近くて遠い二人の距離を

 
 書くことを控え、推敲に没頭していると、最近曖昧になっていた読書の美的感覚が蘇ってきた。これがあるから僕は小説を読むのだなという感覚。
 
 それはそうと、自筆の小説を推敲していると、ここぞという結びの場面で「遠くて近い」という表現が出てきて、僕は軽く吹き出した。吹き出してしまったのは、それが滑稽な表現だったからではなくて、二度目だったからだ。以前にもすでに使ったことのある表現だったのに、二度目のときはそれが二度目だと気付かないまま、うむ、これはよい言葉に巡り会えた、などと思っていたのだ。(未だ書かれていないものは無限定であると同時に記憶に残りにくく、容易く失われてしまう。その一方で、書かれたことは記憶の凝固と忘却の両方だ。気体のように自在だったイメージが凝固して結晶化し、形あるものになるのだが、同時に脆く崩れやすい物になり、やはりというか、容易く崩れ、都合よくというか、無責任にも、忘却してしまう)
 
 初回も、二度目も、それは別れを目前に控えている互いに親密な男女の心情表現に用いられた。ただ、「近くて遠い」という言葉を当てられた二つの関係は別個の意味を持っていた。
 
 初回では、男女は互いを好いていて、興味を持ち合っていたが、破局ははじめから定められていた。男は旅人で、滞在に期限があった。その期限を目前に控えていたため、二人は、今はまだ「近く」に相手を認められているが、もうすぐ離ればなれになり、相手を「遠く」に感じるだろう。もう会えなくなると思えばこそ相手を近く感じるし、もう会えなくなるからこそすでに遠い存在になろうとしているようにも感じる。
 
 二度目にこの言葉を用いたときは、また少し違っていた。女は男に対しドライな感情を抱いているが、男は女に対し湿っぽい感情を抱いている。そして男は画家で、女をキャンバスに捉えきることを目標としていた。彼はそのために彼女に近づいていった。そうやって彼女をよく知ろうとしていた。しかし、最後の最後に、近づきすぎていたことを悟る。近くなければ見えないことがあるだろう。しかし距離を置いてはじめて見えてくることもあるだろう。「近くて遠い」距離が、彼には必要だった。画家はついに彼女を捉えることを諦め、筆を下ろす。途端に彼女がまったく知らない女に見えてくる。絵を描く時間が失われたその時になって、彼は彼女の全体を捉えるコツを掴む。彼はそうやって、彼女と別れるその直前にはじめて彼女を知った。(男は別れて数ヶ月後に絵を完成させて女にそれを送る)
 
 こうしてブログに書いた以上、うっかりと使ってしまう三度目はないと思うが……
 もし次があるなら、「近くて遠い」ではなく、「遠くて近い」関係があってもいいのではないか。
 ――と思った矢先、自分がもうすでにそれを書こうという気になっていることに気付いた。