多忙であると推測される

 七月に入って所属する部署が変わり、検査員のやうな立ち位置からクレエム対処係のやうな立ち位置へ変わつたことで、出勤時刻も午前六時であつたところが午前八時になつた。夜勤もなくなつてしまつた。周囲はそれで楽になったであろうと私の肩を叩く。さうであろうか、と私は首をかしげる。曲がりなりにも、と付け加えなくてはならぬところが寂しいが、かつての部署は二勤制であつたから、交代が来れば帰られる理屈であるし(無論、理屈の上の話に過ぎぬのであるが)、夜勤であればなおさら確実に帰られたものである。しかし今は区切りが見えぬ。昼食の時刻も曖昧であるし、気を遣う人たちとの食事はどこへおさまつたのかよく分からず食べた気のしないのである。昼休憩も、あるのか、ないのか分からず、実質、昼食を摂取している二十分ばかりが一日のうちの唯一の休息となる。その日の仕事の区切りともなれば、いつそう曖昧であるから、いつになれば帰つてよいものか途方に暮れる。なにぶん、私には仕事があってないようなものであるから、終わらせるべきものを持っておらず、なかなか去ることのない先輩方の顔色をうかがうばかりで時は過ぎてしまふ。また、いざ仕事となれば、まだ何も知らぬ若輩者ゆえ、思案ばかりに時間を食う。懇切丁寧に仕事を教えてくれるものはおらず、いわく、とにかくこなせ、こなせるようになれば、できたということであるし、これからもできるということであるそうな。南無……。
 先々週のことと思ふ。今日の仕事はそれだけである、と手渡されたクレエムの、とても情報とは呼べぬやうな断片を手がかりに仕事をした。先輩いわく、俺ならば二時間で終わるという内容。私は十二時間経つても半端な仕上がりであった。かようにして私は給与泥棒を生業としている昨今である。えへん。
 それにしても奇妙なのは、報告書の文章である。断言、明言はことごとく避けられよと教えられ、私は困惑するばかりである。なるほど、現実というものは学校の試験のやうに答えは一つとはゆかず、様々な原因が様々に影響しあっているものであるし、また、責任というものも、晴れた日の海原に浮かぶ玩具の船のやうにゆらりゆらりと揺れては一つの場所に留まることを避けるものであると考えられる。たとえば製品に生じた一つの瑕疵についても、原因は究明しなければならないし、次回の生産において同じ不良を出してしまっては証券に翼など生えて飛んでいつてしまうやもしれぬから、ほぼこれに間違いはあらじというところまで突き止めるのであるが、書面には必ず、推測されるというやうな言葉を用いてお茶を濁さねばならぬと推測される。いとおかし。さうして報告書を作成していると妙な気分になつてくる可能性が高い。また、これは卒論を書くにあたつてもしばしば注意を受けたことであるが、大きな違いが見られた、などと書こうものならばスカンクに屁をひつかけられたようなしかめつ面になつた先輩に阿呆呼ばわりされると思われる。大きな違いがあつた、ではなく、大きな違いが見られた、と、表現をぼかしたつもりになつてみても根本で大きな間違いがあると推測される可能性が高いのである。いわく、大きな違いとは何であるか、なにをもつて大きいとするのか。では、かういうとき、どうすればよいでありませうか、と尋ねると、許容範囲なる語ありけり。あ、はあ、さうでありますか、といつてよいかは場合によりけり。しかし、また別の機会になつて、大きな違いは見られなかつた、と記した私は、またスカンク顔を拝むことになると承知しつつも、他に適当な言葉が思いつかず、当たつて砕ける可能性が高いと思われるが、しようがないためそのまま提出し、指導を待つた。果たして、果たしてのスカンク顔であつた。差がなければ差がないと記すか、許容範囲に収まっているとすればよいといふ。あ、はあ、さうでありますか、とこころでいふ。しかしよく分からない話である可能性が高いと推測されると思われる。差がないと記してしまえば、え、おまえ、〇・五の差があるではないかと指摘される可能性もないとは言い切れない可能性が高いのであると考えられる可能性があると思われる。問題ないと思われると記してしまえば、やい、こんちき、問題がないと思つた根拠を書け、といわれることが推測されると思われる可能性が高いと考えられる。許容範囲内であるため問題ないと思われると書く場合も同様で、では誰がこの許容範囲を定めたのか、どういつた基準で許容と見なしたのか、と揚げ足を取られないとも限らないと思われるため私は足をさつとひつこめて重心の前にくずれたるスカンク顔に膝など打ち込んでやると上出来であると推測されるが、その根拠は薄氷よりも頼りない薄さというよりはまったくの零であると断言できる可能性が高い。そこで私が思つたことの結論といたしましては、論理的な文章であることよりも、まず論理を支えている水準を把握することが肝要であるといふことである。
 最後に、余談をば。断言、明言を避けるべしといふ教えを受けたが、私には、可能性があるおよび推測されるという言葉にも断定的な姿勢を感じざるを得ないのである。断定的と書いてエラソーとルビをふつてやりたいところである。私の考え方といたしましては、「可能性がある、はず」および「推測される、かも」と用いることで問題ないと思われる。断言、明言を避けると言い張つておきながら、胸を張つてエラソーな言葉を使った後、唐突にしおらしく肩をこぢんまりと狭くし、自信の足りてないやうな臆病な目線で訴えるのが評価される可能性が高い……かもしれないし、そうでないかもしれない可能性も推測されるはず……といえなくもない、かも。