書きたい欲望、読まれたい欲望

 こう考えてみてはどうだろう?
 書きたい欲望と読まれたい欲望は別個のものである、と。
 どうしても読まれにくい形でしか書けず、しかしそれが自分にとって解毒作用を期待しての急務であるというのなら、そのように書くしかないのだから、逃れようがない。
 だが、そうやって生じた作品が本当に自分のためだけのものなら、できたままの形で提供しようというのは横暴が過ぎる。私自身、すでに名を馳せた文豪の書いたものと現代に生きる無名の作家が書いたもののどちらを読むかと言えば、文章量が増せば増すほど、前者に偏る。
 
 媒体がブログである以上、それに適した形態がある。
 ということでもあるが、それよりはむしろ、あらすじだけを読む楽しみというのもあって、それだけでいいのじゃないか、と思う。
 虚構を題材とするネタ新聞が、いくつもある法螺の世界のうちの一つの世界の一部分を切り取って提示するように、消費しやすい形に切り貼りする。それは自筆の小説をそのまま提供することや自筆の小説の広告・宣伝ではなくて、新しいコンテンツを提供するということ。

 やたらめったら複雑な代謝産物は、たいていの場合、他の微生物が分解して有効活用するものである。(書きたい欲望は排便のようなものだ。切羽詰まってひり出すが、ひり出した幸福感はともかく、ひり出された便はどう処理していいか分からない。微生物の分解待ちだ)
 
 それに、書きたい欲望と読まれたい欲望の分断は私の一つの考え方を支持してくれる。それは、脈々と続く日常(=物語)に対しては、いつ、どこから参入しても構わないという考え方だ。私たちが普段、彼の人生(=物語)を生誕(書き出し)から知らずとも、途中から知り合って交流できるように。