毒吐く

 今日は七時間ほどディスプレイに向かっていたが、キーボードを叩いては手を止め、叩いては手を止め、デリートキーを連打し、ドラッグで文章を反転させては削除していた。普段の一、二時間分しか書けていないし、その内容についても、何ら納得できていない始末。トホホ……。
 プロットはできている。先の展開はいくつも思い浮かんでいる。未来が手招きして呼んでいる。だが、その未来が現在に降り立つ目処が立たない。
 これまでのあらすじを箇条書きにしてまとめ、おさらいした。読み返して、忘れていた感覚を取り戻しもした。しかし書けない。
 気がおかしくなりそう。
 
 風呂に入ってさっぱりすると、原因があっさりと分かった。
 新しい登場人物のことが分かっていない。
 その人物が負っている役割の大部分は理解できているし、性格も、だいたいのところは掴めているのだが、実際に登場させてみると、どう動いてみても違和感が立ちはだかる。
 それは、六十代の婆さん。なりきるには時間がかかる。十三年ぶりに顔を合わせる孫へ、どんな振る舞いをすればいいのか……?
 なんとも歯がゆい。果たすべき役割が分かっていても、その登場人物の動きが分からないとは……。
 僕が甘く見ていたのは、性格が決まっているのなら書けるはずと自惚れていたからだろう。性格が分かってさえいれば、こういう状況の時は、こう動く、というものが定まると思っていた。 y=f(x) みたいなものと。まあ、定まるんだろうけど。状況が平易ならば。ところが、実際には極めて複雑な事情が折り重なっている。性格変数に状況変数をかけあわせて書いてみても、薄っぺらい反応しか返ってこない。書いていても、嘘くさい、嘘くさい、どこか上滑りしている、どこにも魂がこもっていない、とレッドランプが明滅してばかり。やがて婆さんが何を考えているのか分からなくなって書けなくなる。ちなみに、婆さんが何を考えているのか分からなくても書くことはできる。それが駄作になるとは決まっていない(駄作になることの方が多いが)。書いていてひたすら気持ち悪くなることの方が問題なのだ。自分が何をしているのか分からなくなるし、書いている意味も感じられなくなる。気がおかしくなるんじゃないかと思う。婆さんが婆さんとして動いている確信がなくなる。他の人物とどこが違うのか分からなくなる。生身の人間が感じられなくなる。人形のように思えてくる。同じ布地でできていて、中の綿も同じで、目鼻を刺繍する位置がちょっと違うだけ。要するに、どこで書き分けしているのか分からなくなってくる。変わり映えのしない文章を連ねているだけとしか思えなくなる。こうなると、もう、書くことが苦痛でしかない。書けば書くほど衰えていく感じがする。糞便を壁にぶつけるアートと、どこが違うのだろう、という気がしてくる(どこが美しくて、何を表現しようとしているのか、今書いたものが何か意味あるものを表現できているのか、分からなくなる)。
 というのも、婆さんの「今」しか想像できていないのがいけない。婆さんは今に至るまでに悩んだり、罪悪を感じたり、孫がやってきたらこういう態度を取ろうと覚悟を決めたりしていたはずなのに、そこが想像できないまま、単に婆さんの性格と今の状況だけを頼りに書こうとして、想定していた重みが得られずに、上滑り感に苦しむ。
 人は、性格だけじゃなく、歴史(人生)で動くっつーことだ。
 もっと考えろということですね。そうします。そうします。


 この文章は、その上滑りする自分を引きずったまま書いたから、目も当てられない有様かもしれない。気分で言えば、目の焦点があってない状態で書いてる。でも、明日から会社に行かなきゃという、最後の休日に成果が得られなかった怒り、悶々とした憂さを、どうしても晴らしたい。
 また明日から頑張る。