ブクマが気持ち悪いとか、ブコメが卑劣だとかいう意見がよくわからない

 それとも私は、ブクマもブコメも気持ち悪くも卑劣でもなく適切に使えているユーザーなのだろうか。そうだったら、ひとまず安心と胸をなで下ろす。
 本当は分かる。気持ち悪いというのは分かる。ブコメに対して言及しにくいという性質がその一因を担っているように思う。ブログのコメント欄ならば連鎖的に言及しあえるが、ブコメだとそうもいかない。ブコメで終わってしまう。ブコメ相手にエントリ立ち上げてやり返そうとするとあまりに喧嘩っぱやい気がして躊躇われる。ちょうど「トイレの落書きに何いってんのw」というテンプレが思い浮かぶ。
 でも、気持ち悪い、気持ち悪いって、それしか言えないのかと思ってしまう。それしかいわないところが不可解だし、気持ち悪い。どう考えたってブクマとブコメは利便性の高いサービスですよ。その利便性に驚嘆している私としては、それを無視して気持ち悪い、悪いっていう方が気持ち悪い。
 どういう使い方が気持ち悪くないのかいってもらいたい。いや、私にいって欲しいのではなくて、気持ち悪いというときにどこそこがいけないというべきだという話。まるでブクマもブコメも存在しない方がいいみたいにいうのは極論が過ぎるし短慮が過ぎる。


 それから、品行方正なブクマ、ブコメってどんなのなのか示してもらいたい。そうでなければ正しようがないので、なんともむずがゆい。
 しかし気持ち悪いといっている人はそれを示してくれないので、気持ち悪いといっていない私が自分で考えることにする。気持ち悪いことは避けたいし。
 とりあえず、ブクマすること自体はいいだろう。ブラウザのお気に入り機能がバッシングされないのと同じ理由で。無論、ブクマはソーシャルブックマークなので他者の目にもとまることとなり、プライベートな用いられ方しか考えられないブラウザのお気に入りとはまた別なのだろうけど。
 ブコメはどうか。ブコメも、しないということは考えられない。タグはふるし、ブクマしたページの内容を要約したり感想を記録したりということはしたいし、ブコメの本来の機能はそういう目的だったのだと思う。

 ブコメが気持ち悪いというのは、そこで主張をするからなのだと推測する。要約とも感想とも違って、主張をすることが不愉快に写る、と。しかし要約にしても感想にしても個人的なものには止まらないだろう。他者の目にとまることが全体であれば、そのようにふるまわれる。そして主張もまたその延長にある。それゆえに主張もまたある程度まで許されてくれなければブコメ機能を使えない。それがどの程度まで許容されるのかについては、頭をいじめ抜かずとも、節度をわきまえれば自ずと明らかになるものと思う。私たちは感想と主張の紙一重の差を見極められるよう国語教育を受けてきたのだから、俄然、その成果を発揮すべきだ。私自身はすべてのブコメ閲覧者がそのように解釈の努力を怠らぬ人間であると見なすことにする。

 というふうにふるまえば、品行方正だろうか。試してみようと思う。そうすれば自負心ゆえに周囲が「ブコメ気持ち悪い」といっても自分のことではないと信じられて屁でもないと思うようになるだろう。……あれ? 論考の目的が当初とずれているような……。


 以上のことを書いてみて、増田に投稿するのもありかなと思ったものの、その方が注目を浴びるからといってあえて高らかと挙手をし訴えることでもないなと気付き(あまりに個人的な誓いだもの)、増田への投稿は控えることとした。増田の気持ち悪さを考えればブコメなんて爽やかすぎて問題点が見つからないくらいじゃないか。