大事なのは平気で殺す心ではなく、感謝の心ではなかろうか

肉を たべたいというのは、動物を ころしてでも たべたいということだ。 - hituziのブログじゃがー

 を読みまして。

 こういう食に関する態度を問うエントリは興味深く、しばしば忘れてしまうこと(食肉=動物の命)を再考させてくれるので、有り難いことだ。
 しかし内容に少し違和感を感じたので、その旨を次の通りコメントしてみた。

>平気で ころせないなら、なれるまで、平気で ころせるようになるまで動物を ころしつづけてみるべきだ

 平気で殺せる? 少し、いや、かなり違和感。屠殺される豚を目の前にしているときは「悪いが命をもらう」という謙虚・神妙な態度であるべきだし、実際そういう気持ちになる。平気というのは違う。この事実からもまた逃げることはできない。肉食はマッチョだけど、それに向き合う人間はマッチョでなくてもいいんでは?

id:hituzinosanpo氏の返答は次の通り。

わたしは平気で ころせますよ。それは、肉を たべてきた、たべているものとしての倫理的責任だと おもっています。だって、平気で肉を たべているわけじゃないですか。平気で肉を たべていること自体が、「平気で動物を ころせる」ということなのです。ただ、たくさんの肉食者は、その事実を 無視しているだけのことです。

 やはり違和感は拭えず。
 「わたしは平気でころせますよ」というところにも違和感。食肉のことで意見して一般はどうあるべきかを説いているのに「わたしは」という個人の見解を強調するのは違うような。しかしここをつつくのは失礼かと思い、胸にしまう(ここで吐露してすいません)。

 拭えなかった違和感を強引に納得させようともう一度コメントしてみた。

>平気で肉を たべていること自体が

 平気ではなく、苦しみながら食べているかもしれませんよ。
 それとも「最終的に美味しく頂いちゃっていること」=「平気で殺すこと」という意味ですか? (それなら納得します)


 ところで、屠殺場で殺されゆく豚を見ている少年が目を輝かせている場合(小学生くらいの子供は動物の死を面白がる場合があります)、それを肯定しますか? 窘めますか?

 返答は次の通り。

もちろん、「苦しみながら食べている」ひとも いらっしゃるでしょう。ひとそれぞれですからね。

「屠殺場で殺されゆく豚を見ている少年が目を輝かせている場合」、わたしは肯定します。屠場を 自分たちの生活から とおざけなければ、それが ふつうの反応になると おもっています。

「かわいそう」という感覚は、かなり現代的なものだと感じます。

 こちらからの質問が趣旨と違ったので批判するのもズレてるので、これは独り言だが――そいつは違うといわせてもらわなければならない。屠殺場で目を輝かせている子供は、殺しそのものへの興味を抱いているのであって、食べることは度外視している。食肉でない場合の殺しと同じ地平での興味を抱いているのだ。食べるつもりもないのにカマキリやセミを分解する子供の無垢な残虐性のことだ。その目の輝かせ方は倫理にもとるのだよ、と大人は諭してやらねばならない。(独り言、おしまい)

 実は、目を輝かせている子供うんぬんについては、『戦争における「人殺し」の心理学』という本にあった状況を流用している。

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

 この本には、人間が持つ本能的な殺害への嫌悪が記されている。食べるという本質的な目的があっても殺しは嫌悪を伴うのだとある。この本では、子供は屠殺を実行する大人達に叱られる。屠殺される家畜を「かわいそう」と思うことは現代に限ったことではない。むしろ「かわいそう」と思わないことは、よほどせっぱつまっている状況を思わせる。我々は原始時代にいて精力的にマンモスを狩っているのではない。


 hituzinosanpo氏は、コメントで次のように念押しする。

わたしは この記事で「肉食は わるいことだ」と いいたいのではないのです。自分で ころせないなら、たべない。それが人間として、当然の倫理ではないだろうかということです。

 自分で殺せないのなら食べない。殺せるのなら食べていい。
 その倫理観や責任感は理解できるが、極端だと思う。人間は欲深い生き物であり、生きることを肯定し、食べることが悪ではないと認定する以上、「美味しいから殺すのに賛成!!!」が本音。この本音をあまり正面に出し過ぎると悪のりしてしまう。欲深き生き物が悪のりしないよう欲を制御するために、屠殺を躊躇うのなら意味はある。躊躇いながらも、しかしお前(美味しい黒豚ちゃん)を食べたいから殺す、と覚悟を決めるのはよろしいが、その思想を「へいきでころせるようになるよう」にと薦めるのはいかがなものか。言葉が乱暴では思想も乱暴に聞こえますし、なげやりに思われます。

 極端でなければ、私も氏の意見に賛成です。(それはこのエントリを書いていて見えてきた)

 と、私はいいたかったのだが、コメントで連ねるには長いと思いここに綴りましたとさ。


 一瞬、エントリのタイトルの頭と日記のタイトルの尻がくっついて、「肉じゃがをたべたいというのは、動物を ころしてでも たべたいということだ」と読んでしまい、「賛成!!」と思って開いたのは秘密です。