近代リアリズムの崩壊について
中村光夫『風俗小説論』エントリ第4回。
プロレタリア文学と新感覚派文学
P115
「新感覚派文学もマルクス主義文学も、共に自然主義以来の素朴実在論的なリアリズム文学に対抗して立ったことにおいて共通していた。一は技法上の文学革命を中心に、他は世界観上の革命文学を目指しつつ、既成の文学伝統を打破戦とする前衛的な文学運動であることにおいて、それは軌を一にしていた。……それはともに日常的な実生活に密着する自然発生的な文学伝統に反逆する、観念性の強い目的意識的な実験文学といってよかろう」(新感覚派文学とその周辺)と平野謙はこの二つのそれぞれ流産に終わった文学運動の意義を要約していますが、これは妥当な見解と思われます。
私小説リアリズムを抹殺するべく立ち上がった二つの文学運動は、自然主義文学を打破しきれませんでした。では、それぞれどのような運動であったのでしょうか。
P119
新感覚派の作家たちは、日常生活の事実性をそのまま作品の現実性の保証とした私小説リアリズムの否定の上に、言語表現の独立性を強調し、言葉の魔術による作家の心情の造型を希い、マルクス主義文学は、作家が直接に演戯と観察を兼ねざるを得ない私小説の性格から必然に結果する社会性の欠如を衝いて、思想による文学の社会性の恢復を、時代の急務として提示しました。
しかし恢復しきれなかった。文学運動自体は盛んだったが、結果がまるで残っていない。
新感覚派の主張は《言語表現の独立性》とあります。これは私小説側の「事実を書いているのだからリアリティがあって当然」とする主張へのカウンターです。小説とは虚構であり、虚構であるからこそリアリティを持たせるための技術が必要であり、その技術は描かれる対象が虚構であるということに意識的であって初めて培われるものです。
一方、プロレタリア文学は《私小説の性格から必然に結果する社会性の欠如を衝い》たとあります。内的告白に終始し、他者の客観的・批判的視点が一切なく、なにかしらの社会的問題を解決する意識がまったく見られない。それが私小説だったのです。
ところが両者の主張は、本来的には合わせて一つのもの、不可分なものです。新感覚派の主張する《言語表現の独立性》はエンジン、プロレタリア文学の主張する社会性・思想性はエンジンを回すための燃料といったところでしょう。そのように、分かたれるべきでないものが二つに分かれていたのであっては、私小説の欠陥が見えていてもこれを打破するには至らなかったのも当然のことです。というより、この二つはそれぞれで己の欠点が見えていなかったらしく、無邪気さ(ロマンチック)では自然主義と似たり寄ったりだったようです。
文学の大衆化
自然主義作家がどのように無邪気(ロマンチスト)であったかといえば、私小説道とでもいうべき求道の道を邁進してさえいれば報われる/報われたと信じていたことでしょう。
p128
「小説論とは当時の純粋小説論だった」と小林秀雄が云っていますが、この「純粋」な芸術の理想が信じられたとき、「文学」がどのような苦痛や困窮を作家に強いようと、彼らは少なくも殉教者の誇りと幸福だけは失うことはなかったので、また文壇とそれを囲む、少数の、しかし熱心な読者はこのような芸術の使徒には拍手と尊敬を惜しまなかったのです。
なんというナルシシズム。なんと内輪的だこと。
しかも私小説の黄金時代ともなれば、次のような発言まで飛び出す始末。
P117
「『アンナ・カレーニナ』も通俗小説だ」という秋声の有名な言葉は、このような私小説黄金時代の作家の自負を端的に述べたものであり、「バルザックの『人間喜劇』も結局作り物であり、彼が自分の製作生活の苦しさを洩した、片言隻語ほどにも信用がおけない」といった久米正雄も、同じ時代の文学精神を代弁しているのです。
誇大妄想ここに極まれり。自惚れが過ぎるというものでしょう。
ところが、私小説の道もやがては閉塞感が漂ってくると、無邪気ではいられなくなります。
p129
当時いわゆる「純文学」と「大衆文学」の対立がさまざまに議論されましたが、このような対立がたえず「純文学」の作家の意識に上ったのは、実を云えば彼等が「大衆文学」に対して守るべき、「純粋」な文学の理想など何もないことを暗々裡に感ぜざるを得なかったところから来ているので、「自然」の求道者たる自負から、「通俗」な読者を尻目にかけた花袋のロマンチックな意気込みはすでに遠い昔の夢であったのです。
このような空気の中、「純文学の神様」と見なされていた横光利一は、「純粋小説論」を発表し、純文学にして通俗小説の形式を取る以外に文芸復興はあり得ないと云います。
p131
彼がここで屈曲の多い思考と文体で、やや廻りくどく説いているところは、結局「作者が、おのれひとり物事を考えていると思って生活している小説である日本の純文学」すなわち私小説の否定と、「純文学よりも一層高級な、純粋小説の範とも云わるべき」「罪と罰」や「悪霊」などに「多分に含まれている通俗小説の二大要素である偶然と感傷性とを」積極的に取り入れる必要とであり、作家の文学論としても、恐らく花袋のそれよりずっと曖昧で隙だらけな議論であったのですが、ともかく一応技術論としての具体性を持ち、また何より「神様」の御信託であっただけに、影響するところは大きかったのです。
横光利一は上引用にあるとおり《偶然と感傷性》に重きを置き、従来の私小説技法(感性的リアリズムの技法)を彼なりに掘り下げていったようです。しかし彼もまた目指したその地へ辿り着くことができませんでした。
p135
しかし彼が主としてジイドやヴァレリーの影響から、ドストエフスキー、トルストイ、スタンダールなど十九世紀小説の傑作を、私小説の偏見を捨てた新たな眼で見直そうとして、「これらの作品に、一般妥当とされる理智の批判に耐えてきた思想性と、それに適当したリアリティがある」点に一応着目しながら、その思想が作者のうちにいかに生き、作品をいかに生かしているかの問題を充分掘り下げようとせず、その「リアリティ」をたんに、「偶然性と感傷性の持つリアリティ」という風に小説技術の問題に解消してしまったのは、彼の小説俗化論の性格と限界をはっきり示しているので、思想が思想たる「リアリティ」を持つゆえんの一般性を作者の感性と個我に溶かし込もうとする私小説伝来の方法は、ここでも口先で私小説を否定する彼の頭脳を強く支配していたのです。
私小説の限界を打破するべく、私小説の偏見を捨てたつもりの横光利一でしたが、西欧の名作が持つリアリティの根源を表面的な小説技法としてしか読み解けず、思想こそがその真の答えなのだと見抜けませんでした。
私小説技法には《あらかじめ解決されぬ思想の「問題」を小説のなかに「人間」として生かす》手法がぽっかりと欠けているのです。
そもそも、ご都合主義や勧善懲悪の展開を嫌って登場したのが写実主義→自然主義の路線だったのですから、ここで安易に「偶然性」を頼ってしまってはご都合主義の再来となり、時代を逆行していることになります。
丹羽文雄
戦後は鎌倉アカデミアで教鞭を執る。1949年より明治大学教授。同年丹羽文雄とリアリズムをめぐって論争し、1950年近代日本文学批判である『風俗小説論』を上梓する。
Wikipedia に書かれている通りだとすれば、『風俗小説論』は丹羽文雄批判を最新・最終の目標として書かれたようです。実際、本書の最後(P141からP158にかけて)は丹羽文雄について語ることで終わっています。
ところが、私はこのパートが理解できなかったので、どうにも解説のしようがありません。引用だけ並べて、またの機会に再度見てみたいと思います。
P141
私小説作家とはいいながら、彼のリアリズムがすでに出発の当初から、可成りの程度に「風化」していたことで、彼が私小説の理想が全く解体を終わった後から私小説の技術だけを身につけて出発したということが大切なのです。
私小説隆盛の時代も過ぎた頃に登場した作家が丹羽文雄です。
p142
この二つはいずれも作者自身らしい青年と生母または愛人とのもつれを書いたもので、この点では明らかに私小説に属する作品ですが、それが一時代前の私小説と比べて著しく違うところは、その主人公が作者自身ではなく、明らかにその生母だという点です。作者自身である青年はいつも脇役の位置しか占めず、舞台の正面に立って、読者の注意を独占するのはその母親や愛人なのです。
私小説の手法で他人を書く。興味深いことをいっています。どういうことになるのでしょうか?
P149
彼の現実「解釈」とは、文学という観念に支えられた感受性の自動運動であり、その「客観性」を支える無私の空白のなかに「人間」が棲んでいれば、むしろ邪魔になる性質のものだったのです。
p153
それはたとえ「事実」をそのまま写した場合にも、ただ外面の或る限られた姿態を再現するだけで、その人物の内面の生き方には触れられません。ましてそれが「虚構」になれば、作者が感性だけに頼って生きた人間を表現できるはずは、今述べたような理由からあり得ないので、そこではせいぜい動物が描けるだけです。
風俗描写(時代が過ぎれば色褪せてしまう)が上手くとも、人間の内面を描き得ない作家であるとして、中村光夫は丹羽文雄を批判しています。
以上です。
最後の最後で表面的にしか読み解けませんでしたが、ご愛読有り難うございました。