柔らかい土をふんで、を読んで、

 『柔らかい土をふんで、』を読んで、私は去年すでに数回も味わってしまった挫折を今年に入ってまだ一時間というところでまた味わいました。(深い読みができるようになったのに反し、読書への集中力や持続性が失われてしまっていることに早くも老いを感じてしまっているのですが、どうにか読み継いで最後のページをめくったのが新年に入ってすぐだったのです。)
 挫折というのは、この場合、この本は難しすぎてとても読めたものではないと投げ出すことなのですが、最後まで読み通してなお、この本は難しすぎて読めた気がしないと思わせるのですから挫折の中でもとびきりです。
 
 難しいというのは本当ですが、それよりもまず分からないという言葉が先に出てきます。
 文章が難解というよりは私の読解力に難があるためか(ハイ、そのためなんですが)、そもそも語り手がどのような存在か断定できずに読んでいたというていたらくでした。
 語り手は神の視点から語っているのか思えば「私」と出てくるので私小説なのだと考えを改めるのですが、ではその「私」は男なのか女なのか、ぱっとは分からず、いくつにも章立てされているので章ごとに語り手が変わっているかもしれないとも考えさせられ、結局、小説全体の語りのスタイルを断定できずに読み終え、巻末の文章にて男が「私」という一人称を用いて語っていたらしいと知ったばかりです。
 「私」という一人称にて語るのなら私小説ということになるのでしょうか、なるはずでしょう、多分、きっと。しかし私は未だにぴんと来ないでいるのです。私小説といえば「語る私」と「語られる私」のせめぎ合いが妙というか、書いていて困惑させられつつも楽しい核となる要素なのですが、『柔らかい土をふんで、』の登場人物のこの男は――名前が一度も出てこなかった――地の文章のすべての語りを担っているとは、到底思えないのです。
 そもそも金井美恵子の書くような長く複雑な文章は人間が現在進行形で頭に浮かべたり喋ったりして意識的に捉えられる種類のものではないのです、少なくとも話し言葉などでは断じてない。この男にしても物書きというわけでもないので、書き言葉としてもあり得ない。とすると、やはり、男が語っているのではない。ラスト三ページは改行もないし句読点もない(最後の最後だけは句点で終わるが)わけで、正常な人間はそんな不自然な語りをしない。じゃあ誰がするのかといえば、とりあえず、金井美恵子がするんじゃないかな、といえて、どうあっても登場人物の男の語りではない、この男にそんな語彙はない。
 であるからして、私小説というのは違うと思うのですが、誰も本作のことを私小説だなんて見なしていないでしょうから、私一人が騒ぐのはこの辺りでやめておきます。(いえ、あとで何度も騒ぎます……)
 それにしても、視点が男にあったということが今になっても釈然としない私は、一体何を読んでいたのでしょうか、全く別の本を読んででもいたというのでしょうか……。
 
 

柔らかい土をふんで、 (河出文庫)
金井 美恵子
河出書房新社
売り上げランキング: 60660
 

 『柔らかい土をふんで、』は、1997年に単行本が刊行され、2009年に文庫化されました。
 作者の金井美恵子は現代詩、絵画、映画観賞と様々な趣味を持っていて、本を読んでばかりいるだけではよい作品が書けないことを証明するような作家で、『柔らかい土をふんで、』もよい映画を見たからこそ書きたくなり、実際書いてみたというような作品です。
 その内容については、私から多くを語れません。本当に、よく分からなかったからです。実際、よく分からないのです。若い、柔軟な頭であったなら違ったのでしょうが、この固い頭にはやっかいな文章でした。しかしせめてそのやっかいさを説くことで内容を把握できなかった失態を弁明させて下さい。なにせ、ただ「難解であった」と述べたところで、金井美恵子の作品はどれも難解なんですからね。
 
 私たち読者は何よりもまず本の題名を見ますから、作者もこれが真っ先に読まれるテクストであると承知していますし、勘のいい読者であればこの小説の書き出しは「柔らかい土をふんで、」か「柔らかい土をふんで、」の後に続くはずの文章になるだろう(題名が書き出しを先取りした形)と予想するでしょうし、書き出しが実際に「柔らかい土をふんで、そうでなくてももともと柔らかいあしのうらは」と続くのを見て頷き、読点は題名にすでに登場しているというのに句点がはじめて登場するまで六ページもかかる繊細な語りを見て、(金井美恵子のことだから)結びも「柔らかい土をふんで、」になることは十分考え得ることであると考えるし、最後のページでその予想が正しいと知ります。そして書き出しと結びが同じであるところから本書は円環構造をなしているのだろうと考えるし、それまでにも同じ場面が幾度となく語り直されてきたことを振り返りその考えの正しさを確信するのです。
 そうです、本書の特徴は――内容の分からなかった私のような読み手にも確かに分かる特徴は――同じ言葉が繰り返し登場し、飽くことなく反復されるところです。
 
 具体的に引用してみましょう。(引用について:傍点は省きます。太線による強調も同様です。適宜省略します。最後に引用元の頁数を記します。引用はすべて文庫版からのものです。)
 

(前略)白く極く薄い麻のローン地に小さな黄色い花――キンポウゲ、レンギョウ、ヤマブキ、ツワブキミモザ、どれだったろうか――と緑色の葉のプリントの肩と腕と胸の見えるウエストのところでたっぷりギャザーの寄ったサマー・ドレス――(後略)

p12

白く極く薄い麻のローン地に小さな黄色い花――キンポウゲ、レンギョウ、ヤマブキ、マツヨイグサロウバイ、ツワキブ、ミモザエニシダハハコグサタンポポ、オトギリソウ、アキノキリンソウオミナエシ――と緑色の葉のプリントで肩と腕と胸――(後略)

p31

(前略)彼女は白く極く薄い麻のローン地に小さな黄色い花――キンポウゲ、レンギョウ、ヤマブキ、マツヨイグサロウバイツワブキミモザエニシダハハコグサタンポポ、オトギリソウ、キバナクリンソウアキノキリンソウオミナエシ、と彼女は歌うように口誦む――と緑色の葉のプリントで肩と腕と胸――(中略)――がむき出しになってウエストのところでたっぷりギャザーの寄ったサマー・ドレス――(後略)

p83

(前略)白く極く薄い麻のローン地に小さな黄色い花――キンポウゲ、タンポポレンギョウ、ヤマブキ、ツワブキミモザキンモクセイ、ツルバラ、エニシダ、どの花だったのだろう――のプリントの肩に細い三本のストラップ(黄色が二本とその間に緑が一本)のついた、ウエストのところでギャザーがたっぷり寄ったサマー・ドレスを彼女は着ていて、(後略)

p242

 
 反復されている箇所は無数にあるのですが、さしあたって短くて引用しやすく、カタカナが列んで目立ちやすい箇所をざっと列挙してみました。ご覧の通りで、語彙の少なさゆえに同じ表現が用いられているのではなく、同一の場面が何度も語られるからこそ同一の表現が反復されています*1
 この反復の意味は、本書の巻末に収録されているインタビューや手元にある『現代小説の読み方・書かれ方』で金井美恵子がインタビューを受けているパートに目を通し、ネットに散在する短い感想文に軽く触れて回って、かなり掴んでいる感はあるのですが、実際に体験していない感覚を語るわけには参りませんので割愛させて頂きます。
 ただ、誰が何を語っているか分からなくなるのも無理はないという一点を分かってもらえれば私の弁明は成立したも同然です。が、本来この小説はただ感じさえすればよいものだったのかもしれません。なにしろ物語がない*2のですから、ただ読むだけでよかったのです。
 そうです、本書には物語がありません。不倫の仲にある男女の話ではあるのですが、描写という鋭利な刃物に引き裂かれて提示されるからには物語の仔細を追跡することは不可能ですし、そんなことは求められてもいないのです。そして本書は物語どころか時間の秩序も一般の小説とはかけ離れています。というか秩序がないのです。
 巻末のインタビューから引用します。
 

――次に、作中の時間についてうかがいます。序章「柔らかい土をふんで、」の第二節で、まず淡いカバ色の脚をした若い娘が自転車に乗って集合住宅の前を通りかかり、その庭に佇む猫の気を引こうとします。前節ではその集合住宅のフェンスが<灰緑色に塗りかえたばかり>(一二頁)だったのに、本節では〈灰緑色のペンキが剥げおちて〉(一四頁)とあります。この作中時間の飛躍は明らかに意図的ですよね? (中略)時間も記憶も自在に伸縮、前後するのが本作の時間原理であり、単直線的な時間秩序は当てにならないとも思えてくるのですが。
金井:まさしく、その通りです。時間的な整合性がほぼ無意味な時間の中で起きている出来事だから、〈私〉が実際にそういう娘を見たのか、それとも映画の中で見たのか、曖昧なんですね。
 
p263

 
 語り手の時間感覚が信用ならいとあっては本書の内容を説明するのも一苦労というもので、こうしてなんとも歯がゆくて当を得ることのないエントリをお送りしている次第です。
 融通無碍の読書が実践できなければ金井美恵子作品を読むことは難しいのです。
 しかし、俄然、二巡目が楽しみになってきました。
 
 
 
 
 
 
 

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4 前作のような毒はないが

*1:いえ、実は同一の場面ではないのかもしれません。そこは私が一巡目の読書で把握し切れていない点なので眉唾の情報です。

*2:有って無いようなもの