私と哲学――哲学とはなんぞや
大学時代、それは私が哲学に熱を上げていた時代だ。
今となってはその情熱もだいぶ灰になってしまったが、当時の傾倒ぶりには目を見張るものがあった。それが素晴らしいことであるとは安易に言い切れない。今よりももっと大きな自分になれるということをなんの根拠もなく信じていて、哲学に魅入られたのも虚栄心に由来するところが大きかったように思う。哲学の毒の部分に興味をそそられたとでもいえばいいだろうか。もし「若者がニーチェにかぶれることは恕されるべきである」とでもいってもらえれば丁度いい慰めになる。
特に傾倒したのが三木清で、真摯であることを美徳と信じる若い感性に触れて実に多くの恩恵を受けた。はじめは分からなかった彼の著も幾度となく読み返すことで理解を深めていったし、ノートにまとめもした*1。
そのような大学時代によって、哲学について知ったかぶりできるくらいの資産を蓄えていったのだが、当時も現在も哲学について致命的に抜けているところがある。
というのは、つまり、哲学とはなんですか、と尋ねられると窮してしまうところだ。
はじめにその問いを私に投げかけたのは学籍番号の近かった同期の女子だった。ショートヘアとあどけない笑みが可愛かった彼女はいった。
「哲学ってなんなん?」
なんなんでしょう。
当時の私は「現実が歪んだときに生じる学問」と返答した。
まるで通じなかった。そりゃそうだ。
「たとえば普通に暮らしていて、小中高と卒業して大人になっていくじゃん、そして君は社会に出て思いもかけず女性であることに由来する差別を体験する。それまでほとんど気にかけたことがなかったが、社会が男女平等でなかったことに気付き、それに苦しむ。現実が歪んだときというのは、そういった動揺や苦悩のことをいいたいわけで、そのとき人は根元的な問いを立て、その問いに終わりなき闘争を挑む」と、そのような意味で私は現実が歪んだとき云々と返答したのだった。
そのように長く言葉を連ねれば、あるいは通じたかも知れない、と当時の私は反省したのだが、今振り返るに彼女の問いはもっと素朴だった。
すなわち、哲学という学問が本当にどういう学問か分からなかったのだと思う。新種の生物のように対象についての情報が一切なかったので、それはどんな生き物かと尋ねたに等しかったのだ。
二年して、私は同じ問いをまた別の女性に浴びせられた。一年上の先輩は訊いた。
「哲学ってなんなの?」
私は上手く答えられなかった。
「デカルトとか、カントとか……。我考える、ゆえに我あり。そんなふうなもの」
私は悩む。先方も悩む。
「倫理みたいなもの?」
と、先輩はいった。
先輩も私と同じだったのだろう。倫理という科目がよく分からない科目だったに違いない。仏陀とプラトンとアリストテレスとデカルトとルソーとマルクスを同列に並べて暗記させるあの科目は正体不明のモンスターだ*2。
なるほど、哲学の講義で学ぶ人物は高校時代に倫理で学んだ人物と被っている。
「倫理と哲学ってどう違うの?」
ご無体な。難問を。
そもそも、お互いが倫理という科目を分かっていない状態で倫理と哲学の違いなど説けるはずがなかった。
一年して、心理テストによる頑固さの数値が私と同じでマックスだった友人がいった。
「哲学ってなんなん?」
彼は哲学がどういった概念かは、多分、知っていたと思う。それでも私と同じで言語化することはできなかったのだろう。私は彼の期待するような快刀乱麻の解答は用意できなかった。
「いやね、この本によると哲学とは哲学することなんだってさ」
「なんじゃそりゃ(笑)」
しかし答えようがないのは仕方がない。知れば知るほど、哲学とは哲学することなのだと思い知るばかりで、哲学を知らない人にどのように説けばいいのか分からなくなる。
同じ年に、また別の男友達が尋ねてきた。
「哲学ってなんや?」
「問いを立てる学問」
「問いを立てる?」
「無知を認め、対象を知ろうと努める」
「でもそれやったら他の学問もそうやろ?」
そうなんです。
私は何度苦しめられても答えが出せなかった。
「うん、だから、すべての学問はもとは哲学だった」
彼はそれで納得してくれた。私は彼を騙したような気分になった。
彼の連れの男友達が私の哲学のノートを覗き込んだ。
「オレにはわからんわ、これハンタ*3の念能力とちゃうか?」
うん、だいたいあってる。
翌年、私は社会人だった。上司はまた大学に入るのも面白いかもしれないといった。また大学に入るならどの道に進むかと私に訊いた。私は哲学と答えた。
「哲学……て? あんなん、大学で学ばなあかんもんけ? 自分でするもんとちゃうん? 自分で本買うて読んだらえんと違う?」
「専門的な分野は大学でないと学べないです」
「ふうん? 哲学ってなにをやるんや?」
そらきた。
まさかこの会社でこの問いに出くわすとは思ってもみなかった。私はこの問いに勝つべく頭を巡らせた。幸い相手は哲学について無知とはいえ思慮分別ある三十路・独身。サンプルとして申し分ない。
頭をプラトン、アリストテレス、デカルト、カントがよぎる。彼らはてんでバラバラのことをしている。しかし彼らに共通している点はきっとあるはずだ。そうでなければ彼らを哲学者としてくくれない。無論、彼らが真理を探究していたことは最大の共通点だ。しかし真理という語がすでに哲学的意味を帯びていて、「哲学とは真理を探究する学問です」と答えることは「哲学とは哲学することです」と答えることと同義だ。「他の学問と何が違うのか、他の学問も真理を探究しているはず」と返されてしまう恐れもある。
古い哲学から新しい哲学まで共通しているモノ――
「哲学というのは、認識のなんたるかを追求する学問です」
決まった。久々に冴えた解答だ。そう思った。プラトンもデカルトもカントもニーチェもハイデガーもきっと頷いてくれる。
「認識ィ? それは脳とか神経の分野と違うんか?」
私はすぐに敗色が濃くなったことを察した。
「確かに大脳生理学とか、その手の分野が本領かもしれませんが……」
そもそも大脳生理学は科学だ、科学でない側面が哲学の分野だ、しかしそれをどうやって説明すれば分かってもらえる?
大脳生理学に哲学的見地を取り込んだ事例が私の口をついたが、上手く語れなかった。
「やっぱ自分で考えるもんとちゃうん?」
と、上司はいうし、決めつける。
哲学という言葉には単純に二つの意味がある。一つは専門的な哲学、もう一つは人生哲学。上司がいっているのは後者であり、なるほどこれも哲学なのだが、哲学史に名を連ねている人たちよりもむしろ思想家、経済学者、宗教家が取り扱ってきた分野だ。あるいはもっと単純に、人生経験をうまく生かすコツという程度の意味だったり、職人の持つ知恵や美学や考え方であったり。
かくして私は負けっぱなしなのだ。
哲学とはなんなのか?
そんなこと訊かれても困る。
純粋素朴な問いを立てる学問、といって分かる人たちはすでに哲学を知っている人であって、知らぬ人にどう説けばいいか分からない。
久々に大学時代の哲学ノートを開いてみる。
懸命に考えた私は、哲学とはなんぞやの問いに答えるため、哲学を離れ、各々の学問がなにであるか説明できるメソッドを発案していた。学問にはその学問の分野と、分野を探求するための技術の二つがあって、それを明らかにすることで説明できる、とノートにある。なるほど、数学なら分野は「数」であり、技術は「抽象化」、まああながち外れではない。物理学の分野は物理で技術は数学、なるほど、物理学は数学という言語で説かれるから間違いではない。
ノートを読み進めてみる。
《科学とは物(=客観)が分野であり、客観化がその技術である。哲学とは主観が分野であり、主観化(=超越)が技術である。》
うん。
だから、それじゃあ伝わらんのだよ……。
誰か、模範解答、教えて下しあ……。
*1:理系の大学の図書室で文系の本を開いて熱心にノートにまとめ上げるのはどこかずれている気もする。
*2:倫理とは人を幸せにするための学問だと三木清が教えてくれて私がどれほどほっとしたか。
*3:漫画『HUNTER×HUNTER』 富樫、連載再開しろ!