断片:自明性の彼方に

 
 彼が部屋に入ると早速靴下を脱ぎ始めた。そして靴下を手につけて私をテーブルへ案内してくれた。私は彼と一緒にテーブルについて、向かい合った。彼は神経質そうに眉間にしわを寄せて痙攣的に動かしていた。彼はうっかりと脱ぐのを忘れていた帽子を脱いで席から立ち壁際の帽子かけに帽子を掛けて鍋を二つ持ってくると一つは私の前に置いてもう一つは頭にかぶった。そのまま席についてまた神経質そうに眉間を歪め、震えさせながら、無言で私を見つめていた。私はちらと彼の持ってきてくれた鍋を一瞥し、さっきの廊下にあった自動販売機で買ったオレンジジュースの栓を開けると鍋の中に注いだ。彼は驚いたように顔をしかめたが、その表情がセメントで固定されたみたいに固まってからは苛立っているように見えたし、実際苛立っていたのだろう。私は更にメロンソーダも栓を開けてから鍋の中へ流し込んだ。ソーダが白い気泡と無数の虫がざわめき蠢くような音を立ててた。私は無言で彼に鍋を押しつけた。片手で押して、彼の胸の真ん前まで送り出した。彼は彼に密着しそうなほど近くにある鍋の中を見つめたので頭にかぶっている鍋が少し歪んだ。それを気にして正しながらも、彼の目はオレンジジュースとメロンソーダブレンドに定まっており、時折不安そうな、神経質そうな眼差しを私に向けたが、その回数が増すに連れて彼の眉間のしわは感覚の神経が剥き出しになったような、熱されてちりちりとするような痒みでも覚えたかの如くしわを帯びて、ついに窮まったといった態度で鍋の両側の取っ手をそれぞれの腕で掴むと、鍋を持ち上げた。十センチほど持ち上がったところで鍋は止まり、その勢いの良さに中の液体が跳ねたが、零れるまではいかなかった。彼は私をまた見た。私の言葉を待っているみたいだった。しかし私が何も言わないでいると、やはり堪えきれなくなったみたいに急性に鍋をあおった。彼が鍋を下ろしたとき、その表情は額だけに留まらず全体で複雑に歪んでいた。多分、ソーダがお気に召さなかっただけだろう。彼は鍋をそっと私に押し返した。私はしかし、その鍋をテーブルの中央へゆっくりと押し戻すと、椅子を後ろに下げてその場で立ち上がり、重心を前に倒して、彼の頭へ二の腕を伸ばし、これまた両端にとってのあるその鍋を掴み揚げ、自然に落下するに任せる勢いで椅子へ尻を落とすと、そのまま鍋をかぶった。真顔で彼を見やると、彼は訝しそうに私を見つめていた。文句の一つも言いたそうに見えたが、彼は結んだ唇を開くことがなかった。私は微妙に急かすように、さりげなくテーブルの中央を見た。彼は気付いて、そこにある鍋を取り、無造作にかぶって、私が三つ呼吸する頃に、慌てたように鍋をテーブルの上に置き、ジュースのブレンドの湿り気を吸収した髪に靴下をつけたままの手を置いた。私を咎めるような、泣きそうな顔をして、彼はむずむずとし出した。
「なぜかぶったのですか?」私が訊く。
 彼は答えない。無口なままだ。
「鍋だからかぶるんだ」と、彼とは別の人がいった。「とうぜんじゃないか。あんた、なにいってんだ」
「しかし鍋は調理器具でもある」
「そりゃそうさ、肉じゃがを作ったりなんかするのはその鍋さ。それで?」
 外では帽子をかぶるじゃないか、同じじゃないか、とでも言いたそうな目をしている。いや、さすがにそれは私の勝手な想像だ。この人はきっとそんな理屈は持ち出さない。頭にも描いていないだろう。ところがこの人は理屈を言った。
「くつをかぶるだろ。それと同じさ」
 私は億劫だったので頷いて返した。彼らは鍋に何も入っていなかったら帽子にでも見えているらしいし、鍋に何か入っていたら鍋として扱うらしい。私は同じような実験をしてみたくなったが、こっちの世界に来て初めての知り合いに好奇心の被験者をやらせるのは分別がないと思ってやめておいた。