ディスプレイの向こうには誰がいる?

拝啓 布団を蹴飛ばして眠られる季節がいつの間にか傍に居座っている昨今、皆様元気にしておりますでしょうか。はてな歴一年までまだいくつか月を隔ててはいますが、その際に何を述べてみようかと思案していますと、ネットがかなり近くに感じられるようになった、その感じ方の違いに気付かされました。かつては情報を受け取るのみだった私も今ではこちらから情報を発信できる立場にあります。もっとも、皆様に有益な情報など発信できた覚えがないので恐縮です。
 ところで、そもそも私が情報の受信一辺倒だったのはネットの世界と現実の世界の合間に膜のような隔たりを感じていたからです。ショーウインドウに並んだ商品を往来から眺めるように、ネットを閲覧しはすれども距離を置いていました。膜の内側へ手を伸ばすと何か危険なこと、不愉快なことが起きるのではないかと警戒していたのです。新しく何かを始めたいと思いはてなにブログを開設したときもまだ膜の内側に入り込んだ気はしませんでした。誰も見ることのないページがあるにすぎず、ここは他と隔たっていて、空き地に過ぎないのだと思いました。しかしはてなに住み着いてブックマークを知らずにいるなんて考えられない話ですし、ブックマークにてコメントを残すことの容易さがネットへのコミットに慣れをもたらすのも至極当然の話です。膜はじきに溶解し、現実と地続きのコミュニティが見えてくると概念は一新され、ブログ、ブクマ、ハイクを相互に関連づけるシャフトが見えるようになってきました(自動トラックバック、IDコール等が交流を促す文句を耳元で唱えます)。考えていたよりもずっと簡単で楽しいものでした。それでもやはり想像された醜悪さが強い腐臭を放っているところもありました。軽く踏み込んで気分を乱されたこともありましたし、これからもあるでしょう。その体験においてしばしば次のような感想を持ちました。この人達はなぜこれほど浅はかで偏ったものの考え方をするのだろう。きっと皆さんにも覚えがあることでしょう。よくもまあ、これほど短慮で独りよがりな発言を自信満々でやらかしてしまえるのだろうとあっけにとられてしまったことが、きっとあるはずです。あるいは、どうしてこの二者はこれほどに相容れないのだろうか、無闇に噛み付き合うばかりなのだろうか、と思ったことがあるはずです。方や赤が好き、方や青が好き、それだけのことで諍いが発展するはずもないのに、と。某巨大掲示板はこの手の争いに満ちています。しかし穏やかな場所もまた存在しているのです。穏やかな場所では一人がより多くを語っています。語り手のだいたいの年齢や性別が浮き上がってきます。そうなんです、日常生活での初対面の人とのやりとりが喧嘩っ早くなってばかりもいられないのと同じで、語り手の顔や名前、年齢や性別が見えてくるとなぜかしら適切な距離感を保てるようになるのです。それらの情報が全く分からないとき、私たちは不透明な話者を無意識に自分の分身のように描くのだと思います。同じくらいの年齢、同じ性別、似たような経験を経てきているはず、と決めつけてしまうのです。たとえば、あなたが大卒であれば相手も大卒であると見なしたりしてしまいがちだと思うのです。ところが実際にはあなたは社会人なのに相手は毛も生えていない小学生だったりするのかもしれません。ディスプレイの向こう側にいる相手は、数年前のあなたがやらかしたのと同じ失敗をそうと知らずやらかしているだけかもしれません。
 少々長くなってしまいました。しかしこれだけのことを連ねたのは、皆様が不毛な言葉を前にした際、悪戯に精神をかき乱されてばかりいるのはつまらないと考えたからです。嫌悪も正体を知ればいささか落ち着くということがあるでしょう。皆様の胆汁が溶解する手助けになれば、私といたしましては、これほど幸福なことはありません。それでは失礼いたします。

   草々

 追伸――はてなにはプロフィールなるものもありますし、名前(ID)もあります。他の環境よりも慈愛がはぐくまれてしかるべき場所のはずです。せめて現実よりも殺伐とならないことを祈っています。