悪態をつくことの痛快さ

 「ドラえも〜ん、なにか面白い本出してよ」
 「しかたないなぁ、のび太くんは。ひ〜び〜の〜あ〜れ〜こ〜れ〜」
 「さすがドラえもん! で、それ、どんな本なの?」
 「見当違いの批評家をコケにしているエッセイだよ。」
 
・前回エントリ(2011-11-06 - 備忘録の集積)に引き続き、『目白雑録』でございます。
・引用が大部分を占め、なにか「本の万引き」をしているようで肝を冷やしています。
・引用部分は特に断りがなければ『目白雑録』からの引用です。また、『目白雑録』内での引用には引用者(金井美恵子)による傍点がふられていることが多々ありますが、ここでは傍点は省かせていただきます。
ドラえもんは一切関係ありません。
 
 

辞書ぐらい引いてくれ

 金井美恵子といえば自他共に認める描写中毒者で、日本の古き文豪たち(もちろん男性作家)であれば一行で済ませるような衣類の描写であっても、金井大先生ならば1ページ使ったとしてもまだ余力半分といったところか。あまりに長い描写は対象を解体してしまい、かえって仔細が分からなくなってしまうものだが、金井美恵子の場合はそれだけに収まらず、様々な布地の用語が並び、ファッションの有名ブランドの知識にさえ疎い中年男性読者などは特にひどいアレルギーを引き起こしてしまうようで、たとえば平岡篤頼*1は以下の通りに語っている。
 
P14

〈むやみと反復される《ジョーゼット》とはどんなものか、《ドロンワークでかがる》とは何をどうすることなのか、《白いピーターパン・カラーでドロップ・ショルダーのブラウス》とはどんなものか、男の読者は知る由もないから降参するが、実はそれも多彩な色の羅列同様、ほぼ機械的に反復されるから記号として処理されているだけだと観念すると、色恋沙汰特有の艶めかしさの完全な欠如と、反対に『秘密の花園』の繰り返し挿入される空想場面の匂うような官能の密度の濃さも、意図的に作者によって対置されたものであることが了解される〉(「文芸時評」「新潮」四月号)

 
 これを受けて金井美恵子は次のように述べている。
 
P14

小説を読む能力というのは、もちろんピンからキリまであるし、その能力の質(カヴァーしている教養の幅や広さ、文学勘、センス、と、いろいろな物が含まれている)までは問わないにしても、最低限に要求されるのは、やはり、小説というものを好きかどうかという一点かもしれない、といった、多少高級なことを私は要求しているわけではなくて、小説を読んで批評を書こうとするからには、せめて辞書を引くくらいの手間を厭わない程度の努力が必要ではないか、といいたいのだ。

 
 よくある文章のコツを指導するライフハック記事ならば、結論ははじめに提示すること、と言いきるものだが、金井美恵子の文章はその逆を行く。
 どこへ辿り着くのか分からず下腹に力を込めさせられた後、最後にストンと落とす、この呼吸、慣れると癖になってきて、読書における肺活量も鍛えられる。
 ここで金井美恵子が言いたいことは最後にあるとおりで「辞書ぐらいひけや」ということ。そして下記の引用へ続く。
 
p16

〈男の読者は知る由もないから降参するが〉と、平岡氏は書くのだが、もちろん、氏にしてもそれがフランス語の小説で、翻訳でもしなければならないとすれば、とりあえず辞書くらいは引くだろうし、もう少しは真面目に読むだろうから〈ほぼ機械的に反復されるから記号として処理されているだけだ〉などと、ちゃちな暗号を解読するかのようにあっさり〈観念する〉だろうか? いや、やっぱりするな。

 あっさり観念するだろうか? と、これはもちろん反語で、「いや、観念しないだろう、なんせプロなのだし」といった意味が省略されるわけだが、それを軽いノリで否定する「いや、やっぱりするな」のバッサリ感が異常に気持ちいい。
 ここから改行して攻撃は更に続くが、その矛先は養老孟司*2に向かう。
 
p16

同じように何種類かの布地の描写のある『柔らかい土をふんで』について、「新潮」で、どういうわけか「文芸時評」を書いていた養老孟司が、そんなことを書かれたって、何がなんだかわからない、と、憤然とした調子で書いていたが、自分のまったく知らない、しかし、たいていの女なら知っている女子供の服飾や手芸についての言葉が出て来る、というだけで一種の拒否反応を起こすのは、もちろん、ある種の男特有の現象だろう。

 
 にしても、金井美恵子の言うとおり、養老孟司文芸時評を書いていたのは《どういうわけ》なんだろう。出てこなければ斬られなかったのに(笑)
 ちなみに『柔らかい土をふんで、』の《何種類かの布地の描写》については過去エントリ(柔らかい土をふんで、を読んで、 - 備忘録の集積*3)で引用しているのでそちらを参照して頂きたい。一般的な感覚で言えば養老孟司側についてしまっておかしくないところだ。無論、作家ないしは文学大好きな読書家であれば金井美恵子の側につかざるをえないのだが、なんというか、金井美恵子が言うならいいのだけど、『柔らかい土をふんで、』の初回の読書で面食らってしまった私が言うとブーメランが頬をかすめるのである。
 
 

私小説とエッセイの区別もつかないのか

 詩人の林浩平*4による、金井美恵子の著作『待つこと、忘れること?』の書評に対して。
 
p138

「エッセイ」として、充分に計算したうえで、楽しく書いた文章について、〈読後感として残るのは、ひとりの女性職業作家の日常を主題とした『私小説』という印象〉だの、〈シンプルこのうえない日々の生活を送っている〉〈そんな『私のところ』の家事を中心とした日常が具体的な細部の叙述として再構成されるとき、そこにはミニマル・アートならぬミニマルな『文学空間』(ブランショ)が出現するのではないだろうか。いやまさにそうして書かれた本書は、リアルな今を生きる『私』の小説的時間を紡ぎ出している〉と、アホっぽく書かれては、いくらなんでも鼻白む。

p138

「書評」には知識をひけらかさなければ、という書き手の批評とは無関係の見栄があらわれると言うべきなのだから、どんな読後感を持とうと、どうぞ御勝手に、というものだが、エッセイに〈私小説〉という印象を持たれたのでは、〈女性職業作家〉の誇りが許せないし、〈小説的時間〉なんかをエッセイの中で〈紡ぎ出し〉たりするもんかっての。なーにが〈ミニマルな『文学空間』〉だっての。〈職業作家〉という、「職業婦人」同様に近頃では眼にすることのあまりない、しかしあえて使われる場合には一種軽蔑の込められている場合の多い言葉を使うからには、詩人としてせめて「エッセイ」と「私小説」の区別くらいつけられる文学的感性を養ってみれば?

 
 読者には本をどのようにでも読んでもよい権利はあるし、読者こそが作品を作り出す、いわば作者と読者の共同作業的な側面が読書にはあるわけだが、であればこそ、作者が存命であるうちは、そうでない場合に比べ、よりいっそう手厳しく駄目出しされもするし、特に作者の矜持に触れてしまった場合、メッタメタに批判されることもある、その一例。
 
 

なーんちゃって! つって! アハッ!

 高橋源一郎(小説家。まあ、あれですね、ゲンちゃんですね。そういう認識)も二月十六日の朝日新聞書評欄を引き合いに、バッサリやられちゃっている一人である。
 
p148

〈あの、『芸術』って、わかりますか? わたしはね、はっきりいいますが、よくわかりません! なので、『芸術』ではなく『ゲージュツ』と表記することにします〉と、自ら想定して限定した読者に向かって媚びもあらわに書きはじめる。ピカソと「ビジュツ」大学の学生の絵を並べられても「ふつう」なかなか区別がつかない、と、極く陳腐で空想的とさえいえる「ふつう」のレベルを示すことで、さらに高橋は読者を想定しつつ限定し、〈なのに、ピカソさんの絵が『ゲージュツ』で、学生の絵が『ゲージュツ』一歩手前だから、なんですって〉と、わざとらしさにむずむずするような調子で驚いてみせる、プロっぽい万引き常習者の手口を使い、〈この二枚の『ゲージュツ』度の差はどうやって測ればいいのでしょうか?/おそらく何百年(何千年?)にもわたって、『ゲージュツ』関係者ではない大多数の人たちの旨にわだかまっていたこの問題をはじめて徹底的に考えたのが、この本の主人公マルセル・デュシャンでした〉と、無邪気を装って(?)説明する。

p149

〈だったら、そんなもの、値段つくわけないですよね〉と、なりふりかまわない無邪気さで書く。

 
 上記引用部で腹がよじれるぐらいに笑わされた。もう高橋源一郎の語尾が二次元萌えアニメの女子高生を上回るくどくてわざとらしいぶりっこにしか読めなくなってしまった。「あ、あのぅ〜、『芸術』ってぇ〜、わかりますかあ〜? わたしはね〜、はっきりいいますがぁ〜、よくわかりません! ぷりっ☆ ピカソさんの絵がぁ〜、ゲージツ? でぇ、学生さんの絵がぁ、ゲージツ?一歩手前だから、なんですって! きゃっ☆ だったらぁ、そんなものぅ、値段、つくわけぇ、ない、ですよねっ! てへっ☆」である。
 
 

批評するなら、せめて読んでからにしてくれ

 渡辺直己*5が斬られてないかな〜、と期待(失礼!)しながら読んでいたのですが、どこかで一度斬られていた気がするものの、読後、特にバッサリとやられていた記憶はない。まあ、他の書籍でバッサリやられてしまっているので、同情してしまわないでもないのだが。それはそうと、スガ秀美*6である。斬られてましたね、バッサリと!
 
p262

 本誌に小倉氏が連載していた『結婚の条件』を愛読していたという知人や友人(女性に限らず)と同じに私も姉も、いったいスガ秀美が小倉千加子と何を「トーク」するのだろうと思ってジュンク堂に席を予約したのだった。トーク・ショーをするからにはお相手の上梓したばかりの本を読むというのは不要不急の反対、というより、読んでいるからこそ引き受けたことなのだとばかり思っていたのだが、スガが『結婚の条件』を読んでいないことは彼の発言からみえみえであきれたからだった。批評家が本を読まない(読めない)、ということに驚いたりあきれたりは、かれこれ三十年以上、文芸ジャーナリズムの中で仕事をしてきて、今さらしないけど、腹は立つ。読んでも読めないのも、読んだふりをして読まないのも、結果的には「批評」としてまるで駄目

 
 批評するなら、せめて読んでからにしてくれ、と呆れかえってしまうのは、まだまだ初級者というか、若いもののすることで、金井美恵子ほどにもなると《かれこれ三十年以上、文芸ジャーナリズムの中で仕事をしてきて、今さら》呆れたりはしないが、やっぱり、《腹は立つ》のだ。
 そりゃそーだ。いってやれ、いってやれ、である。
 
 

ブーメラン怖い

 とまあ、金井美恵子の罵倒術に惚れ惚れとさせられる本著であるが、金井美恵子の陰から援護射撃をしようものなら、言葉は即座にブーメランとなって発言者のもとへ返ってくるのである。私も何本か背中に刺さっている気がするのだが、そこは持ち前の鈍感さで見て見ぬふりである。
 
 ところで、本著をすでに読んだことのある人ならば、島田雅彦がバッサリやられているところは引用しないのか、と首をかしげた方もいるかもしれない。が、それは他のエントリで独立して立ち上げるつもりがあるので、今回は控えておいた。というのも、もちろん、島田が『嵐が丘』を読み違えていたことに腹を立てたからなのだが、それはまた別の機会に存分に筆を振るうつもりである。
 

*1:日本のフランス文学者。私にとっては、クロード・シモンの『フランドルへの道』を訳した人、という認識。彼が実際にファッションブランドに疎いかどうかは不明

*2:ええと、この人は、バカの壁』がウケていたが、本来の専門は脳科学か解剖学だったハズ、武術系の本も出していたハズ……という認識

*3:過去エントリを読み直してみたが、今となってはずいぶん見当違いなことを書いているな、と失笑を禁じ得ない。

*4:う〜ん、誰?

*5:批評家。上から目線だが、良心的っちゃ良心的

*6:糸偏に圭と書いてスガと読むのだが文字が出ない。下記の引用部も漢字一字ではなく「スガ」で表記しています