この季節には必ず
はじめに
雪の降る季節になると、雪が降らずとも、忠臣蔵を思い出します。
といっても、私は忠臣蔵をよく知らないのですが。
私の知っている忠臣蔵の知識はすべてドラマ由来です。あれは2004年の冬でした。松平健が大石内蔵助を演じていました。
当時、大学生だった私は祖父母の家に下宿していたため、しばしば時代劇を視聴したものです。正午から放映されていた大江戸捜査網は祖父が必ず見ていたため、お約束の文句を覚えてしまいましたし、今も覚えています。
隠密同心 心得の条
我が命我が物と思わず
武門の儀、あくまで陰にて
己の器量伏し、ご下命いかにても果すべし
なお 死して屍拾う者なし
死して屍拾う者なし
死して屍拾う者なし
アニメを子供だましと断じる祖父に対し私は、それならば時代劇は年寄りだましだと考えていましたが、忠臣蔵に関しては毎週楽しみにしていました。(ただ、実験の講義がある曜日と重なっていたため帰宅が遅れ、どうしても間に合わない日ができてしまうので実家へ録画予約の指示を出し、たまに実家に帰ったときに追って見るようにしていました。録画に失敗したと報告を受けたときは非常に落胆したものです。)
一体何が私の心を惹いたのか、恥ずかしながら(本当に、恥ずかしいほど)言葉にできません。
得体の知れない大きな力に揺さぶられるような心地がするのです。
あらすじ
あらすじについては、「忠臣蔵 あらすじ」でググって最初に出てきたページから引用します。
元禄14年3月14日江戸城中「松の廊下」において刃傷沙汰がありました。折しも京都からの勅使饗応の儀式の最中、接待担当の大名で播州赤穂(兵庫県)五万三千石の殿様、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、なんと儀式儀礼を教える先生役の吉良上野介(きらこうずけのすけ)に切りつけたのです。
――http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA001/S001-2.html
あさのたくみのかみ、と打ってスペースキーを押すと一発変換で出てきますね、浅野内匠頭。この大名が目上の吉良上野介に陰湿なイジメを受けてキレ、斬りかかったのです。「ここで殺ってしまわんからアカンのや。もう少しやったのに」とうちのじいさんは言っていました。そうです、吉良には傷を負わせただけで殺すには至らなかったのです。もちろん浅野内匠頭は切腹を命じられる定めでした。
幸か不幸か、吉良上野介は死ぬほどの大事には至らなかったのですが、浅野内匠頭は即日切腹、吉良上野介はお咎めなし。喧嘩両成敗の鉄則に反したばかりに、これから1年9ヶ月にかけて一大ドラマが展開することになるのです。
――http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA001/S001-2.html
イジメをやっていた吉良にはお咎めなし。これでは家臣も黙っちゃおれぬ。というわけで家老である大石内蔵助を筆頭に仇討ちを誓う。
これが忠臣蔵の冒頭です。
さて、仇討ちすると誓ったはいいものの、怨敵 吉良は当然ながら仇討ちの流れを警戒しているはず。そこで赤穂*1の侍達は募る憎しみに蓋をして吉良の警戒が解けるのを待ちます。世間の風潮はといえば、主君がやられっぱなし、これで仇討ちしなかったら侍の名折れだろう、と仇討ちの日を今か今かと待つ始末。世間にしてからこれですから、吉良が警戒しているのもむべなるかなというところです。
一向に仇討ちをする気配のない赤穂の侍達に世間は失望し、なにが赤穂(あこう)の侍か、むしろアホウ侍だと腰抜け扱いするようになります。
名エピソードその1
さて、腰抜けのアホウ侍と汚名が定着したものの、それくらいではまだ生温い。大石内蔵助は遊郭三昧を極め、徹底的に腑抜けぶりをアピールします。遊び疲れ、酒に酔って、茶屋の長椅子で居眠りを始めます。町人は呆れかえります。
そこへやってきたのが村上喜剣であります。彼は大石内蔵助が腑抜けを演じているだけで、腹の底では仇討ちするその日のことを考えているに違いないと断じます。
武士の魂である刀を見ればすべて明らかになる。そのように考えた村上喜剣は大刀を抜きますが、それがすっかり錆びついていたので町人達は大笑い。しかし村上喜剣は感動します。
「いゃっ実に素晴らしい!」
大刀は上様に譬えるもの。浅野内匠頭が切腹し、お家が没落したその屈辱を忘れまいと大刀を錆びつかせているのだというのです。
となれば、浅野内匠頭に仕えていた大石内蔵助の真意は小刀にこそあるというわけです。脇差しを改めないわけには参りません。しかしなかなか抜けぬ脇差し。苦労して抜いてみれば、こちらの錆びようもまたひどい。ああこれはひどい。
「大小共に錆びつかせるとは何事か!」
村上喜剣は情けない、ああ情けないと嘆いて去ってゆきます。
彼のように、同じ侍としてお前の真意なら分かっているんだ、と同情してくれるものまで欺く大石内蔵助の徹底ぶりがあったからこそ吉良も警戒を解くのでした。
名エピソードその2
この我慢の時期に何人かの同志は去ってしまいました*2。
しかし裏を返せば残ったものこそ真に仇討ちをする資格のある同志たちというわけです。一行はいよいよ吉良の元へ移動を開始します。が、もちろん正体は伏せての旅路となります。この旅路の最中に思いもよらぬ窮地が訪れます。
一行の泊まっていた宿に日野家の要人、垣見五郎兵衛(かきみごろべえ)が訪れます。彼は宿に掲げられた旗を見、顔をしかめます。そこにあった名は紛れもなく彼の名前だったのです。我が名をかたる不届きものめ、と彼は大石内蔵助と宿の一室で二人きりにて相対します。
ところが大石内蔵助は自分こそが垣見五郎兵衛であると言い張ります。
「突然我が名をかたって当方を偽物扱いするからには何か仔細があろう。そのわけを承りましょう」
「しからば尋ねる! まこと汝が垣見五郎兵衛ならば日野家の道中手形を持っているはず」
さァ、さァ、大変なことになりました。偽物である内蔵助、道中手形など持っているはずもありません。しかしそこは動じた気配も見せず、本物の垣見五郎兵衛へとものを差し出します。布に包まれたそれを開き、垣見五郎兵衛は白紙の紙切れを目にし、勝ち誇ってそれを内蔵助へ突きつけるのですが――そんな彼の目が剥ぎ捨てた布きれにある家紋に気付き、絶句します。そこから次の台詞、「よおく分かり申した」までの沈黙が彼の脳裏を駆け抜けた思考を多弁に語るのです。
(おや、あの家紋はなんぞ?)
(ややっ、これは間違いなく浅野家の家紋ではないか!)
(ということはこの偽物、浅野家ゆかりのもの……)
(ああ、なんということであろう! そうなのだ、そういうことなのだ!)
(こやつは今まさに仇討ちのために動き出しておるのだ!)
(仇討ちなどできぬ腰抜け侍だと世間は吹聴しているが、そうではなかったのだ!)
(よくぞ今まで我慢し通せたもの……っ!)
(心中察する! 察してあまりある!)
(主君への忠誠心! 同じ侍としてこれに応じぬいわれはない……っ!)
「よおく分かり申した」
そして内蔵助は本物を演じ、偽物を慮る言葉として、その実彼の本心であるところを述べるのです。他人の名前をかたるなんてよほどの事情があったのだろう、と。そう、そうなんです、よっぽどの事情があるんです、仇討ちという大きな事情があるのです、どうか、どうか平に、平に、おゆるしくださりますように……! と私はテレビの前で代弁しました*3。
「武士は相身互い落ちぶれてこそ人の情けが身に染みてありがたいもの」
これを受けて垣見五郎兵衛は本物の通行手形を内蔵助に手渡します。仇討ちの事実を内密にし、名をかたったことをゆるし、そのうえ旅に欠かせない道中手形まで施す。なんと情け深い人でしょう。頭が上がりません。そういうわけで私はこのあと深々と頭を下げる大石内蔵助にならうまでもなく土下座していたのです*4。
この一連のメタなやりとりは胸にずしんと来ます。このシーンに関してはこちらのページで動画が見られます。ただし私が視聴したのは2004年に放映されたドラマであり、紹介する動画は1958年の大映版です。
忠臣蔵の名場面、大石内蔵助と垣見五郎兵衛との相対の場の結末は?: Jun's my Taste
大映版では通行手形を差し出された内蔵助がついつい「垣見殿」と口走ってしまって隠喩法が一瞬崩れてます。垣見五郎兵衛は今はあんたなんだよ(笑)
名エピソードその3
いよいよ仇討ちの日がやってきますと、ドラマは仇討ちに参加できずに終わる赤穂浪士に焦点を当てます。その内の一人、毛利小平太のエピソード。
毛利小平太は病に冒されていて、仇討ちの当日、ついに吐血し、雪の降る路上で倒れてしまいます。近所のものが駆けつけ、死期が近いことを察しますが、彼に身内がいるかどうか誰も知りません。彼を励まし、医者を呼ぶさなか、彼は苦痛に喘ぎながらいいます。
「伝えてくれ……毛利小平太は臆病風を吹かせたのではない……、病のために行けぬのだ……! 行きたくても行けぬのだ……!」
誰に伝えればいいんだい、と町人は尋ねます。
「それは言えん……、言えんのだ……」
討ち入りする計画を漏らすわけには参りません。
赤穂のアホウ侍、腑抜け侍と罵られても堪えてきたのは仕えた主君の仇を討つこの日のため。侍としての忠義を果たすため。あるいは忠義そのものよりも忠義という言葉で繋がった仲間がいたからこそ堪えられたのやもしれません。その仲間に、直前で脱盟した臆病者、と見下げられることのやるせなさは他人から腑抜け侍と罵られることの比ではないのです。
毛利小平太は臆病風を吹かせたのではない、行きたくても行けぬのだ!
誰に伝えればいいんだい?
それは言えん……、言えんのだ……!
私がこの言葉を胸で反芻する内にカメラは下がっていきます。降り注ぐ雪とは逆に。
なんと口惜しいこと! 俺が代わりに伝えてやるようっ*5。
名エピソードその4
仇討ちのため吉良邸へ向かう大石内蔵助。彼は討ち入り直前、瑤泉院*6のもとへ最期の挨拶に訪れる。
「して、この大雪をとしての訪れは――?」
と問われるも、内蔵助は仇討ちの計画を秘めて口に出さない。
それどころか他家へ仕官するという。
これ聞いて瑤泉院は激怒する。
内蔵助は焼香をさせてもらうこともできず、仕方なく布に包んだ巻物を差し出す。
「この一巻は道中にて読みましたる歌集にござりまする。御霊前にご披露して頂きたい」
その夜、闇を忍んで浅野内匠頭の霊前へ近づく影があった。このくせ者(瑤泉院の身の回りの世話役)は即刻取り押さえられたが、舌を噛んで自害した。盗もうとしたものは内蔵助が置いていった巻物であった。これがために巻物は歌集ではなく仇討ちの連判状であることが判明する。
「定めて先ほどは女間者の目を悟り、お心にもないことを……」
瑤泉院は内蔵助の真意を察し、冷たく罵ったことを後悔する。
こういうのは堪りませんね! 毛利小平太のエピソードと同じで!
言いたいのに、言えない、もどかしい気持ち!*7
そして余談へ
以上が、私が今でも時折見返しては感じ入っているエピソードです。
これらを紹介するにあたって忠臣蔵について少しばかり調べたところ、私の注目したエピソードについての記述も多く見られました。以下、ウィキペディアより引用。
村上喜剣
薩摩の剣客村上喜剣は、京都の一力茶屋で放蕩を尽くす大石内蔵助をみつけると、「亡君の恨みも晴らさず、この腰抜け、恥じ知らず、犬侍」と罵倒の限りを尽くし、最後に大石の顔につばを吐きかけて去っていった。しかしその後、大石が吉良上野介を討ったことを知ると村上は無礼な態度を取ったことを恥じて大石が眠る泉岳寺で切腹した。大高源五の墓の隣にある「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓はこの村上喜剣のものであるといわれる。
――赤穂事件 - Wikipediaの「逸話や伝承の類」の項目
ドラマと違って出逢ったはなっから信じてない様子で。
南部坂雪の別れ [編集]
討ち入り直前、大石内蔵助は南部坂の浅野長矩正室瑤泉院のところへ最期のあいさつへ向かう。しかし吉良か上杉の間者が聞き耳を立てていたので口頭で討ち入りのことを伝えることはできず、その場では「他家に仕官するので最後に殿にご焼香させてください」と述べた。瑤泉院はそれに激高し「不忠臣の焼香など殿は望まない。失せよ」と大石をののしって追い払う。大石はこっそりと討ち入りに加わる者たちの名前を連ねた書状を置いて立ち去るより他になかった。そして邸外から瑤泉院の方へ向けて土下座して不敬を詫びたというもの。 物語によっては、その後間者が連判状を盗もうとして発覚、瑤泉院が内蔵助の真意に気づき彼を罵った事を後悔するという場面がある場合も。
――赤穂事件 - Wikipediaの「逸話や伝承の類」の項目
にしても内蔵助、どうやって間者の存在を察したんだろう。
その後、小平太は脱盟する旨の書状(12月11日付けとなっている)を残してどこかへ消えてしまうのだが、討ち入り口上書のなかには毛利小平太の名があるものが残っている。一方12月12日に逃亡した矢野伊助や瀬尾孫左衛門の名は書かれていないことから、大石内蔵助らが小平太脱盟を知ったのは討ち入り直前だったと見られている。そのため小平太を「最後の脱盟者」と呼ぶことが多い。小平太の脱盟を受けて急遽、三村次郎左衛門が表門隊から裏門隊へ編成替えされている。
有名な説に小平太の兄が大垣新田藩主戸田淡路守氏成(大垣藩主戸田采女正氏定の弟)に仕えていてその兄に説得されて脱盟したというものが残っている。
毛利小平太 - Wikipedia
ちょっと待て。
涙を返せ。(泣いてないけど)
むすび
最終回で赤穂浪士は吉良邸に討ち入ります。ここからはチャンチャンバラバラです。あの大人数で屋敷内を駆け回り斬り結ぶ。殺陣のことは詳しくありませんが見応えがあります。
吉良は浅野内匠頭が自傷するために使った刃で自傷するよう促されますが、往生際の悪さは小悪党の手本のごとくで、内蔵助の手で命を絶たれることとなりました。
ああ、感動。
2004年の年末、私はその感動を引きずり、実家へ帰ったのです。
そして大晦日、事件は起きました。
あのころはまだ家族と一緒に紅白歌合戦を見る習慣があったのです。私はこたつに埋もれるようにして年越しソバのことを考えていました。テレビからは軽快なテンポのリズムが流れていました。ふっと集中するときんきらきんの衣装を着た松平健の姿がありました。
脳みそフリーズ。
私「こ……こはなんぞ?」
弟「マツケンにござりまする」
テレビを見る習慣が失われていた私はマツケンサンバの存在をこの年がまさに終わりを告げるその日まで知らなかったのである。
私「はやっとんのけ?」
弟「ずっと前から」
マツケン「サンバ ビバ サンバ マツケンサンバ」
こうして私は、いつの時代よりも活き活きと歌って踊る松平健に内蔵助のイメージを餅さながらの柔らかい何かに置き換えられたのでした。