サボテンの花

 中学三年生の修学旅行は北海道だった。綺麗なガラス細工の小物を売っている店でミスチルの曲がオルゴールで収録されているCDとサボテンのガラス細工を買った。前者は千円だったが後者の値段は覚えていない。
 小さなサボテンの置物はコーヒーキャンディのような光沢の土台からなる。真夏の田舎で、もういいよ、もう食べられないから、といくら拒絶しても信じてくれない祖母が切って差し出すスイカの皮を思い出させる緑の濃淡がこのガラス細工にもある。均一の力で左右に引き延ばしたパラフィルムの上にマイクロピペットにより滴下され表面張力で小さく美しい雫を形成するブルージュースゲルローディングバッファーと同じ暗く青い粒がサボテンのいぼを表現している。そして燃ゆる炎を凍り付かせてできた赤い花が一つ咲いていた。それがこの一ヶ月のいつとも知れぬいつかに折れていたのである。
 この小さくて可愛い置物の不具をいうなら、そもそも植木鉢を表現した土台とそこに載るサボテンの接着が甘く、一年としないうちに外れてしまっていたのだが、そういった不備に頓着する性格でもなかったので、胴の上にただ首を置かれただけの状態で置物は十年も置物としての役割を全うしていた。雨の日も風の日も――室内に置かれているので天候は関係ないが、掃除を怠りがちな机の上で埃の雪を被った日も、サボテンはパソコンの前に佇んでいた。
 少なからず思い出が詰まっていたのだと思う。普段全く意識しないが、カラス細工の温もりが好きだったからということもある。私はなんとなく、あってもなくてもどちらでもいいようなこれを私的な空間に添えてきた。しかし、このたび花がもげているのを見て、途端に、これはもう捨てようと思った。この破損は美観を著しく損なっていたし、行動に一貫性を持たせようという人間の心理ゆえか外れた花の欠片のみを捨てることが妙に納得できずどうせならまるごと処分せよと何ものかが命じてもいたが、それとは別に、このように囁く声が、囁きのくせに、はっきりと聞こえたのだ、これを捨てるには今を置いて他にないぞ、と。
 思い出の品だからといって、重いものではまったくない。いつでもゴミ箱へ放り込んでしまって構わないものである。捨てる機会をうかがっていたわけでもない。ところが象徴的な部分の欠けた様を見るやいなや私は、今が絶好の機会だと確かに思ったのだ。それは、多分、実際、正しい。特別といえるほどの理由もなくガラス細工は私の前に十年もいたのだ。ここで捨てなければあと何年居座るだろうか。そのように区切りなく置いていてもよいものか、それならばいっそ、今捨ててしまうべきではないか、ああ、こいつにはあれこれこういう思い出があったなと振り返りながら捨ててしまうのが美しいだろうから。
 ここで、美しいか否かを選択基準とすることの残酷さを思って自己嫌悪するとしたら、それほど感傷的なものの考え方も滅多にないと思うが、それを避けようとして導かれた考え方も多分に感傷的であった。こいつが壊れたのは時期が来たからなんだよ、もの自身がお暇乞いをしているんだ、丁度十年、丁度年末、これほどきりのよい日はまたとない。――結局、美的さから逃げ切れてはいないのだが、要するに、つくも神*1からの啓示だなどと無神論者が無神論者のままあざとく呟くのだった。
 

 
 さァ、ながながとくだをまいたが、要するに大掃除の日だから捨てましょうってことで。今捨てなかったら本当にもう十年居座るかもしれないし。だから接着剤で修復なんてノノノンですよ。
 思い出なんて、血肉になってこそ。
 それでは皆様、よいお年を。
 
 
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 ――というエントリを書いたままにして掲載していなかったことを思い出し、年を越した今になってから掲載している所存でございます。なんと間の悪いやつ。しかもまだ捨ててもいないというていたらく。今から捨ててきます。今度こそ、さようなら!