毎日忙しいくせに文章を書き続けるしかない私の6箇条
[情報ダイエット] 毎日忙しくても文章を書き続けるための6箇条 | Lifehacking.jpを読んで、賛同と拒絶、双方の意見を抱いたので、私的に六箇条を再検討してみる。
注意
一、ここではあくまで私個人の生活環境等による制約を考慮しているので他人向けである保証はない。ゆえに先のリンク元の主張を誤読していると写るやも。
一、ここでいう物書きとは小説の作家のことをいう。ブロガーには当てはまらぬやも。
1 物書きモードの習慣化
短い時間で、毎日書く
これに異論はない。継続は力なりという言葉を待つまでもなく、毎日書いていなければ頭が物書きモードにならない。物書きモードになっていれば、目の前の出来事を文章によって捉えようとするようになる。また、映像を文章化するのではなく、そもそも文章のまま場面を思いつくようになれる。そのとき文章はうねり、生成され、私たちは純粋なるテキストの里が存在することを知る。書くという習慣の最大の功績はそのような物書きとしての感性を手に入れられるところにある。書き続けることによって文章レベルが上昇するわけではないという事実は、断言しかねるものの、強調しておかなければならない。
書くよりも読む方が文章の深みに触れることになる。そうして読むことで身につけたものを書くことによって鍛錬するのならば、書くことは文章力の上昇に貢献する。そのように「考えて書く」行為は、習慣的に書くこととは一線を画する。なぜなら習慣においては悪癖もまた反復されるからだ。マンネリズムに陥ることもある。(考えて書くことを習慣化するのはとても難しい。その習慣は自己啓発的な、書く以外の行為によって後押しされる必要があるだろう)
まとめ:書く習慣は、映像よりも文章が先に出てくる文章モードのために!
2 トランスを解くべきか、解かざるべきか
下り坂で駐車する/時間がきたなら、文章の途中でいいので、そこでやめてしまうこと
これについては、一度は脊髄反射的に否定してしまった。というのも、書くという行為は一種のトランスであり、それゆえに一度トランスが途切れたならトランス時に考えていたことを思い出せなくなるからだ。トランスというものは物書きにとってのドーピング的手段であると共に常用手段だ。過去に書いたものを読み返すとき、「これが自分が書いた文章であったろうか、このように素晴らしいものを私が私に書けるはずがないのに」と思わされる体験は物書きにはよくあることと思う。それゆえにトランス状態における執筆時、私がもっとも恐れるのはその特殊な集中力の崩壊だ。勝利までの手順が一手ごとに如実に見えているあの状態が一度失われれば、なかなか取り戻すことができない(そうやって闇に消えていった物語の断片は多い)。この理由のため、私は休日の執筆を五、六時間継続しなければならないという事態に直面する。*1
とはいっても、平日は仕事が待っていて、どうしても時計の針が執筆の中断を余儀なくさせる。このとき留意すべきは次回の執筆時にトランスしやすくなるような準備である。箇条書きのメモをとるなどして工夫すること。(私の場合、メモを残し忘れたなら、次に書こうとするとき、トランスするために十分から二十分の時間を食いつぶしてしまう。)
まとめ:人の記憶はあまりに儚い。執筆を切り上げてしばし寝かせるつもりがあるのなら、メモを残すべし!
3 書く時間がすでに稀少であるのに調査する時間などあるものか
執筆と調査を同時にしない
いいえ! 執筆中にウィキペディアを開くなんてしょっちゅうです! 物語は着地点を予想して飛び出しつつも最終的には意図していなかった地点へ落ちてしまうもので、その過程は連続的な流れを持っています。その連鎖する鎖のひとかけらをまがいものや保留ですまして次に進むことはできませんよ、あなた! (あとでつなぎ合わせるときにかなりの違和が生じてしまうのです!)
手を休めずにかき続けることでインスピレーションの奔流を涸らさないようにすること
そう、トランスを崩さぬことは重要。しかし筆を弾ませるものがある程度詳細なデータであるという事実からは逃れられない。
まとめ:どうしても避けられぬ調査はある。その場合、まだ書くべき時ではないのだと諦めるしかない。だが、調査するときも書いているという気持ちでいることは、意外と効果がある。
4 条件などいらぬ
気分がのっていて、子供を寝かせたあとで、静かな書斎でゆっくりとしてからでないと原稿に向かうことができない、というような「条件」を気にしているようではいけない
これには同意せざるを得ない。むしろ困難にうちひしがれ、書けぬ、と嘆く事態こそが筆を握らせる(キーボードを前にする)号令となる。
「眠たい、今日は書けない」よし書こう。
「疲れた、今日は書けない」じゃあ書こう。
「すごく精神が乱れている。とても書けそうにない」へえ、試しに書いてみようぜ。
「五分しかない。これは書けない」今書かなければ今日は一秒も書かないだろう、今すぐ書け!
そして私は書き始め、「ほら嘘ではなかった、本当に書けないだろう」という現実を知るのだ。「本当に眠たい、本当に書けなかった」「書いてはみたが、この文章はいただけない、疲労は敵だ」「トランスが乱れる。こんなに怒りを秘めているのでは集中できない」「文章を書いては消しているうちに時間が過ぎた……」
こうして、いっそう条件に縛られない書き手としての精進が求められる。あるいは日々の習慣を反省させる機会に恵まれる。
ただ、人の視線があると小説は書けない。ブログは書けるが、小説は書けない。こればっかりは条件を整えないといけない。執筆とは本来的に孤独な仕事である。
まとめ:条件は他人が不在である個室であることただ一つかと。
5 こちとら十年間、ワードパット使いだ。
Word は使わない
これは、当然。もっとも軽く、もっとも装飾の不自由なツールを用いるべし。
まとめ:ものを書くツールは簡素の一択
6 メールの返信が平均一日遅れる私が斬るに
リアルタイムのコミュニケーションツールは切る
当然というか、そもそもその手のツールをそばに置いておくことは書くことが一番にきていないというだけのような。
まとめ:すでに述べた通り、執筆とは本来的に孤独な仕事である。
最後に
Cory Doctorow さんがいっていることは、本業の作家らしい内容だ。しかし日々を書くこと以外の仕事に追われている人々にとって、執筆をする時間が既に稀少であるというのに、調査をする時間が他にあるというのか。しかし執筆と調査が同時にできないことは、なるほど確かである。が、調査をとれば書く習慣は頓挫され、執筆をとれば不十分なデータゆえに筆は弾まないというジレンマ。また、書くことばかりに囚われては、読むことができない。読むこととは読書のことではなく推敲のことだ。推敲なしに完成する小説はない。
そして、仕事の合間に小説の展開を考えるようなことは、できないという点も声高に主張せねばなるまい。小説を富ませるのは肉体を無意識に委ねた場合であり、そのような夢想ないしは瞑想を許してくれるほど仕事は甘くはない。*2
私は毎朝執筆のための時間を設けて物語を書く。作中では二、三分もかかってはいない出来事を現実では三十分から一時間書けて書いている。二週間経ってもまだ、作中では三十分ほどしか進んでいないことがあった。作中ではちょっとした時間であっても、書き手である私は二週間を生きたのだから、二週間前と比べ様々な変化を来している。プログラムのように同じではいられない。そこに毎日少しの時間だけ書き続けることで蓄積する齟齬があらわれてくる。ちょうど、小学生の前にならえがいびつであるように。
まとめ:結局、休日(少量ではない時間)も駆使せざるをえないよね!