モグリ

 書かなければ時間がない。決定的に――。
 平日は忙しい。書くためにはまとまった時間がいる。短い時間を数珠繋ぎにつなぎ合わせることでは到底辿り着けない境地がある。そこは深いから、潜っていくために準備運動が必要だし、息をたっぷり吸い込まなくてはいけない。そして、潜り始めてからも長い。一度その深みに入ったなら、長く居座らなければならない。また同じ場所、同じ深みまで辿り着ける保証はどこにもない。息の続く限り長く潜り続ける。
 書かなければいけない。
 しかし――書けない。何もする気になれない。意欲はどこにもない。書くことだけではない。どこにもなにもない。だらだらとしてしまう。終わりを知らない自慰のように際限なく際限のない怠惰を貪る。ネットの巡回にはカタルシスがない。カタルシスを求め続ける限り抜け出せない。無理矢理身を引きはがしても、依然として意欲はない。
 一日三十分書いたとして、365日で182.5時間。7.6日、まるまる一週間とちょっと。足りない。決定的に足りない。だから休日には書かなければならない。
 理性が踏ん切りをつけて文章ファイルを開く。一昨日連ねた文字列が見える。昨日はさぼってしまった。さぼったのは怠慢ではなく、休息が必要だと身体の要請を受けて僕が認可したからだ。だから、今日は書かなければならない。しかし文章に付け足す言葉は見あたらない。
 
 書くことがひどく億劫になる。逃げられない道だと知っているのに、どうにも七面倒くさくなる。呼吸を怠ろうとする生き物は窒息死するのだろうか、それとも呼吸をせずに済むよう順応するのだろうか。どちらも望んでいないのに、筆は重い。
 やり始めれば意欲は生まれる。それは知っている。もう幾度となく体験してきた。人間にはそういう生理があると知っている。しかしその生理に従っても、よいものができる保証はない。それも体験している。駄文を連ねる苦しみを知っている。
 書くことが怖くなる。
 書き始めて、いいものが書けてしまったらどうしよう、深く、深く潜り込んだその場所で気持ちよくなっていって、その途中で息が切れて、浮上して、今度は潜れなかったなら――? 有名な彫刻家たちの作品は真っ二つにしてもその威光を失わないでいられるのだろうか、あるいは上と下に分断された書物は読むに耐えるのだろうか? しかるべきときに同じ場所まで潜れなければならないというのに、連日で潜れるものだろうか?
 よい小説を読むと怖くなる。これが書けるだろうか? 同じでなくてもいいが、同じかそれ以上によいものが、書けるだろうか? 足下に届く程度でもいい、書けるだろうか?
 近しい年齢、通り過ぎた年齢が背筋を凍らせる。金井美恵子の初期の逸品『愛の生活』は十九から二〇にかけての間に書かれている。当時の自分にその技量はない。絞め殺したくなる脆弱さしかない。今も、伸ばした手が足に触れることはない。稀に、もう少しと思うことはあるが、希望的観測が見せる幻想に過ぎない。『愛の生活』には、大きなことは書かれていない。特異なことは書かれていない。日常が描かれていて、そこに不在というテーマがあるだけ。ぽっかりと、穴の空いたような不在は、読後のこの胸を呑み込み膨張する。僕はどこにもいられなくなる。はじめて読んだときは何も分からなかったこともまた恐ろしい。二、三年して、二、三度読んで、やっと分かるようになった。
 今はピンチョンを読んでいる。『ヴァインランド』を読んでいる。はじめてのピンチョン。書く時間がない以上に、僕には読む時間がない。浮気をしながらも去年から読んでいるのにまだ終わらない。半分にも達していない。長く続くこの物語が名作というふれこみがなかったなら決して手に取ることがなかっただろうことを思うと恐ろしくなる。読みながら、退屈だったらどうしようかと思う。そしていくらか躓き、平静を失う。一度目の読書では何も分からない。何も分からない。まだ一度目を読み終わっていない僕にはなおのこと分からない。万里の長城のように先が見えない。もう始まりも見えない。忘れてしまった名前があるはずだし、頭に入っていない名前もある。それでもこの巨大なものはうごめき続ける。言葉で埋め尽くされたページがやがて僕を落ち着かせる。こんなふうに文字で埋め尽くしたい。世界中の何もかもを文章に置き換えたい。すぐに絶望する。僕には何一つできなくなる。部屋の広さを語る言葉が思いつかない。ベッドの大きさ、色合い、寝心地を語るための言葉が思いつかない。本棚をどう言い表そう。書けないのは必要に迫られていないからだと知ってはいる。モチベーションのないところには一文字も刻めない。刻んだなら、そのすぐ傍から首を振って消す。文章の異物を取り除く。最後は何も残らない。書くことが怖くなる。何も書けない気がする。だが本当はピンチョンだってなんでも書けるわけではないはず(そうだろうか? 本当に? そうだろうか?)。どんなによい小説でも、どんなに細かな描写のある小説でも、文章は常に言葉の喚起力に頼っている。時代背景、文化伝統、知識体験がなければ通じない。単語に区切ってみていけば、魔法は解ける。文章を読んで感服して頭に描いたものの大部分が手前で勝手に用意したものと知れる。作者はそれの明確な色彩を書いてはいない。それの詳細な触感を描いてはいない。僕がプラトンの『饗宴』を読んで思い描いた像はプラトンの心に描かれた像と一致することはない。僕はあのころの暮らしを不勉強ゆえ知らない。第一、二度、三度と読んで新しい発見があるのに、ちゃんと読めたと言える日などやってくるはずがない。僕に限らず、万人がそうだ。
 それでも怖い。それだからこそ怖い。言葉の連携の生み出す深みがいかなる理路で生まれるのか、感覚でしか言えないところが怖い。それはやはりスキューバ・ダイビングだ。水面から顔を出して息を吸えば忘れてしまうかもしれない深海の景色だ。
 
 書くための動機は世に様々あって、ありとあらゆる人が各々のスタンスで創作に向かう。僕はいつもほんの少しの窪みを求めて書いている。安っぽく言えば情緒的な文章世界を求めている。でもそれは情緒という言葉では囲えない歪みだ。囲めはしないが、これ、と指で示して言えるくらいそこに確かにあるものだ。
 これ、は書けるのだろうか、僕に書けるだろうか、書けると自惚れることはできるが、実際は書けるのだろうか、書けたと思うことはあるが本当に書けているのだろうか、また再び書けるのだろうか。
 
 恐怖は一度は潜水から僕を遠ざけるが、やがては陸で息をしていることの方が恐ろしくなる。僕はついに書き始める。
 指先のタッチが鈍いのは頭の回転の鈍さによる。意欲を失していたことが嘘ではないと判明する。恐怖の対象にしていたものも幻影ではないと分かる。どうにもうまく潜り込めずに、まだ光の届く範囲をうろつく。一時間半が過ぎる。息継ぎ、小休止を挟む。意欲は尾を引いている。引かれた尾が存在を示す。それは胸に繋がっている。命綱のように見える。疲労はない。恐怖もない。鈍った感覚が恐怖を忘れさせている。代わりに、五感のどれにも属さない感覚が五感を引き連れて深海を示す。潜れるときは潜れる確信を抱かない。気が付いたときには深いところにいる。時間が過ぎるのを忘れる。ふいに息が切れかけていることに気づく。上昇する。息をする。疲れている。今度は潜れることに確信を持っている。疲労を黙殺して潜る。もとと同じ深度に達する。あるいはもっと深く、深く――
 心音が聞こえてくる。息づかいも伝わる。孤独でなければ辿り着けなかった深海に他者の気配を感じる。誰、と個人を名指しすることはできない。辺り一帯が生きている。それは一つの状態であり、誰、と名指しできる個人を一名、傍に感じる状態もある。彼ないしは彼女と何かを共有している気がする。一人称で書いているとき、彼は心臓を僕の心臓に押しつけてくる。彼の頭蓋は僕の頭蓋を締め付ける。非人称でそこにあるとき彼ないしは彼女は僕を引きつける。僕は彼ないしは彼女の動悸を耳にする。胸に染み入っていく幽体になる。彼らの内側にも更に深淵が広がっている。そこから先には潜り込むイメージはない。僕は彼ないしは彼女にとりこまれていて、潜り込むという比喩的感想は持てなくなっている。あるいは僕は彼ないしは彼女が内側へ潜り込むための溶媒として内側を満たすのかもしれない。(今度は僕が潜られる側になるということだろうか? 分からない)
 
 通算、五、六時間書けた。誇らしい気分に浸れるかどうかはそのとき次第だし、その気分と書かれた文章の善し悪しに関係はない。
 しばらくは冷静になれないから書くことが怖い。
 冷静になった頃に読み返しても、絶望しては書くことが怖くなる。
 称賛に値すると評した後も書くことが怖くなる。
 書いている最中も、苦痛で怖くなることがある。気持ちの良いときも、距離感を見失っていて、ただ気持ちよくなっていただけだと後で気づくことがある。馬鹿げた妄想を連ねているだけで無価値ではないか。生産性のないことを繰り返しているだけではないか。独りよがりではないか。読むのも怖い。山頂が霞んで見えないことに気づいてしまうから。
 たびたび書く意欲を失う。しかし書かなければ不安だ。書けなければなお不安だ。そしてすべてが怖い。恐ろしい。
 集中力の事切れた、この瞬間が怖い。