ヘタクソ探検家

 書かなければならない、と思う気持ちに反して、書けていない。
 最近感じている集中力の欠落について、私は非常に歯がゆい思いをしている。
 それとも創作活動へと真っ直ぐに向かうことの出来ない薄弱な意士を誤魔化すための嘘がでっち上げられているのだろうか?
 逃げてばかりいる自分が情けない。
 遊んでばかりいる自分が憎らしい。
 読書していても落ち着かない。それすら執筆から逃げているように思われてしまう。
 なにか不必要に精神が追いつめられているようである。

 しかしこのたった一日の休日で気づいたところでは、書き始めればやはりいくらかは集中力が生まれ、創作意欲も湧きあがるようだ。
 といって、勘違いしないで頂きたい。
 私はいつも書き始めようとしてきたのだ。しかしディスプレイを眺め、手が動かない時間のなんと長いことか。何を書けばいいのか分からず、途方に暮れている時間があるのだ。それは大海原において進むべき方角を見失った船のごとしである。進む方角を誤れば、むしろ進まなければ良かったという事態になりかねない。
 時には少し道を戻らねばならない。戻って、正しい道を探すのだ。そのときは大海原ではなく、視界のきかない密林となっている。そうして引き返した道を、私はまた御丁寧に歩いて同じ場所に出てしまうのだ。そしてそこで途方に暮れなければならない。急いで道を引き返してもう一度挑戦するといったことはできない。それは行動意欲の欠落を意味するのではない。焦っても同じ失敗を上塗りするだけだと知っているのである。途方に暮れるときは、深く途方に暮れなければならない。
 正しい道を踏み出せたときは、すぐに手応えを感じる。周囲はすでに密林ではなく切り立った崖である。指先で全体重を支え、様々にある手がかり足がかりの中から最善手を選び続ける。攻略のルートは無限にあるように見えて一つであり、一つに見えてその実無限にあるものである。矛盾したことを言って煙に巻きたいのではない。私でない誰かは三つか四つの攻略ルートを見るだろうが、私には一つか、多くてもせいぜい二つのルートしか見えないし、そのどれもが私でない誰かとは被っていない。重要なのは、私に見えているルートを選ぶことである。他人の目に見えているルートが自分にも見えるなどと思ってはいけない。
 道のりが決まればロッククライミングは直ちにスキューバダイビングへと移行する。いかに深く潜れるかが、作品の深みに通じている。酸素ボンベは無限ではないし、目的地は分からない。耳をすます――というよりは心を研ぎ澄ませる――ことで漠然と潜っていくしかない。自ら見つけようとする意志が問われることもあるが、基本的にはただ導きを待つのみであるし、そうすることが無難である。
 
 
 
 なにやらつらつらと述べたが、ロッククライミングは小説の構成を練る行為に近いし、スキューバダイビングは実際に書く行為(というか、執筆から派生する神秘的な活動*1)に近い。
 有能な作家は恐らくロッククライミングからスキューバダイビングに移行して、そのまま書き上げてしまう。途中で浮上して大海原で遭難したり密林を彷徨ったりなんて間抜けなことはしない。そんな間抜けをやらかす人は、文章絡みの創作がヘタクソに違いない。
 
 私はヘタクソです。
 
 
 
 追伸――
 潜るのが大好きです。

*1:て説くと胡散臭さすぎるが。