セキセイインコのセイテキコウフン

 ペットを飼うことに否定的な意見を持つのは、単純に彼の世話をするのが億劫だからだ。糞便が汚いということもあるし、餌をやる出費のこともあるし、何より、死なれては気分が悪い。あるいは病的な強迫観念のせいでもある。籠に入れられている鳥、ケージをうろつくハムスター、綱で繋がれた犬は即座に私の心を不自由の三文字で苦しませる。彼らは望んでそうしているのだろうかという問いは私自身へ向けられ、世界の広さをいとも容易く忘れてしまう。某かの縄に繋がれたものが、また某かの首に縄を付ける閉塞感が世界を締め付け、息苦しくなる。動物園の狭い敷地を行きつ戻りつしているシロクマはノイローゼを患っているのだろうか。
 早い話が私自身の心の問題であり、すでに飼われている動物に対して憐憫の情を抱くというのではない。寂しい人生の慰みに愛玩動物を持つというのはよく分かる話であるし、すでに飼われている動物は、飼い主の庇護を離れて生きるべきではない。庇護を失った動物が路上でのたれ死ぬことなどあってはならないし、逞しく生き延びられても社会問題となる。互いに有益な共存関係を築けている例はごまんとあるだろう。しかし私は妹がペットショップで買ったハムスターが翌日には死していたことを思うとうんざりする。もとより某かの病を患っていたのであろうその小動物の震えていた様、無気力な様がプラスチックのケージの内側で閉じる、これが人生か。息を引き取る以前も以後もゴミのようであり、それならば生命ははじめからゴミなのかと鬱屈した気分を抱える。嫌なものを見たという負の感情ばかりが残り、ペットを飼うべきではないという自説が強度を増す。
 
 
 
 冒頭の《ペットを飼うことに否定的な意見を持つ》というくだりに主語が抜けているが、補うとすれば当然のごとく《私が》とくるし、もっと正鵠を射るならば《私が私の家庭において》となる。他人様の家庭へ意見するつもりは毛頭ない。このような考え方をする長男を持つ家庭には、しかし、動物好きの妹がいて、小さなペットを幾度か飼ってきた。はじめに飼った二匹のハムスターに妹が付けた名はもはや忘れたが、母と私で付けた名前ならば覚えている(ボンレスとハムだ)。これらが命を全うして、次に飼ったのが病弱なハムスターであった。餌に口を告げず、水も飲まず、一日で衰弱死してしまった。それからずいぶん経って、どういう経緯があったのか知らないが、私が家を出ているうちにインコが一羽、家族に加わっていた。このセキセイインコには「ふうちゃん」という名が付いていて、普段つっけんどんな態度しか取らない妹がこれに話しかけるときは電話に出るときと同じで別人の声になる*1。断言してもいいが、妹にもし子供が出来てもあのような声は出さないだろう*2。それにもかかわらず妹は名前を覚えてもらえず、セキセイインコはその舌で、その喉で、「オカーサン、オカーアーサン」と喋る。
 
 
 
 愛玩動物の飼育に反対である! などと叫ぶ兄も、飼う以前までのことであって、飼い始めたならば掌を返したように夢中になる。ほとんど面識のないこのインコがなぜ私を好いて肩に止まりに来るのかは今も分からない。父の肩も好いていたので、インコの好む成人男性に特有の匂いでもあるのだろうか? ともかく、このインコは爪が好きで、手にとめてやれば私の親指をつつきはじめる。タイソンばりのウェービングをこなす彼は私の親指を右側からつついていたかと思えば次の瞬間には左側からつついている。そして喉の奥に溜め込んでいた餌をまき散らす。妹の言によると、自分が魅力的なオスであることをアピールしているのだそうな。餌のプレゼントはすなわち求愛行為であった。彼は私が靴下を脱いでいれば足の親指にプロポーズすることに余念がなかった。
 「ふうちゃん」のことを私は「ふうのじょう」と呼んでいた。漢字を当てるなら「風之城」のつもりだったが妹には「風の嬢」と聞こえていたようで、「ふうちゃんは雄!」と何度も言われた。
 
 
 

 
 
 
 ふうのじょうは、今は家にいない。妹と一緒に上京していった。妹の勤め先はペットショップだ。名前は忘れたが大きな鳥がいて、それを腕にとめると腕に痕が残り、家庭内暴力でも受けたような有様になっているが、動物好きの当人は気にしていない。時折、ふうのじょうの写メを送ってくる。私が貸してやった『アクロイド殺し』を踏みつけにしているインコの写メは、私の携帯電話のメール送受信時の画像に設定されている。同僚とシェアしている部屋には猫もいるそうだが、本当に大丈夫なのだろうか、ふうのじょうは。
 
 
 
 さて。こうして動物をそばに置く楽しみに触れても、動物を飼いたいという気にはなれない。ふうのじょうを籠に戻すときに手間がかかったし、抵抗されるのは不愉快だし、籠の中から出たそうにしているのを見るのは忍びない。かといって、籠の外に出しっぱなしにしてもいられない。いっとき、私は、飼うなら豚がいいと思って調べてみたことがあったが、発情期に悲痛な叫びをあげるという話を目にするといっさんに意欲が失せてしまった。異性のもとへ行っておいでよ、と尻を叩いて送り出したくなる私にはとても耐えられないだろう。

*1:豹変するとも猫可愛がりするともいえるが、鳥が豹や猫を前に安心するとも思えないのでこの表現は避けておく。

*2:孫ができたら、話は別だと予想する。