スピッツ・オン・ザ・ロック

 オンザロックで喉に流し込むアルコールのように。
 スピッツのロックを味わう。
 このシアワセを共有したくて、日本で活動するロックバンド、スピッツのロックに傾いた曲から10曲選んで紹介したい。
 とはいえ、普通に選んでも数が多すぎる。選曲の基準を決める必要がありそうだ。
 
 スピッツはアルバム『ハヤブサ』を境に以前と以後に分けられる。ハヤブサ以前であればアルバム『惑星のかけら』がもっともロックに傾いているものと思う。ハヤブサ以後となればアルバム『ハヤブサ』はもちろんのこと、それに続いて出されたアルバム『三日月ロック』も名前の通りロックに傾いている。となると、これら三つのアルバムに収録されている曲が大部分を占めてしまうわけだが、そうなるとつまらないので『惑星のかけら』は敢えて除外しておく。『ハヤブサ』『三日月ロック』からもそれぞれ二曲に絞り、残る六つの席は他に譲ることとする。
 また、なるべくハードテンポな曲か実験的な曲を選ぶようにする。これによりスピッツの「お馴染みのあの感じ」と「新奇さ」のバランスが得られると期待する。
 あと、僕はぶっちゃけ音楽のことは分からない人なので、音楽理論のことは期待しないように。
 
 

待ちあわせ

 

 
 某アニメソングが「一万年と二千年前から愛してる」と歌うずっと前から、スピッツは「そして君は来ない 百万年前に約束した場所へ」と歌っている。数字の電波強度がいい勝負。
 初期のスピッツには珍しい攻撃的な音楽だが、彼女が「百万年前に約束した場所」である「待ちあわせの星」へ来ないんじゃ、叫ぶしかない。
 
 

たまご

 

 
 アルバム『空の飛び方』で一番バッターを務める『たまご』は、歌詞がよく分からない。考えたら負けなのだが、少し考えて負けてみよう。
 「涙堪えて」るぐらいだから涙ぐんでいるのだろう。三日月の夜が「バナナ浮かぶ夜」と表現されるぐらいには、目の前が釈然としていない。何があったのか知らないが、現在進行形で「削られ」ていることから、くたびれてボロボロのようだ。状況設定はそれで十分。大事なのは「ぼろ布みたいな僕を抱き寄せ」てくれた「君」の存在だし、「君」と交わした指切りげんまん。「絡めた小指で誰も知らない約束」の中身はもちろん明かされていないが「君と僕のよくある秘密」だから大きなことや特別なことではない。それは、たとえるなら二人で産み落とした「たまご」。しかし、今はまだ秘密で、二人の言葉の上や想像の中にしかないことも、温めているうちに実現するときが来るだろう。「いつか生まれ出すヒヨコ」も同然なのだ。
 
 

トンガリ’95

 

 
 アルバム『ハチミツ』に収録されている『トンガリ’95』はスピッツのテーマソング的存在。
 アルバム『ハチミツ』といえば『ハチミツ』『ルナルナ』『涙がキラリ☆』『ロビンソン』『愛のことば』『あじさい通り』etc...と名曲揃いのアルバムだが、その中で異彩を放っているのが『トンガリ’95』だ。はじめて聴いたときは珍曲でしかなかった。歌詞は意味不明だし、サビは「とがっている」の連呼だし。ところが今では涎が出るほど大好き。抽象度の高い歌詞は言葉じゃなくて音楽としての力を持ち、なんだかよくわからないが「あるある」感覚に引きずり込まれる。この曲はもしかして僕のことを歌っているのか、とか思い始めたら要注意。スピッツの魔力に取り憑かれてしまっている。
 
 

8823

 この曲を作ることが出来たから、スピッツは新生スピッツとして生まれ変わった。
 世間の求めるスピッツ像を克服し、スピッツのメンバーが求めるスピッツ像を実現させたこの曲の役割は大きい。創作する者であれば自分の作品から「お前は、やれる!」とエールを送られることも多いだろう。スピッツも8823から送られるエールを聞いたはずだ。
 

 惑星探査機の「はやぶさ」とは関係ないが、この動画を貼っておく。
 
 

モリーズカスタム

 

 
 ラジオから流れてきた奇妙な曲は、みょうちくりんではあったが、どこか懐かしかった。この曲はなんだろう、と思っていたら、スピッツだった。マサムネボイスが割れている希有な曲。それが僕と『メモリーズ』の出会い。
 ここで紹介するのは『メモリーズ』とはまた少し違う『メモリーズカスタム』だ。
 
 思い出(メモリーズ)を歌う曲は多数あるが、たいていの場合は思い出を肯定して前進を促すか、もしくは懐古による停滞を物語る。スピッツのメモリーズでは、思い出は「肝心なときに役にも立たない」し「引っ張り出したらいつもカビ臭い」し、しかも「嘘半分」の思い出かもしれない……。更には「嵐が過ぎて知ってしまった、追いかけたものの正体」を「もう一度忘れてしまおう、ちょっと無理しても」と余計な記憶を全否定だ。
 背中を押してくれない思い出なんて、でっちあげの幻想の方がナンボかマシ。懐古に浸っている暇があったなら「明日を描いて」いる方がナンボかマシ。
 
 

エスカルゴ

 

 
 絵に描いたように分かりやすいロックチューン。一つ一つのフレーズが、ゴシック体で書かれる文字のように力強い。依然として歌詞の抽象度は高いが、イメージのなんと鮮明なことだろうか。
 歌詞にある「孤独な巻き貝」がエスカルゴを意味するのだろう。厳しさに傷つけられたとしても、殻の外の世界でしか「巫山戯たギターの音」も「穏やかな寒さ」も舞い散る「枯葉」も「恋の雨」も味わえない。殻の内に留まることを否定して飛び出す先、それはきっと「ざらざらの世界」。
 
 

けもの道

 

 
「東京の日の出、凄い綺麗だな」が歌い出し*1。日の出を見るために早起きしたのだろうか。もちろんそんなことはない。恐らくは徹夜していたのだろう。眠っていない脳みそは朝日の前でナチュラル・ハイ。闇に閉ざされていた世界が陽の光によって色彩と共に意味までも帯びることを知る。そういうときは「昨日の濁りもどこへやら」だし、「冴えない話」にしても「感動しまくり」なのだ。
 人間、きっかけさえあればなんでも出来るもので、じゃあひとつ、綺麗な日の出をきっかけにしてみよう、と僕には聞こえる。(日の出が綺麗なのは東京だけじゃないんだからねっ///)
 現状では難しいことも「諦めないで、それは未来へ」託せばいいのだ。綺麗ではないがしぶとく生きる。これぞ未来を実現するための可能性が「微かに残る」選択肢。それは整備されてはいない「けもの道」。
 何事も大業を為すためには近道などない。いや近道はあるかもしれないし探すに越したことはないが、正解なんて誰にも分からない。だって人生は看板のない「けもの道」。だから遠回りしてしまうことを「怖がらないで」。むしろ回り道するぐらいのつもりで。未知へ踏み出す前の逡巡=「闇の向こうへ手を伸ばす前のまわり道」もお天道様が照らし出す以上、意味はある。
 
 

春夏ロケット

 

 
 死に瀕して見るものは走馬燈。この『春夏ロケット』を聞いて目の前を若かりし日々の春と夏が蘇るのは、それらの日々がすでに死に果てた遠い日の出来事だからなのか。
 それはともかく、脳裏に浮かぶ映像は常に早送り状態。
 
 

孫悟空

 

 
 スピッツの語彙としては、人間を卑下した表現としてイヌやサルを頻繁に使う。
「本当はイヌなのにサムライのつもり」とか。「イエーイ、サルが行くサルの中を」とか。
「すべての魔法が消えていく 能なしの孫悟空さ」と歌うからには、『孫悟空』も同じ意味。
 しかし「人間→サル」では「人間など所詮はサル」と見下している感じがするが、「孫悟空(魔法の使える孫悟空)→人間(能なしの孫悟空)」では、力を失ってからが勝負、と肯定的にとれる。加えて、魔法が使えた頃の矜持を失っていないイメージ。
 
 歌い出しの歌詞「グラスに溢れてる水」のせいなのか、曲全体が溢れだしそうな水がついにグラスを伝って流れ出しているイメージに貫かれている。それは僕の中では、静かだけど熱い情熱として解釈される。どう使えばいいのか分からないのに、力だけが湧いてくるあの感じ。
 
 

どんどどん

 

 
 現時点での最新アルバム『とげまる』に収録。スピッツによる完全セルフプロデュース楽曲。

 はじめて聞いたときはメモリーズに少し似てると思った。ノイジーな導入から、一転して透明感のあるサビ。「流れ星追い越して そのスピード感じてる」まさにそのスピード感覚で、余計なものはすべて置き去りにして、今ここにいるのは君と僕。「終わらないで 終わらないで ……」

 歌詞にある「最高だ思い出すくらい」が「サイコガン思い出すぐらい」と空耳し、手首から先が外れてしまいそうなテンパッてる感じなんだろうと思い違いをしていたが、この楽曲を理解する上では大した問題ではない。
 
 

総括

 
 ある種の音楽にとって歌詞は必ずしも意味を必要としない。極端なことをいえば韻さえ踏めていれば歌詞としての資格は十分ということもある。また別の種の音楽にとっては歌詞が意味を持たないことが重要になることもある。麻薬でラリっている状態――という言い方は悪いかもしれないが――にあると理路整然とした文章の方が不似合いになる。かといってそれは支離滅裂であっていいということではなく、秩序ある輪郭を失った目の前の世界の抽象性を見たまま感じたまま正直に伝えるところに価値がある。
 では、スピッツの歌詞はラリったものの目に映る世界なのか、といえば、そうでもない。歌詞の意味を解釈しようとすると*2、描かれている場面が不連続であることに気づく。一度記憶を喪失し、優先的に思い出されてくる記憶の断片を並べていったような印象を受けた。全部が全部そうだとはいわない。しかし上に上げた曲の多くは、細切れだったり、目まぐるしい早送りだったり、逆に静止画だったり、唐突なフラッシュバックのようであったりする映像を僕に描かせた。余計なことは忘れてしまって、今を疾走し続ける。それがスピッツのロックなのだろう。

*1:ライブでは「東京」が開催地に変わる。上の動画では「埼玉」だ。

*2:頭を使って考えようとするこの行為は邪道かもしれない。しかし歌詞を解釈しようとしないスピッツファンがいるだろうか?