メモ:今朝書いたもの

 僕はリヴの塔に入学してからの数日、三食のほとんどを学生食堂に頼っていた。巨大な食堂はスプーンやフォークといった慣れ親しんだ道具の方が食べやすい料理をメニューにいくつもそろえてくれていたので、僕は箸の扱いの稚拙さを克服する必要に迫られることがなかった。味付けに関しても僕が以前住んでいた土地と変わらない料理があったので、食事事情に困らせられることはないと思われた。しかし講義が始まると僕は忙しさのあまり食堂にばかり足を運んでいられなくなったし、そもそも移動距離や昼食時の混みようを鑑みるに食堂の利用が億劫になったり、午後からの実技で疲弊しきって自室に帰り着くやいなや眠ってしまって食堂が閉まる時刻に目を覚ましひもじい思いをすることが多くなった。そこで僕は日持ちする料理をつくって、日々の自炊の手間と食堂へ足を運ぶ手間を省こうと考え、野菜を煮込んで多種多様の香辛料を混合することで完成する黒シチューの調理法を覚えた。僕はこの料理をすぐに好きになったのでいつまでも黒シチューなどと呼ばずカレーと呼ぶようになった。リヴ大陸は海外のあらゆる地方から人が入ってくるので輸入された料理に富んでいたし、大いに改変して、風体は起源のままに味付けのみ別物に仕立て上げた種の料理が氾濫してもいて、カレーもその類だと聞いた。なんでもカレーの原型のことは原産国の発音をそのままに真似てカリーと呼ぶのが本当だそうで、リヴ大陸版に比すと劇的に辛いのだという。それを知った僕は、食堂で持参したスパイスをカレーにまぶす人を見かけたことがあったので、あれはカレーをカリー本来の味へ近づけようとしてのことなのだと早合点した。実際にはその人はまた別の国の風習を親から受け継いでいるそうで(彼の両親が僕と同じようにリヴ大陸へ越した来たということらしいんだ)、なんにでもスパイスをかけるのが癖になっているだけだという。試しに僕もスパイスを頂戴してかけてみたのだけど、食べられたものじゃなかったよ、小指の爪で掬える程度の量を混ぜ込んだだけで僕のカレーは辛さで人を殺せるまでに飛躍したんだ、僕は本当に殺されかけたよ、あのスパイスの人、舌がどうかしてるんだ、辛さを感じないに決まってる。で、レイラの話じゃ、本場カリーの国からやってきた人はリヴ大陸版カリーであるカレーに接して、これはカリーより美味いって言うそうなんだ。香辛料は辛さ控えめで混合して、リンゴや蜂蜜を混ぜてつくるから全然辛くないんだよ。ともかく、僕はカレーを休日にこしらえてその後の自炊の手間を省くことに成功したんだけど、一週間同じものばかり食べちゃいられないもので、まさか来週もカレーだというわけにいかなかったし、次週はシチューを作り置きだという発想も同じく却下せざるをえなくて、ということはそもそも作り置きなんてとんでもないということになったからであって、今度はパンでも買い置きしておこうかと考えたのだけど、親切な隣人が僕の夕食を用意すると名乗り出てくれたので、僕はこれに甘えた。その隣人というのはもちろんフォルテのことで、彼は僕の面倒を見る役を先生に命じられていたから責任感もあったわけでね、僕が偏った食事をするのを見ていられなくなったんだ。偏食は禁物と言うことで僕は彼から注意を受けもした。十分に考慮された栄養配分がよき肉体を作るのだと彼はいって、彼自身の立派な体格をさりげなく自慢し、疲労解消と熟睡を促すのに適した栄養素について一席ぶった。僕は大真面目に拝聴して彼の知識の確かさを信じたし、彼の作る料理に期待したし、話を聞きつけたレイラが彼の誠意の恩恵にありつこうと彼女の分まで食事を用意するようがめつく求めたので、きっと美味しいものを作るに違いないと思って何一つとして心配していなかったのだけど、いざ疲れた身体を引きずって男子寮に戻ってみると彼の部屋の清潔感漂うダイニングテーブルの上には、白米、煮豆、芋の煮っ転がし、焼き魚、小さなキノコのみそ汁が並んでいた。それから湯葉入りの刺身蒟蒻とかいう僕の全く知らないぬめりを帯びた断片が大皿に盛りつけられていた。ことによるとこれは僕への嫌がらせなのかもしれない、と僕は本気で考えたし、率直にそれを尋ねもした。彼は故意ではあるが悪意はないこと、悪意があるとすればレイラにそれがあったことを唱えた。あんたのために新品の箸を買ってやったのよ、わざわざ神社まで行って箸使いの上達を助ける御利益がある箸を選んだんだから、と彼女は、親切心を装っているものの悪戯心が透けて丸見えにも等しい笑みを浮かべ、いった。いい気はしなかったが、夕食を作ってもらって、箸を買ってもらって、これで何かいっては我が儘が過ぎるというもので、僕はお礼のみを口にして席に着いた。箸を持つ手が震えたのは未熟が祟ったのではなく腕の筋肉が激しい運動を終えたばかりでくたびれていたからなのだが、レイラはこれを茶化すことに余念がなかった。僕をからかうことこそ最高に美味なおかずとでも思っているのだろう。そんな彼女に僕はなんてサービス精神に富んでいたことか! ご期待通り芋の煮っ転がしを皿から落とす始末だ。あんた、フッチボゥが得意だからって、華麗なテクを見せてくれなくていいのよ、ここは食事の場なんだからわきまえなさいよ、だってさ。僕はたまらずフォークを要求したのだけど、フォルテはこれに応じてくれなかった。頑固なんだよ、箸はリヴ大陸の文化の象徴、早く使えるようになった方が君のためです、といって融通がきかない。おかげで僕はすべての煮っ転がしをフィールドへ送り出してドリブルを披露することになった。ゴールさえ分かっていればハットトリックを決めてやったところだよ、いや残念だ。そうやって苦労して口に運ぶのだけど、口に合わないんだ、煮っ転がしというやつは(こんなこと口が裂けても彼の前じゃ言えない)。舌の上でぬめるし、奇妙なもろさと粘性で奥歯に絡みつくし、何より味が中途半端なんだ。まあ、芋というのはこんな味をしているものだけど、方向性の定まらない味なものだから嚥下しても腑に落ちなくっていけない。味と言えば、白米もそうだ。僕の地元でだって米はあったし炊いて食べるものだったけど、もうちょっとぱさぱさしていて良さそうなものなのに、こっちの大陸じゃ水分を多く含みすぎていて歯ごたえがない。歯ごたえがないなら味もないというものだ。芋と相まって口内は雨が降った後のぬかるみのよう。味を求めて芋を食べ、中途半端な味を消そうと白米を求め、悪循環にいらつき、箸の操作を誤って眼前に持ってきた茶碗の中身が弾けて白米が飛び散った。レイラはもうすべて食べ終えていて、お代わりが可能な白米と煮豆を相手に二巡目に入っていた。僕への興味をすっかりなくしてしまって、米と豆を咀嚼する置き人形もいいところの反復に没頭していた。僕はと言えば、煮豆でやはりリフティングをしたり、バンカーでゴルフクラブを叩き付けるみたいにエクスプロージョンをやったりして、食べている気がしなかった。焼き魚は手で取ってかじりついて食べた。煮魚でなくて良かったよ、本当に。みそ汁なんてもちろん口を直に付けて飲んだ。でもこれがまた最悪なんだ、小さいキノコがさ、最悪なんだ、なめことかいうらしいんだけど、これもぬるっとしていてね、なんだろうね、リヴ大陸人はぬめりが好きなのかな。僕はみそ汁を最後までとっておいたものだから口直ししようにも蒟蒻しか残っていなかった。大皿に装われた蒟蒻とやらはすでに三切れしかなかった。全部食べてくれて良かったのに僕のために残してくれていたようなので、僕は厚意を裏切れず、口直しのためにも端を伸ばした。ところがこれもぬめりとしているやつだったんだ、見たまんまだったよ、雨蛙のように光沢があるんだ、僕の箸捌きじゃとてもつまむことができなかった。しかもこれの食べ方は、まず小皿に用意されたソースにつけて、次に緑色のマスタードらしきものにつけてから食べるらしいんだ。僕は苦労してその所作を成功させて、ついに口に蒟蒻を投じた。味に期待はしていなかったけど、楽観はしていたんだ、見た目があまりに美しかったから、それだけでもう歓迎できたんだ、半透明のゲル状で、その内側に純白の筋を持っていて(その筋が湯葉というものらしい)、白というのは神秘の宿る色だとかなんとか思って食べたんだ。舌の上で予想通りの食感があって、一度、二度と咀嚼して、そこで僕は辛味に襲われて目を大きく開いた。辛い、と思ったし、水の入ったグラスに手を伸ばしてもいたが、一瞬遅れて予想外の刺激が身体を突き抜け、僕は咽せ返り、一時動きのとれない状態に陥った。わさびを付けすぎなのよ、と彼女は笑っていた。涙まで流してしまった僕とは対照的な愉悦の笑みだった。フォルテまで失笑していた。僕は水を飲み干すと憤然として席を立った。調理台の上にある水差しに用があったが、はじめの一歩で机の脚に小指をぶつけてしまった。知人二名の容赦ない笑い声が騒がしい痛みを打ち消す鎮痛剤の役割を果たしたのは皮肉だった。冷静な部分が、わさびの辛さと涙のしょっぱさで文字通り辛酸をなめたわけだ、と心でさらりと呟いたが、痛みに悶える僕は、なにうまいこといったつもりでいやがるんだ、こんなまずい事態は金輪際お断りだとやりかえさずにいられなかった。