真実の在処

ありか - 詩歌ノート - hakoniwaグループ


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 人は皆、よりよきものを求めて旅をしているのでしょう。安っぽいJ-POPが歌うような「退屈な日々」「繰り返しの日常」の檻に閉じこめられてしまった人たちをも、比喩――人生がよりよきものを求める旅だという譬え――は強欲に己の懐へ抱き込んでしまいます。世間の盲目の羊たちを惑わす占い師の口からひり出される言葉のように、曖昧で温い解釈が怠惰に広がって私たちを包みます。出逢いを求めているといわれたなら否定のしようがありません。誰しもが何らかの意味で、ときに良き友を、ときに良き恋人を求めているはずなのですから。
 よりよきものの正体は漠然としていて、人によって形を変えます。満たされた環境では、人はいつまでもごうつくばりで不足に喘ぎますが、乏しい環境におかれてこそ却って心が満たされることもあるでしょう。
 そのよりよきものに真理という名を冠して、これを求め続けている人たちがいます。そういった人たちは人類が心に余裕を得たその瞬間に産声を上げ、真理を求める営みは実に数千年にもわたって今も続いています。しかし未だ真理そのものを手にしたものはいません。
 あるいは真理などないのかもしれません。それが証拠によりよきものに真理という名を与えなかった人たちは名付けた人たちよりも幾ばくかの余裕を心に有しているように思われます。疑問を持たないことは人生から迷いを取り除き、現状が身の丈にあったものと認識させ、ただ生きることに熱中させられるのですから健全だともいえるでしょう。
 しかし誰もが現実にあわせて生きることができるとは限りません。居心地の悪さに目を瞑っていられない人たちも大勢います。このような人たちが真理の探究者となるのです。
 ところが真理の探究も答えのない問いに挑み続ける苦痛を新たに背負い込むことであり、人々を疲弊させます。限られた人生と迫り来る現実のために手近にあるもっともらしい真実に飛びついてしまうのも致し方ないことです。たとえば宗教がそうです。もっともらしい真実が即座にまことのものでないと断言されるのは、少なくとも一つは不明瞭な点を有しているからです。しかしそれを信じる人たちにとってその一点は現実がもたらした居心地の悪さよりもずっと目を瞑るに値するものなのです。痛みを和らげる薬を得た人にその薬を止めろとはいえません。むしろ痛みに耐え続けることの方が狂気的であるのかもしれません。各人の痛みに見合った薬を処方してやる人がいたなら、彼こそ真理探究者よりも尊いといわれるでしょう。この痛みはあまりに鋭く、真理探究者は実に容易く誘惑されるし誘惑に乗ってしまいもするのです。自分ではそうと気付かないうちにです。


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 食事をするアバッキオのテーブルの下でガチャガチャと音がするので覗き込むと、警官が床に散らばったビンの破片を集めている。前夜に側の歩道で強盗があり、被害者はビンが割れるほど殴られたという。警官は粉々になったガラス片を集めて指紋を採ろうとしていたのだ。アバッキオは思わず訊いた。
「犯人がずる賢い弁護士とかつけて無罪になったとしたら。あんたはどう思って…そんな苦労を背負い込んでいるんだ?」
 警官は手をとめて答えた。
「そうだな…わたしは“結果”だけを求めてはいない。“結果”だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ…近道した時真実を見失うかもしれない。やる気も次第に失せていく。大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう?向かっているわけだからな…違うかい?」


 ――ジョジョ名場面50選

 引用はとある漫画の一節です。連載中、多くの読者の目から実際に涙をこぼれさせた名シーンです。


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 それは素朴な美しさを持っていた。特に誰かに語りかけるわけでもなく鎮座する美というものがある。およそほとんどの人が気にかけない。そこに美を見出す私の方が異常なのかもしれない。美を感じている私の方でも、どこかで蔑んでいる。
 水たまりに映った空。時期は夏なのに、まるで秋空のようなそれ。
 綺麗だとは思う。この場に知り合いがいたなら、彼の肩を叩き、水たまりに映った空が綺麗だと教えれば同意してもらえたかもしれない。だが同時に騒ぎ立てるものでないことはよく分かっている。水たまりはどこにでもできるし、空に至っては毎日頭上にある。場所は駐車場であり、灰色の味気ないコンクリートは地味なだけだ。歴代の芸術家が仕上げてきた作品群のどれかに及ぶわけでもないし、昼間には消え去ってしまう日常の風景に過ぎない。恐らくは世界で唯一であろう、これを美だと認識した私自身もまた、これを永久的に保存する術があればよいのに、などとは微塵も考えなかった。
 所詮は水たまりだ。
 だが、やはり美しい。素朴さが心を引いた。
 歩み寄ってみる。間近になると観察する角度が変わり、色あせたフェンスと一日の労働に縛り付けられようとしている私の影が映る。ひびの入ってしまいそうな薄っぺらな水たまりはコンクリートの底をさらけ出し、ひびわれそうなどという比喩の入り込む余地も失せる。
 こんなのはエセだ。失望して引き返す。振り向けば儚げな空が地に張り付いている。ほうと溜息をつく。美しいと告げるのは理性ばかりで、印象は不思議と工場が排出するガスを見つめているときの気分に似る。儚さとエセが美を汚らわしき光景を統合で結ぶ。ちっぽけで人生のよう。またぎ超えたこのガードレールに腰掛けて眺めるものがいなければ誰も価値を見出してはくれない。


 ふっと漫画の一節が思い浮かんだ。《わたしは“結果”だけを求めてはいない》……。あの警官はいった、《向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう?向かっているわけだからな…違うかい?」》……。そうだろうか? 向かうというのは、あの水たまりへ接近することであり、その結末は疲れ切った自分の顔を映し出すばかりではないか? 地べたを這うばかりで、近づけば近づくほど求めたものを見失う。
 その漫画でも、そうだ、個人では届かなかった。いくらかの命を失って最後に主人公が頂点へ至る話だ。人と人の間には受け継がれていくものがある。それは美しいが、裏を返せば、ちっぽけな命一つでは何もできないということだ。違うかい?
 同意してくれる人はいないが、否定する人もいない。
 私は時間が差し迫っていたのでその場をあとにしなければならなかった。しかし、と歩きながら考える。あの美は本当にエセだったのだろうか。私の心を揺さぶったのは嘘だったのか。儚ければ美は否定されるのか。近づけばあの美は確かに失われたが、ではなぜ近づく必要があるのだろう、あの美はあの場所から見られることを望んでいたのに。映ったものであるから偽物だろうか。偽物だというのなら本物は空であり、見上げればそこにある。どれほど手を伸ばしても届くことのない遙かな絶望に隔てられた美しい空だ。しかし侘びしさはあっても儚さはない。映っていたものは単に模写物という立場に留まらない美を有していた。
 《近道した時真実を見失うかもしれない》、近道とは水たまりへ安直に近づいてしまったことをいうのだと私は知る。《大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている》、向かおうとする意志とは水たまりを観察するための適切な位置を求めることだ。それはほとんど彷徨うようであり、意志の灯火を失っては辿り着けない。近づくばかりが真理の探究ではない。恐らく私たちは両腕で空を抱きしめる必要などない。空はきっと見上げるのが一番いい。私たちは苦痛を噛みしめ地べたを這っているのではない。地べた、ここが一番いいと知っていて、ここにいるのだ。

正しき問い方をなさないものは決勝点を見定めておかないで、かってな標的に向かって走る選手のようなものである。彼のすべての努力は単に疲労をもたらすばかりであって、とうてい勝利を贏させはしないだろう。正しき出発点をとらないものは、あたかも誤ったコースに従って走る選手である。彼が一生懸命に走れば走るほど、彼は決勝点から遠ざかりつつあるのである。カントは哲学に正しき問い方を教えたものとして、デカルトは哲学の正しき出発点を見出したものとして殊に賞賛されている。


 ――『語られざる哲学』三木清 (P11)


 真理探究者が求めるべくは地上の真理です。