午前零時四五分、吉野家で

 あれはまだ盆休みが訪れる前、朝には蝉が喝采し、時計の針が進めど進めどお天道様が遅くまで空に居残って子供達に夜更かしを促していた頃だったと思う。もっとも、僕は夜勤の周期にあったから、蝉の合唱も子供の声も記憶になかった。あの日、僕は午前零時丁度にタイムカードを押して生ぬるい夜に飛び出した。夏の夜の偉大なのは、それが平日であっても夏休みと同じ空気を帯びていることだ。ハッカ味のガムを飽きるほど噛みしめた後の、もう十分、もうどこかへいってくれと追い払いたくなるむかつきが化けたような暑さ――冷房や冷水でしか追い払うことのできないぼんやりとした鈍い熱気――が身体の芯にまとわりつた。キーを回しエンジンをふかすと冷房が音を立てた。闇と同じくして夜を満たしている夏の魔物もこれでひっこんでいた。
 バックを失敗して付けてしまった傷を覆い隠すブリリアントブルーの歪な塗装が電灯の下から速やかに立ち去った。スピッツの『夜を駆ける』がかかっていた。回るのはタイヤばかりではない。選曲に節操のないディスクも回る。アニソンを経て、ハイ・ファイ・セットの『冷たい雨』が流れた。雨は降っていなかった。
 家に帰っても夕食があるかどうか分からない。両親は登山のため数日家を空けていた。弟がカレーを作ってくれているはずだったが保証の限りではない。帰宅してから食事の用意がないと知ってはコンビニへ買い出しに出るのも億劫になって自分の棚に保管してあるチキンラーメンで我慢してしまうだろう。何か買うならば帰宅前だ。僕は車を吉野家につけた。キーについている丸い突起をポチッとやると僕の車は一呼吸のあいだだけランプを明滅させた。施錠のサインがウインクに見えた。なに色目使ってんだ、こいつ。
 店に入るとレジの前へ真っ直ぐ向かった。お持ち帰りですか、と眼鏡の男性店員が訊いた。はい、僕は短く答えた、豚丼特盛りを一つ。けっしてあなたをお持ち帰りしたいわけではないのです、ということは胸中でのみ唱えた。
 豚丼はいい。牛丼などよりずっといい。吉野家でもっとも美味しいのは豚丼だ。牛は常に豚に負けるのだ、というよりは豚こそ肉の最たるものなのだ。世間は牛の方を高級に取り扱うが、それはちょうどマツタケをシイタケよりも崇拝する愚に同じだ。
 すぐにお茶が出された。店員は厨房付近へ下がって同僚と話し始めた。僕はしばらくのあいだお茶のことを意識しなかったが、不意に僕の前にあるそれが僕のために出されたことを悟った。お持ち帰りの客にまでお茶を出すことは僕の思慮の定石になかったので理解が遅れていた。承知してからは、気が利いているじゃないか、と思いながらこれを飲んだ。
 僕の他に客は三人いた。こんな時間にも外で食事をしている人がいることに少し苦しくなった。団らんのない食卓ほど惨めな思いに打ちのめさせるものは他にそうないだろう。一人で食べているときに孤独に気付いてしまったなら、それは人生の敗北のようにも思う。皆、そうではない食事のために働くのではないか。
 ふっと、僕は丸い椅子を二つ挟んだ先で食べている老婆に注意がいった。歳を当てることは僕にはできないが、確かに老婆だった。宮崎アニメの『ハウルの動く城』に登場する荒れ地の魔女は、はじめ首の存在が分からぬほど太った体格で登場するが、物語中盤から魔力を失って小柄な婆さんになってしまう。老婆はちょうどその魔力を失ってからの荒れ地の魔女に似ていた。まん丸の目と愛嬌のある輪郭からひょうきん者をイメージさせる顔立ちだ。
 老婆は食事を終えて店員を呼ぶと支払いを済ませた。この人は食べているあいだ何を思っていただろう。孤独を意識していただろうか、孤独から精一杯目を背けていたのだろうか、あるいは孤独になど慣れてしまっていてなにも感じていなかったのだろうか、まさか一人の方が気楽でいいと思っていたりするのだろうか。分からない。同様に彼女がなにを食べていたのかも思い出せない。盆があった気がするからには定食ものだろうか。吉野家だから、白米と肉があったに違いない。
 老婆が店を出た。僕の注文していた豚丼がやってきて、支払いを済ませた。白のナイロン袋を指先で釣り上げた。反対の手は袋の底に添えられ、中身の熱を支えた。店を出てすぐのところで老婆が白のスクーターに跨っていた。脇を通り抜けて車にキーを向けた。彼のウインクから目を逸らし、颯爽と道路に出て行ったスクーターを見送った。
 僕の祖父母は僕が訪ねているのでもない限り食卓に肉などあげないし、こんな時間帯に起きていられもしない。最近は面白いテレビ番組もないので早く眠っているといっていた。あの婆さん、これからどうするんだろう、帰って眠るのかな、帰る場所は、あるんだろうか、あるはずだよな、一人暮らしなのかな、さもなきゃこんな時間に外食に出るはずないだろうし……、そもそもなんでこんな時間なんだろう、食べるなら食べるで、もっと早くてもよかったろうに……。
 僕の脳裏にファンキーな婆さんが思い浮かんだ。同居している息子とその嫁に気付かれぬよう家を出て夜食を食べている食欲と行動力の旺盛な婆さん。これはきっとハズレの想像。でも、もし当たっていたなら、老婆の食事は孤独とはかけはなれていたことになる。独りグルメ、心ゆくまで堪能する至福の時間。
 勘定を済ませる直前の老婆の仕草が思い出された。ハンカチで口元をぬぐう上品な仕草が。美味しかったんじゃないかな、それは少なからず正解だろう、なんたって吉野家なんだから。肉が美味しいうちは、まだまだ盛りの人生だ。
 助手席へ豚丼を預け、キーを回す。車がぶるんと身震いした。冷房が音を立てたが、僕はこれを消して窓を開けた。間延びした生ぬるい風が図々しく車内を覗き込んだ。真夏の夜ほど孤独を美味しく調理できる時期を僕は知らない。真夏だけが孤独でいることをゆるしてくれる。なにせ、この夜の下で身を震わせているやつなんて、車だけのはずだから。
 だからあの老婆も孤独なんて背負ってなかったに違いない。そうでありますように。
 アクセルを柔らかく踏み込んで公道に出た。夏の夜がずっと遠くまで続いていた。ミスチルがかかっていた。僕はギャグマンガ『魁! クロマティ高校』にでてくるネタを思い出していた。北島三郎の曲をミスチルの曲だと勘違いしていた男の話。でも、冗談ではなく、そんなこともあるかもしれない。さぶちゃんが歌う。「誰かのために生きてみても wow Tomorrow never knows...」 勘違いはよくあること。さぶちゃんとミスチルを取り違えることだって、よくある、よくあること……、なわけねーよ、野中英次、笑わせて殺すつもりか。
 僕はやっぱり窓を閉めた。風の音のせいで歌がよく聞こえなかったから。でも冷房はかけずにおいた。だらしのない熱気は助手席でふんぞり返ったままスピーカーの振動と一緒くたになった。
「心のまま僕は行くのさ 誰も知ることのない明日へ」
 サビが終わった。