シグルイ、最終巻を待つ

もうすぐ最終巻発売にござりまする

 時は寛永六年九月二十四日、場所は駿府城内、そこで行われる御前試合の第一試合目から物語は始まり、この御前試合に至るまでの経緯を七年前から追随する構成であります。隻腕の剣士である藤木源之介と盲目かつ破足の剣士である伊良子清玄、両者にはどのような因縁があったのかが、話の本筋となります。

シグルイ 1 (チャンピオンREDコミックス)
山口 貴由
秋田書店
おすすめ度の平均: 4.5
5 通常の時代劇ではない
5 文句無しの星五つ
5 剣客愛憎復讐劇
2 非常にレベルが高いが描写が気持ち悪い
4 武士道の体現者の異才と無能、そして美

 長らく愛読してきました『シグルイ』も、とうとう最終巻が発売されるそうです。私がこの漫画を買い始めた時点では、まだ五巻までしか出ておらず、毎度心待ちにさせられたものですが、それもこの度で最後となるようです。風の噂に、第二部があるのではないか、と聞き及んでいますが、さてはて。
 兎にも角にも、最終巻のために読み返してみたところ、この作品はやはりすごい。ヒューマニズムなぞ現代の代物に過ぎぬと知らしめる狂気の一貫ぶりを前にすると、そこで行われているむごたらしさや理不尽に対して恍惚としてしまうほどです。
 

決闘にござりまする

 
 物語の出だしはインパクト十分ですし、この緊張感は余所で味わったことがありません。虎眼流の高弟が謎の剣士に次々と敗北し、藤木源之介が兄弟子の沖津を切り捨て、「虎子の間 まっこと広うなりもうした」と呟く一連の流れは何度読み返したか知れません。虎眼先生が剣を振るう場面は、もうそれだけで華がある。それでも今回注目したいのは、藤木源之介と伊良子清玄が真剣同士で斬り結ぶ決闘の場面です。読んでいるだけで江戸時代の決闘の作法や制度が自然と頭に入ってくる丁寧な造りと、それに相反する凄惨な内容が見事なのですが、いろいろとオタク心をくすぐるポイントがあるので見ていきましょう。
 

虎岩流「紐鏡」


 「紐鏡」という技は、刀身に映る像から背後の様子を知るというだけの技です。しかしこの名前、ニヤリとさせられます。紐は氷面(ひも)の当て字であり、本来は「氷面鏡」で、「刀を氷の面に見立てて鏡のように使う」という意味になります。技名を見聞きしただけでは技の内容が咄嗟には想像できないようになっているところに、刀で食っていく時代の配慮が見て取れてニヤニヤしてしまうという次第です。まあ、紐鏡でも鏡とついている以上、技の内容を連想されてしまいかねないのですが、そこには目を瞑って、ニヤニヤさせてください。*1
 

牛股師範の衝動


 仇討ちの相手、伊良子清玄は強敵。となれば、若先生(藤木源之介)が秘奥を出す展開も致し方なし。牛股師範はそのように覚悟していましたが、当の秘奥を白日の下にさらけ出したのは伊良子清玄の方でした。これは覚悟の範疇外ということで、牛股師範は「この場にいる全ての輩を片端から斬り殺してしまいたい衝動」に駆られました。
 術理の秘匿こそ強さの要であり、奥義が奥義たるゆえんなのです。現代であっても正真の武術の世界では、秘奥とも呼べる核心の部分は信用できるごくごく少数の身内に口伝でしか授けないものです。作中のこの時代ともなれば、牛股の心情は、なにをかいわんや。牛股師範という登場人物の性格を如実に描写しているのでもありますが、この時代の剣士としてごく正当な考え方がさらっと出てきているところに、どうにもニヤニヤしてしまいます。
 

語源の衝突感

 藤木源之介が致命傷を負い、立ち上がれなくなると牛股が乱入します。ここで乱入という語を用いたのは、私が読んでいる最中にそう思ったからです。しかし、実際には、仇討ちの規則として助太刀が認められておりまして、乱入どころかずっと正当な行為だったのです。それにしても、「助太刀」という言葉が本来の意味で用いられている場面に遭遇すると、なにやらどきりとさせられてしまいます。現代でも「手助けする」ということで意味は通じますが、古風な言い回しを敢えてするところに、気取った印象や諧謔らしさが意識的・無意識的に関わらず現れてしまいます。
 それが、作中ではナマの意味で使われています。しかも野試合ではなく公認の立ち会いの場において。文字通り、太刀で助けるのだなあ、などと考えさせられるところまでいくと、そこはかとなくゲシュタルトが崩壊していきます。この衝突感が心地よいのです。
 紐鏡を使った場面でも「まるで土壇場の光景」と評されます。この「土壇場」も、刀で首をはねるこの時代の言葉なのだとハッとさせられます。
 そんなことをいったら、真剣勝負も、文字通り以外の何ものでもないですね。

牛股師範の計略


 さて、助太刀に入った牛股師範は、伊良子清玄の助太刀として参戦した槍の使い手を訓練用の巨大な木刀で撃退し、引き裂いた肉を撒き餌のごとくばらまきます。一見すると、藤木源之介の敗北がほぼ決まったことで乱心したと読み取れますが、実はすべて牛股の計算の内でした。
 一つには「伊良子 今日という日はお主が虎岩流を倒した日とはならぬ そのようには決して記録されぬ 一名の乱心者が掛川領の数多の民を殺戮せし災禍の日 左様に記されるのだ」という牛股師範の発言から分かるように、虎岩流の名を守るための芝居でした。
 伊良子清玄の必殺技「無明逆流れ」は大地に剣を刺してから繰り出す下段の太刀であり、大地に異物があっては成り立たちません。骸を引き裂いてばらまいたのは無明逆流れ対策でもあったのです。生憎と目論見通りいきませんでしたが、策は二重に張り巡らされていました。土と死肉を伊良子清玄にぶつけることで無明逆流れを誘発させ、二の太刀で仕留める算段でした。
 計算とはいっても、常軌を逸した解決方法です。しかし狂気的でありながらも狡知は冷静そのもの、冴え渡っています。この思考回路こそ修羅の道を歩く剣士の姿そのもの。こんな化け物を描けてしまう山口先生に尊敬の念を禁じ得ません。
 

武士道は死狂いなり

 仇討ちは、まさに死闘でした。藤木源之介は左腕を失い、死の淵を彷徨いました。
 伊良子清玄も、七年間の内にいくつもの傷を負い、変わってゆきました。虎眼先生に光を奪われ、牛股師範とのリベンジマッチで片足を引き裂くに至り、暗君 徳川忠長に斬り殺されそうになったストレスで髪が白くなった。
 もはやいかなる結末を迎えるのか想像も付きません。というよりは、想像することを認めない重圧が私の頭を曇らせて、ただ楽しみに待つように促すのみであります。

 虎眼先生、牛股師範、藤木源之介、伊良子清玄の強さの序列が分かりにくい点や、虎眼流が脇差しを抜いて二刀流になるとやたら格好良い点について語りたい気持ちがありますが、今はこの辺りで失礼致します。

*1:ちなみに、紐のついた小さな鏡のことを紐鏡といいます。