20分執筆活動

http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090926/1253895012



 二十分で何が書けるか分からないが、とりあえずキッチンタイマーをセットして、はいスタート。ていうかもうスタートしていますね。このキッチンタイマーはそもそも二度寝用に購入したものなんですよ。目覚ましが鳴るとすぐに起きられるんですが、なにぶん疲れが溜まっていて二度寝したくて仕方がない。そういうとき目覚ましというのは細かい時間に再設定するには不向きでしょう、それに面倒くさい。そこでキッチンタイマーですよ、アマゾンで探して千円のを買った。こいつが家にやってきてからは焼きそば「俺の塩」(湯をいれて一分待つ)もきっちり一分で食べられるようになった。二度寝もしやすくなった。
 改行忘れていた。何に急かされて書いているのやら。いやそりゃキッチンタイマーだろう。なぜ焦るのか。いやそりゃ焦るだろう。ネタもないし。ネタを用意せずに二十分というのはきつい、というのは分かるが、だからといってこうして駄文を連ねるのはどうかと思う。


 駄文といえば、駄文にしておきたくはないがどうしても駄文になってしまう、という悩みを今抱えている。今といってもこの二十分執筆のことではなくて。
 ファンタジーものを執筆しているのだが、これがちょうど話の区切りがついて語り手の人称を一人称から三人称に変えたところ。三人称というか、ノイズのない語り手、神の視点。
 これがめっぽうつらい。一人称の「僕」に慣れていたので書き方の急激な変遷を迫られ四苦八苦しているところ。地の文が「僕」の独白で埋め尽くされても違和感のなかった一人称とは異なって、多元型の三人称というやつはちょっと気を抜くとしまりのない文章になってしまう。というか普通に筆が弾まない。
 もとは三人称多元型の視点で書いていたのだが、それももう二、三年前になる。逆に言えば私は二、三年ものあいだ一人称で語ってきたのだ。三人称多元型に切り替わってウルフの『灯台へ』のように登場人物の視点を自在に行き来してやろうと思っていたのに、そう簡単にはいかない。あとで過去の自分がどうやっていたか振り返ろうと思う。きっと赤面ものの文章と対面することになる。で、参考にならないというのがオチだろう。
 二、三年も一人称で語ってきた私は三人称に戻ってみてなんとも気持ちの悪い思いをした。「これ、誰が語ってんの、語り手誰よ、出てこいよ、気持ち悪い」という思いだ。


 ええと、タイマーが二十秒を切った。まとめられない。どうしよう。
 そんな感じ。
 と思ったら勘違いでした。まだ十分だ。阿呆。


 いやはや、思いつくままを垂れ流しですね。そういう文章を批判したい身の上としては恥ずかしい限りですが、このままいかせてもらおうと思います。
 話を戻しまして、三人称多元型の語り手――いやまてよ違うか非人称の語り手というべきか、そうだ、それだ、今分かった、私は三人称で語っているのか非人称で語っているのか区別していなかったから混乱していたのではないか。ていうか焦っている今、区別がつかない。深呼吸して考えてみよう*1


 何も思いつかない。
 話を変える。『嵐が丘』だとロックウッドが視点を担っている。語りも担っている。「私」いや英語だから「I」、一人称だ。しかし物語は途中からネリーおばさんの口から語られる。ネリーおばさんはキャシーやヒースクリフといった登場人物を語る。しかもネリーの語りの中には書簡形式が入り込んだりもする。これだよね流石だよねエミリー・ブロンテ、ほれぼれする。
 とりあえず『嵐が丘』と『灯台へ』を読み返して勉強するのがいいのかな。要はどんな文体で決めるかということでもあるのだが……。こうなると「僕」として語っていたことの楽さが知れる。初心者は特に理由もないなら私小説から入るのが一番書きやすい。


 というところでキッチンタイマーが素敵な音楽を流し始めたので、文章の垂れ流しはお開き。
 お粗末様でしたー*2

*1:そもそも区別あったっけ?

*2:この挨拶でいいのか?