人は常に過去を生きている――のか?

 人は過去を生きている。


 光がいかに速くとも、ほんの僅かであれ時間を要する。
 目の前のものは、その「ほんの僅か」過去の出来事。


 それはさすがに極論だし、発展させるに足る魅力もない理屈だ。


 しかし、脳神経は駆け回り情報を伝達するパルスも同様。
 その結果なのか、人の意識は目の前の出来事よりも若干遅れる。
 その若干というのは、具体的にどれくらいなのか?
 ソースを忘れたので分からない。
(とあるトンデモ格闘漫画では0.5秒となっていた)
 が、この理屈すらどうだっていい話だ。
 情報の処理速度には限界があるのだから仕方がない。


 しかし、しかし、人は「今」を体験するやいなや「過去」として即座に再体験しなおそうとする性質を備えている。らしい。(こちらのソースも失念した)
 この「今」=「過去」の働きが誤作動を起こすと
 「過去」=「今」となって既視感が生じたりするらしい。


 数分前でも、過去は過去で、「今」にかなり近いところにあるその体験も、記憶のされ方と回想のされ方次第で密度がまるで変わってしまう。
 つまらない日常は意外と長く感じる。それは「今」を長く感じているということ。
 しかし冗長なはずの一日が積み重なっているはずの一年は、あっという間に過ぎてしまったりする。思い出すべき過去の密度が薄っぺらだからだ。



 三連休だった。
 今日はその最後の休日だ。
 初日と二日目はあっという間に過ぎた。
 時計を見張っていればよかった。
 これといってあとに残ることをしなかったから、ないに等しいのだ。
 物理的には平常時と同様に時間が流れたはずだし、実際、初日も、二日目も、過ごしていたときはごく普通に過ぎていったように思われた。
 しかし、思い出そうとするやいなや、「あっという間に過ぎた」という感想が導かれる。
 体験に密度を設けることは、急流の川に碇を降ろすことに似ている。
 三日目は碇を降ろしてみた。
 あっという間に過ぎることがないように。
 思い出したときも、「あの休日はゆっくりと過ごせた」と思えるように。