血のように赤い月が出ている霧に包まれた夜の狼男


テキスト

 息をするごとに男の姿は一回りずつ大きくなっていった。一枚の獣の皮を隈無く纏い変装を済ませたといった次元に留まらず、腕も、胸板も、人の頃の二倍にまで増強されていた。踵は浮き、足指と足指の付け根の辺りのみで体重を支える前傾姿勢を取ったとき、男の手は地面につきそうな低い位置にあった。人の頃の三倍にもなった手は、重量を支えきれぬとばかり地面に爪から触れていった。人とは構造の全く異なった、噛み付くに適した前に突き出す口が息を吐き出す。上半身は下半身よりも肥大し、胸板は更なる増強を受けていた。
 それは血のように赤い月の出ている夜の出来事だった。街灯と鉄柵の向こうで妖しい光を帯びた月が霧の街と男をうすぼんやりと照らしていた。

呟き

 またフィクションテイストのイラストに戻ってきて一次元化。
 これまでの経験で、風景を一次元化しようとすると難しいと分かった。人がものを見るときはどこかしら焦点を当てて順繰りに全体を把握していこうとする過程を持つようだが、写真で見るとその過程がまた違っているらしい。一度に全体を把握しているような気分になって、どこから語るべきなのかが分からなくなる。また、そういった理由にかかわらず現実の風景は文字だけでの説明がしづらい。映像を捉えようと思えばもっと適切なジャンルがあるのだと思うと、あえてそれを不得手とするジャンルで風景描写に拘る理由はないように思えてくる。個人的に「私にはこう見えるんです」と、かなり一般的(客観的)ではない見え方を描くというのならやりやすいのだが。なにしろその見え方には客観性よりも情緒が深く絡んでいるので個性を帯びやすく雰囲気が出やすい。ただし、一般的ではなくなるので読み手に理解されなくなる。読み手は「これはどういう比喩なのだろう、こういう比喩だろうか」と考えている部分でも書き手にとっては比喩でも何でもなく「私には本当にこう見えているんです」ということがある。――いや、もしかして、それでいいのだろうか? それが一次元化なのだろうか?
 偏りなしには書けない。しかし伝えたい。折衷案はいかに?*1

 ていうか今のままじゃつまらない。文章があまりにつまらない。余所から借りてきたみたいに自分のものではない。自分の文章で一次元化することが課題、ということにしておこうか。

*1:灯台へ』でリリーはキャンパスに一筋の線を描き、絵を完成させ、物語は結びを迎える。私にもあの一線が欲しい。