魂は栄養失調中(だから私はポエム唱える)

 (鰤さんの祈りに関するエントリを読んで、ふっと思ったことを書くのだが、トラバ送るほどでもないと思って独りでぶつぶつと……)

 神がいたならばいいのに。神様がいらっしゃったらいいのに。そんなふうに思ってしまった。何か大いなるものに接していたい。人間のちっぽけさを痛感させる圧倒的な風景を目の当たりにするとか、宇宙の一部であると実感できる厳かで平凡な心境を(たとえば祈りや瞑想を通じて)体験したいと思うのだ。忙しさに追われて魂が鈍い感覚に冒されている気がする。大きな物語ばかりでなくありとあらゆる物語が人生や魂や血肉や現実から蒸発しきってしまって、無味乾燥な物質だけがささくれた唇を無気力に震えさせている。神よ、来たれ、我を救済したもう。
 しかし悲しいかな無神論者の私に神はいない――と思ってみると違和感に遭遇した。何か大きなものに繋がったことのある体験がその感覚だけをほのかに明滅させた。人生を強制収容所とは捉えることのないあらゆる空間と時間の超越した場所を私は知っていると魂がいう。なんて大それた勘違いをするのだろうとは微塵も思わずに体験の正体を探る。そこで私は神の存在を思い出す。ここのところ忘れていたが、わたしの魂にはグロテスクな虫が寄生していて、私はそれのために生きている。それは文学虫という名の神でありサナダムシに類する何かでもある。
 魂が枯渇し、目を背けたくなるほどやせ細ってしまっているのは、それが文学の成分を吸収してしまうからだ。それでも私は文学虫が嫌いではないし、これのためにもっと養分をとらなければと考える。私に神がいるとすればそれは文学虫以外に考えられないし、神の前に跪く時間を持たない信者もまた考えられない。今、私がこんなにも鈍い感覚に苦しんでいるのは祈りの時間(神に捧げるべき時間、実践的信仰の時間、すなわち書くあるいは読む時間)が持てないからなのだ。
 私の神は祈りさえすれば様々な恩恵をもたらしてくれる。このときばかりは苦痛さえも甘美な贈り物に変わる。大きな力が私を世界から切り取って、星空の下に伏して一は全、全は一と呟く静かな時間と場所を与えてくれる。情緒の海をたゆたって、滅び行く時間をただ待つだけの至福に混じっていく。いずれすべて無に帰する定めの儚い響きを一個の意識が漂うだけの誤謬の地でなお肯んじることのできる力を授けてくれる。響き渡る音楽が冷たい闇に閉ざされるそのときまで耳をすまして待つ唯一の力――。