すのが世の中のルールだ。もう少しだけ続けてみよう。(投げ出してはいけないよ、プー)

 原作をあたるとプーがはじめて語られるのは、プーが泥を体中に塗りたくって風船を使って飛翔し、雲のふりをして蜂の巣に近づくお話だ。

「ぼくね、ちょっとかんがえたんです。それでね、とてもたいへんなことに、気がついたんです。こりゃ、ハチがちがってました。」
「ちがってた?」
「まったくちがう種類なんです。だから、ミツだって、きっとちがうミツ、つくるでしょうね?」
 『クマのプーさん』p35

 たいへんプーらしいやりとりです*3。『クマのプーさんの哲学』の著者がこれを逃すはずがありません*4。なんとハイデガーとプーの絡みを語る章でこの場面を引用しているのです。著者はなんと、クマ学的発言として価値のあるこの短い引用部分がハイデガーにあの長い文章を書かせたというのです。その三つの検討を追いかけてみましょう。(傍点は太文字の強調に置き換えますのでご了承下さい)
 

1「ぼく、ずっと考えてたんだ。」これをみるとすぐに思いつくのが、ハイデガーの晩年の著書、『思索とはなにか?』だ。このプーの発言はハチに刺されたときのものだということはもうご承知だろう。これはハイデガーが決定的質問と言う「我々に思索するよう命じるものはなにか?」に対するこたえだ。プーの場合、その答えは簡単だ――ハチにされること。
 ハイデガーが人を思索に導くものは存在に関する問いだと気づいたのは、、まちがいなく、プーのおかげだ。こう言ってもいい。彼を思索へと激したものはなにか? 存在についてのまちがった概念である。プーが文字通り――象徴的でもあるんだが――刺されて悟ったように、ハイデガーは比喩的に刺されてまちがいを悟った。ハイデガーがこの語呂合わせをとらえて、これを広大なる彼の思想の基盤としたことになんの疑いが持てるだろう?

 なんの疑いが持てるだろう……?
 

2「やっと決断したよ」。「決断」はハイデガーの大好きな言葉「決意性」と同類の意味だ。プーは風船で浮上して地面に戻ってくるまでのほんの短い間にこう言ったのだ。これを考えると、いまの説にはいっそう確信が持てる。ハイデガーは、「決意性は(真正な自己を)その世界から切り離しもしなければ、自由に浮遊する『われ』となるように孤立させることもない」と語っている。決然たる決断と、自由に浮遊する「われ」の否定の実演との結びつきを考えると、このことばがプーの「決断したよ」に対するハイデガーのコメントであるということは、疑う余地のない事実となる。

 疑う余地のない事実……だそうです。
 

3「ハチのしゅるいをまちがえたんだ」。ぷーはさらにハチがまちがいということは、はちみつもまちがいということだ、という。これでわかるだろう。プーがまちがえたハチを却下したのは、まちがった存在(ハチ)の概念は、真実や知恵(はちみつ)のかわりにうその哲学を生み出してしまうことになるからだ。これを見抜いたからこそハイデガーは、『存在と時間』というあの大作を書き上げることができたんだ。

 なんとでも言え、もう、知らん(なげやり)

*1:ちなみに今はムーミンを読んでみたいがさすがに波長が合わないんじゃないかと躊躇っているところです。

*2:宣言したもの勝ちですよ、皆さん!

*3:まあ、前編通してプーらしいやりとりの連続なのですが。

*4:前編通して狙われっぱなしです。このクマ言説狙撃者め!